1-3 想いとともに迷子になる
柔らかな紅茶の香りが慕の鼻をくすぐる。
心を落ち着かせるその香りに誘われ、慕はゆっくりと目を開いた。
意識を手放す直前まで痛んでいた頭からは痛みが引いており、走り続けて限界を訴えていた身体も体力をほんの少しだけだが取り戻していた。
全身を優しく包み込む布団とシーツの温もりを感じながら、まだ眠気の残る目を数回まばたかせる。
「……なんだか……ひどい夢を見てた……ような……」
とても小さく吐き出した慕の声は、ひどく掠れていた。
喉もすっかり乾いているようで、全体的に口の中がぱさぱさする。一言発するだけでも喉が貼りつくような不快感に襲われ、数回ほど咳き込んだ。
「水……水飲まなきゃ……」
まだ布団の中にいたいと駄々をこねる身体をなんとか動かし、慕は起き上がった。
そして、いつものように水を飲みに行くためにベッドから離れようと――した瞬間、部屋の中が見慣れた自室とは異なるとようやく気付いた。
ここは、自分の部屋ではない。
慕がよく知っている自室は、幼い頃から大切にしているぬいぐるみを数個ベッドに置いてある。部屋の内装も全体的に女の子らしいパステルカラーでまとめられており、ベッドのほかに勉強用のテーブルや椅子、本棚、テレビなどの家具が設置されているはずだ。
しかし、慕が目覚めた部屋にはそのような家具やぬいぐるみは置かれていない。部屋の壁紙や絨毯も落ち着いた雰囲気の色でまとめられており、女の子らしいデザインの家具や絨毯、色合いは一切見当たらなかった。
「ま……待って、ここ、は……」
全身をとろとろ包み込んでいた眠気が一瞬で吹き飛んだ。
ここは慕の部屋ではない。なら、一体誰の部屋なのだろう。というより、ここは一体どこなのか。
ぐるぐる混乱する頭で思考を巡らせる慕の脳内に、ふっと連続した記憶がよみがえった。
手遅れになった恋。
光る蝶。
喋る三足の鳥。
そして、襲われていた慕を助けてくれた綺麗な炎。
一つ一つ、気を失う直前の記憶をつなぎ合わせていけば、現在慕がおかれている状況が少しずつ理解できてきた。
きっと、助けてくれた男性の目の前で倒れてしまったのだろう。強い恐怖に襲われた心が強制的に慕の意識を刈り取り、今に至ったのだろう。
(助けてもらえた……んだよね。きっと)
鳥たちが逃げていったあと、あの場には慕と助けてくれた男性しかいなかった。
慕を助けて室内に運んでくれたのは、きっとあの男性だ。突然目の前で倒れたのだから、彼にはものすごく負担と心配をかけてしまっているかもしれない。
(とりあえず、お礼を言いにいかないと)
とにかく助けてもらえたのは事実だ。ならば、そのことについて本人へお礼を言わなくてはならない。
男性を探しにいくためにベッドから出ようとしたそのとき、部屋の扉が数回ノックされた。
「あら、目が覚めたのね」
扉の開閉音とともに鼓膜を震わせたのは、己を助けてくれたあの男性の声だ。
声に反応し、音が聞こえた方角へ視線を向ける。開かれた扉の縦枠あたりに寄りかかり、こちらを見る彼は柔らかく目を細めた。
こんなにタイミングよく彼が現れるとは思っておらず、慕は彼を見たまま目を丸くした。
「気分はどう? 何か欲しいものはあるかしら」
「え、と……水、水が飲みたい……です」
あまり咳き込まないようにするために、小さな声で男性の問いに答える。
男性は「水ね」と呟くように返事をすると、ベッド傍のサイドテーブルに置いてあったガラス製のピッチャーを手にとった。
水を入れにいくのかと思いきや、男性が手にとった瞬間、空っぽのピッチャーの中で何かが光を反射した。次の瞬間、ピッチャーの底から水が湧き出し、数分もたたないうちにピッチャーの中を満たした。
現実的に考えるとありえない光景を再び目にし、慕はぽかんと口を開けた。
「……あんた、本当に魔法をはじめて見たみたいな反応するのね。こんな生活魔法、珍しくもなんともないでしょう?」
「え、いや……その……」
「ほら、水よ。飲みなさい」
男性が若干訝しげな顔をしつつ、ピッチャーの傍に置いてあったコップへ水を注ぎ、慕へ差し出した。
彼の視線に少し怯えながらも、差し出されたコップを受け取って口をつける。
きんと冷えた水は乾いた慕の喉を通り抜け、乾燥した喉を潤わせていく。コップ一杯分の水を飲み終える頃には、貼り付くような不快感はすっかりなくなっていた。
空っぽになったコップを両手で持ったまま、数回深呼吸をし、わずかな恐怖心を飲み込んで慕は再び男性を見た。
「あの……助けてくれて、本当にありがとうございました。おかげで死なずにすみました」
「ま、アタシもアタシのテリトリーで誰かに野垂れ死なれるのは嫌だしね。あんたが無事でよかったわ」
そういって、男性は表情をわずかに緩ませた。
しかし、それも一瞬のこと。慕が瞬きをした瞬間には、再び先ほど見せた訝しげな顔に戻っていた。
「それよりも……あんた、いろいろと気になるのよね。アタシが魔法を使ったときの反応といい、あんな場所でバカラスどもに襲われてたことといい。不用意に森の中へ入るなって言われてなかったの?」
ぎくり、と身体が跳ねる。
どこから来たのか尋ねられるだろうと思ってはいたが、いざ尋ねられるとどう説明したらいいのかわからない。
(ありのままを答える?)
町を歩いていたら、いつのまにか森の中にいました――なんて。あまりにも現実味がなさすぎる話だ。
それで信じてくれたら助かるが、信じてくれない可能性のほうが圧倒的に高い。慕だって、どこから来たのかわからない人物が突然そのようなことを言い出したら怪しむ。
だが、他にいい言い訳も見つからない。
正直に話すか否か、なかなか結論を出せずに思考だけがぐるぐる巡る。
「……言いにくいのかもしれないけど、さっきも言ったようにここはアタシのテリトリーなの」
やがて、しびれを切らした男性が溜息混じりに言葉を吐き出した。
瞼を半分まで下ろし、腕組みをして、訝しげな視線で慕を観察しながら言葉を続ける。
「アタシ、できるだけ自分のテリトリーは安心して過ごせるようにしておきたいのよ。はっきり言って、あんたはアタシからすると怪しい子なのよ」
「それは……なんとなく、わかります……」
「そう、良い子ね」
一瞬だけ男性の表情が緩む。
だが、再び視線が訝しげなものに戻り、慕の肩が再び跳ねた。
「だから、できれば全部話してほしいのよ。包み隠さず、あんたがこの森に入った理由と経緯を」
数分の静寂が室内を満たす。
時間にするとたったの数分だが、慕にとってはこの数分がとても長い時間のように感じられた。
大きく深呼吸をし、未だ渦巻く不安をいくらか吐息とともに吐き出し、慕は結んでいた唇をそっと開いた。
「……信じられない話、だと思うんです」
そう前置きをし、慕は自分がこの森の中にいる理由を話し始めた。
――彼の言葉に従って、包み隠さず、全てを。
「私、こんな森の中じゃなくて町の中にいたはずなんです。ちょっとショックなことがあって、一人で道を歩いてたはずなんです」
「ショックなこと?」
「はい。その……ちょっと失恋しちゃって」
力なく笑い、慕はさらに話を続ける。
話すたびに少し前までは目にしていたはずの生まれ育った町の景色が蘇り、慕の心を不安と心細さで締め付けた。
「そうしたら……光る……そう、光る蝶を見つけて」
ぴく、と男性の指先がかすかに動く。
「その蝶を見て……すごく綺麗だなって思って……なんだかすごく追いかけたくなって……。それで、追いかけて、気がついたら……」
「この森にいた……ってところかしら」
慕は小さく頷く。
改めて自分で話してみて思ったが、あまりにも現実味がない話だ。嘘をついていると思われても仕方ない。
「私がいたところは、魔法は物語の中にしか存在しないもので、実際に使えるものじゃありません。言葉も、多分あなたが使ってるものと違う……。何もかもが、私の知ってるものじゃない……」
「……ふぅん。だから、魔法を見たときにあんな反応をしたってわけね」
納得したような声で呟き、男性はもう一度息を吐き出した。
浮かべる表情に訝しげな色は見当たらなかったが、かわりに気の毒そうな――こちらを気遣うような色が見えた。
(もしかして……信じて、くれるの?)
目を丸くする慕へ、男性は告げる。
「あんた、
聞き慣れない言葉は、一瞬だけ慕の処理能力を遅らせた。
迷夢蝶――というのは、あの光る蝶の名前だろうか。
「迷夢……蝶?」
「たまに出るのよ。どこか遠い場所から人をさらってくる、妖精の一種ね。あいつら、姿を見せては人を迷い込ませるくせに、いつ出るかとかは決まってない面倒な奴らなの。あんたも災難だったわね」
「え――」
「あいつらがまた姿を見せたら、あんたがもともといた場所に帰してあげられるかもしれないけど……」
どくり、と心臓が大きく跳ねたのを感じた。
姿を見せた際に人を違う場所へ迷い込ませる蝶。あの光る蝶の正体を知れたのは助かるが、続いた言葉は慕にとってひどく残酷なものだった。
いつ出現するか決まっていない――ということは。
「……帰れ、ない……?」
慕の意思で慣れ親しんだ町へ帰ることができないということだ。
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