1-4 想いとともに迷子になる

「つらいと思うけど、そういうことになるわね。明日現れるかもしれないし、現れないかもしれない。次に迷夢蝶が出るまでに一年以上かかるかもしれない。そういう厄介な奴らなのよ、あいつらは」


 男性が発する言葉が、次から次へと慕の心を切り裂いていく。

 いっそもう一度気絶してしまいたいくらいだったが、気絶したところで己が置かれている状況が全て夢になるわけではない。

 先が見えない不安に足元が崩れ、落ち着いていたはずの呼吸がかすかに乱れるのを感じた。


「どう、しよう」


 今は一時的に男性と会話ができるようになっているが、言葉は通じない。

 存在しないはずの魔法が存在しているという点から、そもそも慕がよく知っている世界ではない可能性だって考えられる。


 頼れる人も頼れる場所もない、見知らぬ人に一人きり。


「そんな顔するんじゃないわよ」


 奈落の底へ落ちそうな慕を、ベッドに腰かけた男性の声が引っ張り上げる。


「迷夢蝶にさらわれたのは、あんたの人生で最大の不運だわ。でもね、あんたは完全に運に見放されたわけじゃあないのよ」

「それって、どういう……」


 呆然とした声色で問いかける慕へ、男性は自信に満ち溢れた声で答えてみせた。


「だって、あんたが迷い込んだのはアタシのテリトリーの中なのよ」

「あなた……の?」


 数回瞬きをして、慕は首を傾げた。

 テリトリーというのは、彼がなんとか繰り返している言葉だ。どういうことなのか、いまいちわからないが――彼が管轄している領域というのは間違いないはずだ。

 不思議そうな顔をする慕の目の前で、男性は自分の胸を軽く叩いた。


「ええ。あんたは知らないだろうけど、アタシはこの森の中で一番の魔法使い。アタシの下にいれば、あんたは安全に過ごせるわ」

「え、と……それは、つまり……」

「面倒見てあげるわよ。もう一度、迷夢蝶が姿を見せるときまで」


 彼の唇から紡がれた一言は、慕の目を大きく見開かせた。

 それは――それは、慕にとって非常に魅力的な一言だ。

 今まで生まれ育った場所――いや、世界と大きく異なるここには、慕の居場所と呼べるものは存在しない。家族もいなければ友人もいない、そもそもこの世界の常識すら慕は持っていない。


 ないないづくしの状態にある慕が、一人きりで迷夢蝶が再び姿を見せるときまで生きていくのは不可能に近いことだ。

 しかし、はっきりと安全だとわかっている彼の下で過ごせるのなら、何もかもを持っていない慕でも生きていくことができる。


「その……いいんですか? こんな怪しい子供を家に置いておくなんて」


 先ほど彼自身もそういっていた。慕自身でも思う。

 森の中に突然現れたうえに、気がついたら森の中にいたなんて自称する子供、怪しい以外の何者でもないはずだ。

 戸惑いながら問いかける慕へ、男性は優雅に唇を持ち上げた。


「あら。帰れないと知った瞬間に絶望しきった顔をする子供が、アタシを害せるとでも? 今まで魔法に触れたことすらない、バカラスどもにすら遅れをとるような子供が?」

「え、と、それは……その……」


 言いよどむ慕へ、男性はさらに言葉を重ねる。


「そこまで心配しなくても、あんたのことなら話から害意はないと判断したわよ。迷夢蝶に誘われて迷い込んできたなら、ここのことなんて何も知らないだろうし。そんな子供を放り出すほど、アタシは無慈悲じゃあないわ」


 まあ、無償で助けてあげるわけではないけれど。

 不敵に表情を歪め、小さく付け足された声は慕の耳にもしっかり届いた。

 見る者に嫌な予感を感じさせる笑みを見て、両肩が自然と跳ねる。

 再び怯えの色を見せる慕の姿を見た男性は、くつくつと押し殺した笑いをこぼして慕との距離を詰めた。


「だって、いつ姿を見せるかわからないものが次に出現するまで傍に置くのよ? 対価をもらってもいいじゃない?」

「わ、私、対価として支払えるものなんて何も」

「持ってるわよ、あんたは。アタシに対価として支払えるものを」


 男性は片手をベッドについて、さらに慕との距離を詰めてくる。

 後ろに下がりたい気持ちになったが、慕の背後にあるのは壁だ。これ以上後ろに下がることはできない。

 二人分の体重を受け止めているベッドが軋む音をたてる。


 さらに慕との距離を詰めてきた男性は、もう片方の手を慕の頬に添え、壊れ物に触れるかのように優しく撫でた。

 ばくばくと心臓が嫌な音をたて、すぐにでも逃げ出せと訴えかけてきているのに。


 ――目の前の、薄い青紫色の瞳から目が離せない。


「あんた、さっき言ったわよね? 失恋したって」

「……は、い」


 至近距離で青紫の瞳が笑った。


「アタシはね、それが好きなの。人間が持つ誰かに向けた恋心」


 だから、あんたはそれを対価として差し出してくれたらいい。

 彼がそういった瞬間、慕が何か言うよりも先に慕と男性の間にあったわずかな距離がなくなった。

 唇に何か柔らかいものが触れている。温かくて、柔らかいものが。


(え、もしかして)


 キス、されて――。



「まっっっずい!!」



「……へ?」


 慕が状況を理解するよりも先に、唇に感じていた温もりが離れた。

 素早く慕から離れた男性が苦々しい顔で口元を覆う。まるで心底まずいものを食べてしまったと言いたげな反応に、慕は目を白黒させた。

 驚きのあまり、まともな反応ができずにいる慕を男性が睨みつける。


「あんた……っなんでこんなひどい味がするわけ!? 砂みたいな味じゃない、まずすぎて毒でも食べちゃったのかと思ったわよ!?」

「え、いや、その……」


 相手が嫌な思いをしたのなら謝りたいが、そもそも何が起きたのかよくわからない。

 何が起きたのか、何をされたのかわからない状態では上手く謝ることもできず、慕はおろおろと視線をさまよわせるばかりだった。

 手元に新しいコップを出現させ、勢いよく水をあおってから、男性は深い溜息をついた。


「いくら失恋したと言っても、砂の味はないでしょ……あんた、どんな恋愛してきたのよ……」

「ええと……て、手遅れになる恋なら……?」

「あー……大体理解したわ……」


 もう一度深い溜息をついた男性の手が、ピッチャーの横にコップを置いた。

 その後、ベッドから離れて立ち上がり、未だにぽかんとした顔をしている慕を見下ろした。


「あんたが持ってる恋心がそんな味のするものじゃあ、もらう気にもなれないわ」

「えっ、じゃあ対価になるものは……他に、差し出せるものはないんですけど……」


 いまいち理解が追いついていないが、男性がもらおうとしたものが対価としての価値がなければ、慕は他に差し出せるものを持っていない。


 対価になるものが出せないのなら、ここに置いてもらえないのではないか?


 不安が再び心の奥底から染み出してきて、慕の心を再び満たしていく。けれど、完全に心の中が不安で満たされるよりも先に、男性の声がそれを振り払った。


「本当なら対価をもらうところだけどね。あんたが持ってるのは、アタシの口には合わないし。仕方ないから、特別に対価の件は保留にしといてあげる。あんたが対価を支払えるようになったらもらうけど、支払えないままだったら特別に無しにしてあげるわ」


 数回瞬きをしたのちに、頭がゆっくりと男性が口にした言葉を理解していく。それに伴い、身体から緊張と不安が抜けていくのを感じた。

 そうっと男性を見上げ、不器用に表情を緩めると、慕は男性へ感謝の言葉を告げた。


「その……あ、ありがとうございます。すみません……」

「別に謝らなくていいわよ。それよりもあんた、名前は? いつまでかはわからないけど、アタシのところにいるんだから名前を教えてくれなきゃ困るわ」


 そういわれ、そういえば名前を未だに名乗っていないことを思い出した。

 確かに、彼の下でお世話になるということは一緒に暮らすということだ。一時的とはいえ、名前がわからないままでは生活に支障をきたしてしまう。

 軽く深呼吸をし、自分の胸に手を当て、慕は己の名を告げるために口を開いた。


「湖心慕です。ええと……仲の良い友達からは、慕って呼ばれてます」

「ってことは、シタウが名前ね。結構可愛い名前じゃない」


 慕の名前を繰り返してから、男性は言葉を続けた。


「アタシはフィデリオ・フォリルシャーポ。薔薇の森で一番の魔法使いよ。いつまでになるかわからないけど、よろしくね。シタウ」


 柔らかい声色で告げられた言葉に、小さく頷く。

 帰れるのがいつになるのかわからない、不可思議な世界での生活が始まった瞬間だった。

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