1-2 想いとともに迷子になる
「あっつい!」
「熱い!」
炎の壁の向こう側で、ぎゃあぎゃあと鳥たちが叫ぶ声が聞こえた。
突如現れた炎の壁は、火種になりそうなものもないのに慕を守るようにそびえ立ち続けている。
触れるもの全てを飲み込む暴力的な炎は、本来であれば恐ろしいもののはずだ。しかし、青々と燃え盛るその炎は、なんだかとても美しいものであるかのように見えた。
「ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあと……うるさいのよ。このバカラスども」
呆然と炎の壁を見つめる慕の耳に、男性の声が届いた。
声の主は、土や草花を踏む音を奏でながら慕へと近づいてくる。ゆっくりした動作でそちらを見やれば、ふわりと揺れる優しい紫色が見えた。
迷いのない足取りで姿を現したのは、一人の男性だ。ライラックの花を思い出させる優しい紫色の髪は彼が一歩を踏み出すたびに軽やかに揺れ、切れ長で涼やかな印象を与える目は薄い青紫色に染まっている。
ファンタジーの小説や漫画に登場する貴族を思わせる豪奢な衣服と装飾で飾られた帽子を身にまとった彼は、慕を背後に庇う位置で足を止め、足元を飾るヒールでざりりと土や草花を踏みしめた。
「ここはアタシのテリトリーだって何度言ったらわかるのかしら。この間も、ぎゃあぎゃあ騒ぐなって言ったばかりだと思うんだけど?」
吐き出す息とともに言葉を紡ぎ、男性は鬱陶しそうに片手をひらひら動かした。
直接触れていないのに、彼の手が炎を振り払ったかのように炎が揺らめき、炎の壁は崩れ去っていった。
慕からは目の前に立つ彼の表情は見えないが、不機嫌そうな顔をしているだろうことは声色からも十分読み取れた。
「しかも、武器も持ってない女の子を追いかけ回して……傷まで作ってるじゃない。武器も持ってない人間を追いかけ回すなんて卑怯だと思わないのかしら」
相変わらず、慕には彼らが話す言葉が理解できない。
しかし、ちらりと一瞬だけこちらを見た薄い青紫色の瞳には気遣うような色が宿っており、気遣われていると予想ができた。
「そいつ、俺たちの獲物!」
「獲物!」
「そいつ、抵抗した! 生意気!」
羽の一部を焦がした鳥たちが抗議の声をあげる。
それに対し、男性はもう一度深い溜息をつき、先ほどと同じように手をひらひらと動かした。
「いきなり襲われたら抵抗するに決まってるわよ。あんたたちのことだもの、どうせいきなり襲いかかったんでしょう?」
ざり。
男性が一歩前へ踏み出し、腕組みをする。
慕が直接目にすることはできないが、男性は今、見る者に嫌な予感を感じさせるうっそりとした笑みを浮かべていた。
「アタシ、今とっても機嫌が悪いのよ。せっかくのティータイムをあんたたちに邪魔されて。これ以上アタシのテリトリーで騒ぐんだったら、うっかり手が滑ってあんたたちを丸焼きにしちゃうかも」
ぴぎゃあ、と悲鳴に近い声が鳥たちの喉からあがった。
言葉の意味は理解できなくても、鳥たちにとって大変恐ろしいことを口にしたのだろうと慕は予想した。
その予想は的中していたのか、鳥たちはますます抗議するかのような声をあげている。
「野蛮! 野蛮!」
「フォリルシャーポ、野蛮! 人でなし!」
「……本当にうるさい奴らね。今すぐ丸焼きにしたっていいのよ」
男性が片手の手のひらを上にし、ゆっくりと顔の高さまであげていく。
慕が瞬きをした瞬間、彼の手のひらの上に熱の花が咲いた。先ほど目にした壁を構成していたものと同じ炎が彼の手の中で燃え盛っている。
それを目にした瞬間、鳥たちはひときわ大きな鳴き声をあげたあと、急いで来た方向へ振り返り、そのまま飛び去っていった。
その場に残ったのは、慕と慕を助けてくれた男性だけだ。
「全く……本当に手のかかる奴らなんだから」
深い溜息をつき、男性の手が小指から順番に握り込まれていく。手のひらの上で咲き誇っていた炎は握りつぶされるかのように消えた。ちらりと見えた彼の手元は、火傷を負っている様子は一切なかった。
次から次に目の前で起きる魔法としか思えない光景は、慕の視線と思考能力を奪うには十分すぎる。
とても綺麗だった。
おそらく彼が作り出したと思われる炎の壁も。
鳥たちを追い払うために灯してみせた同じ色をした炎も。
そして、その炎を作り出せる男性自身も。
本来ならもっと警戒し、恐れるべきだろうに、そんな気持ちが消え去るほどの美しさがそこにはあった。
「で、あんたは大丈夫? ずいぶんとボロボロじゃない」
目の前に立っていた男性が振り返り、話しかけてくる。
だが、慕の耳にはどうしても彼がなんと言ったのか聞き取れず、意味のわからない言語としてしか聞こえない。
男性はいつまで経っても返事をしない慕の様子に苛立った顔をしたが、すぐに何か気付いたかのように目を丸くした。
手を伸ばせばお互いに触れれるほどに距離を詰め、男性は目をぱちくりとさせている慕の目の前に指を突きつけた。
「あんた、アタシの言ってること、わかる?」
次に、言葉を発しながら口元を指差し、首を傾げる。
何を言ってるのかわかる? ってことかな。
男性のジェスチャーをじっと見つめながら考えたのち、慕は首を左右に振った。
すると、目の前の男性は口元を指していた手で自分の額に触れ、何度目かになる深い溜息を吐いた。
思い切り面倒だと言いたげな顔をしたが、それも一瞬のこと。すぐに仕方ないと言いたそうな顔をして指先で慕の額に触れた。
「あんたのためだから、耐えなさいよ」
一言、呟かれた次の瞬間。
慕の頭に割れるような痛みが走った。頭の中に直接電気を流し込まれたような鋭い痛みが全身へと伝わっていく。
かと思えば、世界がぐるぐると回りだし、慕は思わず上半身を倒してその場にうずくまった。
「い……っづ、だ……ぁ」
あまりの痛みに、唇からうめき声がこぼれる。
なんで。
なんで、どうして、次々にこんな目に。私が一体何をしたっていうんだ。
行き場のない恨み言を心の中へ延々吐き捨て、痛みが引いてくるまでひたすら耐える。頭が割れるのではと思うほどの痛みは、時間の経過とともに少しずつだが和らいできていた。
大きく息を吸って、吐いて、うずくまった姿勢のまま何度も深呼吸を繰り返す。
感じていた激しい痛みがあらかた落ち着いてきたタイミングで、丸く晒された背中に優しい手が触れた。
「……そろそろマシになってきた頃かしら。大丈夫?」
「い……ちおう、大丈夫……で……え?」
続いて耳に届いた声に返事をし――慕は思わず顔をあげた。
頭を急に動かした影響により、落ち着いてきていた痛みが一瞬強くなったが、それよりも気になることがあった。
「……何言ってるのか、わかるようになってる……?」
今、慕の背中に触れているのは目の前の男性だ。彼以外に人は見当たらないため、先ほどの言葉も彼が発したに違いない。
しかし、彼が操る言語は慕には理解できないものだった。故に、何を言っているのか全くわからなかったのだが――今は、男性がなんと言っているのか問題なく聞き取れていた。
目を丸くする慕の前で、男性は片手を口元に当てて優雅に笑う。
「そこまで良い反応されると、なんだか楽しくなっちゃうわね」
「あ、あの、言葉、なんで」
混乱する頭のまま、慕は男性へ問いかけた。
上手く言葉にならなかったが、慕が何を言いたいのかなんとか読み取れたらしい。男性ははたはたと数回瞬きをして、わずかに首を傾げた。
「なんでって、あんたの頭にアタシの言葉を叩き込んで、あんたが発する言葉がアタシたちのと同じのになるようにしただけ。ちょっと乱暴なやり方だったけど、簡単な翻訳魔法よ。あんたも学んだことあるんじゃないの?」
「ま、ほう……?」
男性が口にした言葉を小さく復唱する。
魔法――今、男性は魔法と口にした。
けれど、魔法は存在しないもののはずだ。
今の今まで生きてきて、慕は魔法と呼ばれるものを実際に目にしたことはない。
物語の中で描かれることは多くても、実際には存在しないもの。空想の中にしか存在しないものだからこそ、憧れを抱くもののはずだ。
けれど、先ほどの炎の壁や男性が灯してみせた炎。あれらが全て魔法だとすれば、火種がないのに燃え盛るのも、突然手のひらの上で炎が燃え盛ったのも、全て納得できてしまう。
頭をよぎった可能性に、慕の顔色がみるみる間に悪くなっていく。
ここは、本当に私がよく知ってる場所なの?
「ちょっと、あんた……大丈夫?」
男性が呼びかけてくれているが、その声がずいぶん遠くに聞こえる。
こちらを心配そうに覗き込んできているが、それに答える余裕はなかった。
足元から得体のしれない恐怖がせり上がり、じわじわと慕の身体を飲み込んでいく。慣れ親しんだ町の中から見知らぬ森にいつのまにか来ていただけでも十分恐ろしいのに、存在しないはずのものが存在している――自分が今まで見ていた世界と大きく異なっているのではという可能性に気付いてしまえば、もう駄目だった。
心拍数があがり、呼吸が細くなる。きちんと息を吸えているはずなのに、まるで酸素が足りていないときのように頭がくらくらした。体温も指先から順番に失われていき、急速に凍えていく。
急激に膨れ上がった恐怖は、慕に抵抗する隙も与えずに全身まるごとその身体を飲み込んでしまった。
「ここは……一体、どこ……なの」
震える声で呟いたのを最後に。
限界を迎えた慕の頭がショートし、視界が暗闇で塗りつぶされた。
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