私の恋心は砂の味がする

神無月もなか

第1話 想いとともに迷子になる

1-1 想いとともに迷子になる

 己の恋は、いつだって気付いたときには手遅れだ。

 湖心慕こしん したうがそのことに気付いたのは、いつのまにかクラスメイトの一人へ向けていた恋心が無残に砕け散った瞬間だった。


『悪い。気持ちはすごく嬉しい。でも、今はもう湖心の気持ちに応えられなくて……』


 放課後の誰もいない教室の中。勇気を振り絞って告げた想いに対し、返された言葉がぐるぐると頭の中で巡り続けている。

 夕暮れに近づきつつある日光が差し込む教室。ありったけの勇気を出して想いを伝えたときの緊張。慕の気持ちを知った瞬間のクラスメイトの申し訳無さそうな顔。思い出せばつらいとわかっているが、数分前に目にしたまだ新しい記憶は、繰り返し慕の脳内で再生されては胸を強く締め上げた。


 夕暮れに染まりつつある一人きりの通学路。友人も少し親しいクラスメイトもすでに帰ってしまった帰り道では、他の人と会話をして失恋の痛みをごまかすこともできやしない。

 とぼとぼと元気のない歩調で帰路につく慕は、さまざまな感情を重い溜息とともに吐き出した。


「……また同じこと、やっちゃった」


 慕には、幼い頃からずっと一つの欠点を抱えている。

 はたして何歳くらいだったかは思い出せないが、気がついた頃には他人からの好意にすぐに応えることができなくなっていた。

 自分の中にあるのが恋心なのか依存心なのかわからず、告白されてもすぐに相手の気持ちに応えることができない。後々に自分も相手のことが好きだ、これは依存心ではなくちゃんとした恋心だと気付いても、その頃には告白してくれた相手は慕ではない別の人を好きになっている。


 告白されたときに、すぐに相手の気持ちに答えようと思ったこともある。友人からそのように言われたこともある。

 しかし、自分の中にあるのが相手への恋心ではなく、ただの依存心だったら?

 相手に依存していて、それを恋心と勘違いしているだけだとしたら?

 依存からくる感情で相手の真剣な想いに応えるのは、勇気を出して想いを告げてくれた相手に対して失礼ではないのか?

 そんな思いが慕の心をどろりと覆い尽くし、結局同じことを繰り返してしまっていた。


「……なんでこうなんだろう、私」


 他者に向ける好意が恋心なのか依存心なのか、いつまで経っても見分けがつけられない。

 好意的に思う相手から告白されたら嬉しいと感じるくせに、恋心と依存心の見分けがつけられないから一度返事を保留にして、どちらなのかはっきりさせてから応えたいと思ってしまう。

 それで気付いた頃にはもう手遅れになっている恋を繰り返し、何度も自分の恋心を砕いてきたのだからいい加減に学習すればいいのに。


「……はあ……」


 何度目かになる溜息をつきながら、空を見上げる。

 頭上に広がる黄昏色に染まりつつある空はとても美しいのに、今はその美しさすらも憎らしいものに映ってしまった。


「……いっそ、誰かを好きになるのをやめたほうが楽になれるのかな……」


 いっそ、恋心そのものを完全に捨てることができたら。

 ぼうっとした目で空を見上げ、出来もしないことを思わず呟いた。



 ――きらり。



「……ん……?」


 黄昏色の空の中に、きらりと光るものが見えた。

 目をこらして観察すれば、光を放つ何かの正体が少しずつ見えてきた。


「……蝶々……?」


 蝶だ。

 光の粒子のようなものをこぼしながら飛ぶ、光に包まれた蝶が飛んでいる。

 逆光で光を放っているだけなのかと思ったが、すぐにその認識は誤っていると気付いた。逆光ではなく、蝶そのものが光を放ちながら飛んでいる。

 生まれてから十六年生きてきたが、こんな蝶ははじめて目にした。


「綺麗……」


 思わず感想をつぶやいた慕の目の前で、蝶はひらひらと舞い踊っている。

 最初、慕の頭上を飛んでいた蝶はゆっくりした動きで慕の顔の前へ移動してきた。その後、まるで慕を誘うように慕が向かう先とは違う方向へ飛んでいった。

 綺麗で不思議な蝶を見た――普通ならそれだけで終わるだろうに、何故だろうか。


 追いかけなきゃ――いけない気がする。


 少々おぼつかない足取りで一歩を踏み出し、慕は蝶を追いかけた。

 ぼんやりした意識のままで蝶に誘われるまま、道を歩く。歩いていた道から横にそれ、普段はあまり立ち入らない路地裏に入り、どんどん人気が少なくなっていく道を進んでいく。

 慣れない道を歩くことに対して不安を感じてもおかしくなさそうなのに、今の慕にはそれを感じる余裕はなかった。


 意識はただ目の前を飛んでいる蝶へと向けられており、他のことが気にならない。

 今の慕の姿を見れば誰もが異常だと指摘するだろうが、残念ながらこの場にはそのことを指摘する人物はいなかった。


 あと、もうちょっと。

 もう少しで追いつける。

 もう少しで手が届く範囲に蝶がくる。

 あまり回らない頭でそのようなことを考えた瞬間、足元から伝わってくる感触が変化した。


「……え?」


 瞬間、ぼんやりしていた意識が引き戻された。

 つい先ほどまで路地裏を歩いていたはずなのに、今、慕の視界に映る景色は全く見覚えのないものに変化していた。

 コンクリートをはじめとした建築材で作られた建物が立ち並ぶ現代的な景色は失われ、数多の木々が立ち並ぶ森が目の前に広がっている。足元には見覚えのないさまざまな草花が生えており、歩き慣れた道路のかわりに柔らかな土が敷き詰められていた。

 感じる空気も感じ慣れているそれではなく、土や草など自然の香りが多く含まれた慣れないものだ。

 追いかけていたはずの光の蝶は、どこにも見当たらない。


「な、に……どこ、ここ……」


 蝶を追いかけていただけのはずだ。

 路地裏に入っていった蝶を追いかけていただけのはず。慕が暮らしている町の中に、こんな森が存在するなんて聞いたことがない。

 そもそも、路地裏に入ったのにいつのまにか森の中にいたなんて――ありえない話だ。


「ゆ、夢……? 夢、だよね……?」


 夢を見ているとしか思えない光景だ。

 だが、完全な夢だと言い切るにはあまりにもリアルすぎる。一歩踏み出すと足の裏から伝わってくる土の柔らかさも、感じる空気や風の匂いも、現実に存在しているかのようだ。

 いつもよりも早く脈打つ心臓を押さえ、慕は来た道を振り返った。

 だが、背後にも見慣れた道は存在せず、現在位置がどこなのかわからない森の景色が広がっているだけだ。


 どうしよう。

 どうしたらいいんだろう。

 そもそも、ここは一体どこ?


「あっ……そうだ、スマホ!」


 いつも持ち歩いている文明の利器の存在を思い出し、慕は慌てて鞄を探った。

 通学用の鞄の中には、何かあったときに家族と連絡がとれるようにいつも愛用のスマートフォンを入れている。あれなら家族と連絡がとれるうえに、大体の現在位置がわかるはずだ。

 混乱しきった慕の心に希望が差し込むが、いざ取り出したスマートフォンを目にした瞬間、無残にもそれは砕け散った。


「……圏外……」


 急いで起動したスマートフォンには、無慈悲にも圏外の表示がされている。

 確かに山や森の中では電波が届きにくいという話を聞いたことはあるが、よほどの山奥ではない限り、そのようなことはないはずだ。


「ってことは……ここ、電波が届かないほどに深い森の奥なの……?」


 手にできたかもしれない希望は奪い去られ、深い絶望が慕の心を支配していく。

 頼れる先がどこにも存在しないという絶望的な状況の中、なんとか慕は思考を巡らせて凍りついていた足を動かした。


「とりあえず……スマホが使えないなら、連絡がとれそうなところを探さないと……」


 こんな森の中で立ち往生していても、現状は何も変わらない。

 まずは森を抜けて、人が生活している場所を見つけよう。人里まで移動すれば電波も届くかもしれないし、届いていなくても住んでいる人に事情を話して電話を貸してもらうこともできるはずだ。

 頭の片隅では、この現状は異常だと訴えている自分もいるが――それを受け入れるには、まだ心の準備ができていなかった。


 爪の先ほどに小さい希望にすがりつき、少々湿っているようにも感じる土を踏み、慕は森の中を進む。

 不気味なほどに静まり返った森は、どれだけ歩いても景色を変えない。普段は一切足を踏み入れない領域ということもあり、全くといっていいほど顔を変えない景色は、慕の不安をかきたてた。


「ひっ……!?」


 もしかして、不用意に森の中を移動したのは間違いだったのではないか――。

 己の選択を後悔しはじめたのと同時に、頭上で鳥が羽ばたく音が聞こえた。ただの羽ばたき音だが、異常な状況に置かれて怯えや不安を感じている慕には強い恐怖の音として感じられた。

 思わず身をはねさせ、足を止めた慕の足元に黒い鳥の羽根が舞い落ちる。

 恐る恐るその羽根を拾い上げ、頭上を見上げると数匹のカラスのような鳥が慕の頭上でぐるぐる旋回していた。


 カラス……みたいに見えるけれど。


 こんな森の中でカラスに会うなんて、なんだか不吉だ。

 浮かない気持ちになっている慕の視線の先で、旋回していたカラスが枝の上に舞い降りた。

 その瞬間、慕は己の目を疑った。

 ハシブトガラスと同じくらいの大きさをした、黒い鳥。そこまでならカラスと思うが、視線の先にいる鳥はカラスのような二本足ではなく三本足で枝を掴んでいる。くちばしには奇妙な紋様のようなものがあり、血のように真っ赤な目をしていた。


 カラスのように見えるのに、カラスではない――一度も見たことがない鳥。

 そのような姿をした鳥が全部で四羽、枝に並んでこちらを見ている光景はどうしようもないほどの不気味さと不安を与えた。


「――人間だ」


 鳥たちの姿を視界から外してその場を離れようとした瞬間、枝に止まっていた一羽が鳴き声をあげた。

 いや、聞き取れなかったが鳴き声というよりは何かを喋ったようにも聞こえた。

 動かそうとした足が再び凍りつき、錆びついたおもちゃを思わせる動きで、慕は再び鳥たちを見上げた。


「人間」

「人間だ」

「何しに来た」

「何をしてる」


 一羽が喋ったのを皮切りに、鳥たちは口々に慕へ言葉をぶつけてくる。

 だが、聞いたこともない言語で語られる言葉たちは、慕には全く理解できなかった。

 慕から返事が返ってこないことに気付いたのか、最初に言葉を話した一羽が首を傾げる。


「人間、喋らない」

「人間、無口か?」

「喋れないならそれでもいい」

「喋らないなら好都合」


 ぎゃあぎゃあ、ぎゃあぎゃあ。

 理解できない言語で、鳥たちは言葉を紡ぎ続ける。

 一体何を言っているのかは相変わらずわからなかったが、嫌な予感がして慕は一歩後ろへ下がった。

 脳から危険を告げるアラートが激しく鳴り響いている。

 正体がわからない嫌な予感と足元から這い寄ってくる恐怖に従い、慕は鳥たちに背を向けて走り出した。


「人間、俺たちが食べられるものを持ってる」

「よこせ! よこせ!」

「人間、よこせ!」


 逃げ出す慕の動きに合わせ、枝に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立った。

 正面だけを見つめて走るが、鳥たちはみるみる間に慕との距離を詰めてきた。どれだけ走っても自分の足では逃げ切れないという現実が、慕の心に氷水を浴びせた。

 追いついてきた鳥たちは慕に群がり、ぎゃあぎゃあと耳障りな声で鳴きながら突き回す。とっさに両手で頭を抱えて防御姿勢を取るが、鳥たちが持つ爪やくちばしの前ではあまりにも無力だった。


「いっ……!」


 三つ足の鋭い爪がたやすく皮膚を裂き、鋭利なくちばしが肌に朱を滲ませる。傷が一つ増えるたびに痛みが電流のように駆け抜け、悲鳴があがりそうになった。

 けれど、必死の思いで口から出そうになるそれを飲み込む。悲鳴をあげることよりも、今は少しでも遠くへ逃げることに体力を使いたかった。


「こん、の……!」


 ぎゃあぎゃあうるさい鳥たちを睨みつけ、通学用の鞄をめいっぱい振り回した。

 突然の反撃に怯んだ鳥たちは高度を上げて慕の鞄が届く範囲から逃れる。

 そのわずかな隙をつき、慕は尽きそうになっている体力をかき集め、走る速度をあげて再び鳥たちから距離を離した。


「人間、生意気!」

「生意気! 反撃する、生意気!」


 背後で喚く声が聞こえるが、構っている余裕はない。

 鳥たちの目的はわからないが、慕を害そうとしていることは明らかだ。


 足を止めたら追いつかれる。

 足を止めたら再び攻撃される。


 こんなどこかもわからない森の中で、命が尽きるような事態になるかもしれない。

 すぐ眼前にまで迫っている死の可能性は、慕の視界を簡単に滲ませた。


「あっ……!」


 限界を迎えた足から力が抜け、がくんと身体が傾いた。

 重力に従った身体は勢いよく地面へと倒れ込み、土がざりざりと腕や膝を傷つける。

 鳥たちが近づいてくる羽音が聞こえ、再び身体を起こそうとするが、一度限界を迎えた身体は鉛のように重たく言うことを聞かなかった。


 死にたくない。


 死にたくない。

 こんなところで一人寂しく死にたくない。

 誰か、誰か、誰か。


「誰か、助け、て……っ!」


 張り付く喉から声を絞り出し、今にも消え入りそうな声で誰かを助けを求めた瞬間。

 巨大な熱の塊が倒れ込んだ慕の頭上を勢いよく通過し、今にも追いつこうとしていた鳥たちと慕の間に炎の壁となって割り込んだ。

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