秘密の結婚

増田朋美

秘密の結婚

秘密の結婚

ある日、彼女、丹羽政子は、一人で診察室を出た。どうせ、誰も、自分の事なんて、励ましてくれる人もいないし、私が終わりになっても、誰も文句言う人はいないんだろうなと思いながら。

理由はただ一つである。私は、もうすぐこの世を去るのだから。

自覚症状があったわけでもない。ただかったるくて、それも疲れによるものだと思っていた。其れだけの事だった。ただ、会社の健康診断で、健康診断してもらっただけで、そこで再検査となっただけである。それも面倒くさかったが、ただ検査を受けにいって、そこでこういわれたのである。重度の肝臓がんで、半年、持って余命一年であると。

あーあ、と、政子が、ため息をついて、椅子の上に座ろうとしたところ、

「おい、おばちゃん。」

と、誰かの声がした。政子は後ろを振り向く。

「そこにある、病院の案内状を取ってくれ。ちょっと見せたいやつがいる。」

と、その人が言った。政子は、ええ?私?と一度とぼけてしまう。

「おばちゃん、お前さんだよ。ほかにこの待合室で待っているやつはいないじゃないかよ。」

と、その人はもう一回言った。よくよく見ると、確かにその人は、車いすに乗っていた。車いすに乗っている人には、確かに、病院の案内状は、一番上の棚に置かれていて、立たなければとれないところにあった。

確かに、周りを見渡すと、ほかに患者はいなかった。なので政子は自分のことを呼んでいると思った。

「まあ、おばちゃんはないでしょう?」

と、政子は言うが、

「いやあ、十分におばちゃんだよ。顔にちゃんと描いてありますよ。お願いだよ。その上にある病院の案内状を取ってくれ。一寸さ、見せたいやつがいるんだ。ここの病院は、そいつが欲しがっている診療科があるということで。」

と、彼は説明した。なるほど。そういう事か。じゃあ、そうしましょうと言って、政子は、それを取って、彼に渡した。

「どうもありがとうな。お前さんの名前なんて言うの?」

と、彼が言うので、びっくりしてしまう。自分の名前を知らない人に堂々と述べてしまうのは、なんだかいけないような気がする。

「僕は、何もしないよ。ただ、お礼がしたいので、お前さんの住所とかそういうことを教えてもらいたいの。」

と、彼は言った。

「お礼ですか?」

「ああ、そうだよ。お前さんに、手伝ってもらったお礼に、何か送るからよ。僕たちはやっぱり、何かしてもらったら、そういうことをしなきゃね。だから、お願いしてもいいかな?」

と、彼は言った。

「そうですか。それなら、口で言うのはなんだから、これをお渡しするわ。ここに描いた住所に、何か送って頂戴。」

政子は、そう言って、手帳の一部に自分の名前と住所を書いて、彼に渡した。

「ありがとうな、僕、読み書きできないからさあ。なんて書いてあるかわかんないけど、誰かに呼んでもらって、それで送るようにさせるから。ごめんね。」

と、彼の言葉を聞いて、政子は変な人ねと思う。読み書きができないということは、学校に行かなかったということだろうか。それとも、重い知的障害のようなものがあるのだろうか。ちょうどその時、受付が、

「杉ちゃん、早く処方箋をもらってよ。早くしないと、次の人に、渡せなくなっちゃう。」

というので、その人はおう、すまんなと言って、政子の前を後にした。

その一週間後である。政子は、また自覚症状がないまま、抗がん剤をもらうため、また病院に言った。彼女が診察を終えて、またどうせ何も変わらないと思うけど、抗がん剤の処方せんをもらって、診察料を払うために、また待合室で待っているときのことである。

「あのう、丹羽さんでいらっしゃいますでしょうか?」

ふいに自分の名前を言われたので、政子は、びっくりして後ろを振り向いた。

「丹羽さんですね。丹羽政子さん。グレイヘアのきれいなおばちゃんだって、杉ちゃんが言っていました。彼女に礼を言えと言われたものですから。ここでやっと僕の症状を見てくれる病院を見つけてくれたので、一寸だけでも手伝ってくださった、丹羽さんに感謝いたします。」

と、丁寧に言うその人は、30歳前後の若い青年だった。

「ええ?なんですか?私にお礼なんて。」

「はい。杉ちゃんから、パンフレットをもらって、こちらの病院を紹介してもらったわけですから。それを手伝ってくれた、あなたに感謝します。」

と、いう青年。垢抜けしていないけれど、真面目そうな青年であった。一寸、まじめすぎて硬いという雰囲気もあるが、今時のチャラチャラした若い男とは、かけ離れた男である。

「本当にありがとうございました。あの、これ、ホンの礼ですが、暇なときにでも食べていただいたら。」

という、彼が見せたのは、バリカツオと書かれた、お菓子の袋だった。

「杉ちゃんが、おばちゃんだからこういうものが合うだろうというのですが、僕は正直に言うと、よくわからなかったです。こういう事をしたのは、初めてだからです。」

そんな風に言う彼は、どこか事情があるのだろうか。にこやかでもあるが、何か重たい事情があるような、そんな雰囲気を持っている。

「あ、こんなのじゃダメでしたか。そうですよね。バリカツオより、クッキーとかケーキとか、そっちの方がいいですよね。すみません。もう、杉ちゃんが、あまりにも強引だったものですから。」

と、そういうことを言う彼は、にこやかではあったが、どっか恥ずかしいというか、申し訳なさそうな顔をして、そういうことを言うのだった。

「いえ、大丈夫ですよ。あなたが誠実な人柄だってことは、その態度でよくわかりますから。誰かの見舞いでここに来てるの?」

と、政子は、そういうことを言うと、

「そうじゃありません。僕は、患者としてここにきているんです。」

と、彼は答えた。

「それでは、どこか悪いの?若いのに大変ね。」

政子は、そう聞くと、

「ええ、どこも悪くないと医者は言うのですが、僕は、どうしても足が痛くて、困っているのです。けがをしたわけでもないのに、何か足の筋肉に異常があるわけでもないのに、鎮痛剤をたくさん飲んでも、改善されることはないので、もう困っちゃって。」

と、彼は答えた。ああなるほど。つまり最近テレビなんかでよく聞く疾患にかかってしまったのか、と、政子は思った。

「それは大変ね。理由がないのに、痛みがあるって、つらいものね。」

政子がそういうと、彼は、わかってくださいますかと言って、涙をこぼすのだった。政子は、大丈夫?と言って、彼に、ハンカチを貸してあげた。

「すみません。僕、バカですよね。足に異常もないのに、足が痛いなんて甘ったれたこと言うなって、家族からもさんざん言われていて、それなのに、自分ではどうすることもできなくて、ここに来てる運ですから。」

と、彼はそういうのであるが、

「いいえ、バカなんかじゃないわよ。心が病気になるっていうのはね、心が美しいという証拠なのよ。だから、気にしないで、そのくらいの感性があるんだって堂々と生きていけばいいわ。」

と、政子は彼の話にそう言った。

「でも、僕は、やっぱり、働いていない、ダメな男です。もう家にいないで、自立しているはずなのに、それができてないんですから、、、。」

「そうねえ。じゃあ、おばさんがいいこと教えてあげる。おばさんの知り合いがやっぱり同じ病気にかかったことがあったの。彼女も、鎮痛剤とか、そういうものは全く効かなかった。彼女は、ご主人の意見で、漢方医の先生に見てもらって、そうしたら、比較的短時間で痛みが取れたそうよ。」

「そうなんですか、、、?」

と彼はいう。

「ええ、まあこれは一例だから、人によって違うわよね。でも、あなたもその彼女もそうだったけど、一般的な病院では役に立たないかもしれないわ。それよりも、話を聞いてくれる人とか、心の治療者みたいな人に頼んだ方がいいかもしれなくてよ。」

政子はそう説明したのであるが、

「それでも、その人は、ご主人の意見があったからよくなれたじゃないですか。僕は、家族からもう見放されているんです。どこに行くにも、家族の意見がなければできないし、友達何て、ちゃんと働いていないからできないんじゃないですか?」

と、彼は言った。

「そうね。痛みがあると、なんでもネガティブになっちゃうけど。」

と政子は彼に言った。

「痛みが取れれば、また明るく考えることができるかもしれないわ。今はそのための、準備をしているんだって、そう思っていればいいわ。」

彼の顔が、そうかなと言っている顔になる。

「ええ、大丈夫ですよ。そうなるときはきっと来るわ。どんな人だって、いつまでも不幸ということはないでしょうし。」

と言って、肩をたたくのはちょっと痛いと思うから、政子は彼の手をそっと握ってあげた。

「ああ、ありがとうございます。僕は、申し遅れました。なんで最初に名前を言わなかったんだろう。それではいけないですね。僕、名前を、横山一由と言います。」

と言って彼は、手帳を開いて、名前を書いた。横山一由。なんだか変わった名前だな。でも、横山一由さんは、けっして悪い人ではなかった。

「横山さん、今日の診察料をお願いします。」

と、受付に言われて、横山一由さんははっとしたらしく、急いで受付に行った。急いでといっても、やっぱり痛みがあるのだろう。いくら急いでもスピードは出ない。そんな彼を、政子は、かわいそうに思った。

「あの、今日は、ありがとうございました。そのバリカツオ、一寸変かもしれないけれど、よろしかったらどうぞ食べてください。」

といたい足を引きずり引きずり、病院の入り口へ向かって歩いていく彼に、

「ねえ、一寸待って。」

と、政子は言った。

「よかったら、どこに住んでいるか教えてくれる?」

玄関近くの入り口で止まる横山さん。

「ああ、はい、富士の東田子の浦ですけど。」

と、彼はそう答えた。

「どうやってこの病院まで来たの?」

と、政子が聞くと、横山さんは、富士駅までは電車で、あとはタクシーで来たと答えた。

「そうなの。じゃあ、富士駅までタクシーで送っていくわ。タクシーも、うまくつかえば、いい道具になってくれるから。」

と、政子は、そういって、スマートフォンをダイヤルした。

「あ、もしもし岳南タクシーさんですか。一台お願いします。あの、足の悪い人間が一人いますので、彼に、UDタクシーで来てくれるようにお願いします。」

政子がそういうと、彼はずいぶんびっくりしているようであったが、政子は、そのままお願いを続けた。数分したら、来てくれるとタクシー会社の人に言われて、政子は電話を切った。

「来てくれるそうよ。UDタクシーだから、比較的楽に乗れるわ。」

二人が、病院の玄関を出ると、大きなワゴン車のタクシーがやってきた。こんな大きな車両で、運賃が返って高くなるんではないでしょうか?と横山さんはいったが、政子は普通のタクシーと変わらないと言った。タクシーは、二人を乗せると、駅へ向かって走りだした。

「ねえ、横山さん。こんなところで、こういう話をするのは、一寸恥ずかしいかもしれないけど。」

と、政子は、横山さんに言った。

「どうして、ちゃんと病名を知らないけど、その痛いという病気になったの?」

「そうですねえ。」

と彼は、一寸頭を傾げて、考える顔をした。

「ええ、確か、一番最初に痛みが出たのは、18歳の時からでしょうか。あの、僕は、音楽学校に行ったんですが、そこで師事する先生とちょっともめてしまいましてね。その先生と、また別の先生と伝達がうまくいってなかったみたいで。先生同士で、喧嘩みたいになってしまいましてね。それで、僕が退学しなければいけない羽目になって。それから、足が痛くなって、ピアノが弾けなくなって。初めのころは家族が、何とか見てくれたんですけど、原因もわからなくなって。僕は、完全にさらしものですよ。」

彼は、そういって自分の半生を語った。

「そうなのね。それは、あなたのせいじゃないわ。あなたはただ、音楽の勉強したかっただけでしょう。それだけだったのに、ただ、周りのひとが、そうなっただけ。だから自分を責める必要もないのよ。」

と、政子はにこやかに笑ってそういうことを言った。

「あの、政子さんは、カウンセリングとか、そういう関係の仕事をしているのでしょうか?」

と、横山さんは政子に聞いた。

「いいえ、違うわよ、あたしはただ、普通の女性よ。教師でもなければ、心理学の関係者でもないわ。結婚もしていないし、普通に働いてきただけよ。それも、もうすぐ終わろうとしているのにね。」

「そうですか、、、。」

と、政子がそういうと、横山さんはそういうことを言った。

「でも、僕はうれしかったです。そうやって、あなたのせいじゃないって言ってくれて。そういうことが言えるのは、偉い人でなければできないですもの。あ、肩書があるって意味じゃないですよ。そういう事とはまた違うって、僕は知っています。」

「いいえ、私は大した人生じゃなかったわ。そんな立派な肩書があるわけでもないし。ただ、生きているだけで、何もないわ。」

と、政子はにこやかにでも、そういうことをいうと、なんだか自分が本当に終わってしまうんだなという気がして、なんとなく寂しい気もした。

「お客さん、つきましたよ。」

と、タクシーの運転手が、駅の前でタクシーを止める。ドアを開けてもらうと、政子はタクシーから、横山を下ろしてあげた。そして、痛い足を引きずりながら、駅のエレベーターに向かって歩いていく、横山さんをずっと見つめた。

何だか、政子は、駅へ着いたけれど、その足ですぐに家に帰る気にはなれなかった。どうせ一人暮らしであるし、いつまで出かけていたのかとか、責める人もいない。彼女は、一寸駅のカフェにでも行くかと思って、駅の階段を昇った。いつもなら、簡単に行ける階段が、ちょっと政子にはきついような気がしてきた。それも気にしないようにと政子は思ったが、やっぱり、いつもよりも、階段を上るのは、時間がかかったなあという気がしてきた。

とりあえず、政子は、駅の構内にあるカフェに入った。カフェは、先月まで非常事態宣言が出ていたのを受けて、椅子を大幅に減少させて、営業していた。でも、人はほとんどいなかったので、政子は席に座った。隣の席には、ずいぶん美しい男性が、若い男性と二人で、楽譜を眺めながら何か話している。二人の眺めている楽譜の表紙には、政子は一度しか聞いたことのない作曲家だけれども、誰なのかすぐに分かった。ゴドフスキー。世界一難しいと言われる作曲家だ。政子は、二人の顔を見て、でもなぜかわからないけれど、そう思ってしまったのである。それをしなければ、いけないと思ってしまったのである。それをしなければ自分は終わってはいけないような気がする。

「あの、あなたピアニストよね!」

と、いきなり政子はその男性たちに言った。

「ピアニスト?」

「当たり前じゃないの。その難しい楽譜の表紙見ればわかるわよ。一度だけ聞いたことがあるから。ゴドフスキーって、世界一難しい曲として有名なんでしょう?」

二人は、そういうことをいわれて、顔を見合わせる。

「まあそうなんですけどね。僕たちは、レッスンの打ち合わせをしているだけで、とても演奏活動をしているような身分じゃないんですよ。」

と、若い男性が言った。

「でも、あなたたちは二人とも。」

と、政子が強引に言うと、

「ええ、まあそうです。演奏をしていました。」

と、その美しい男性が、そういうことを言った。

「でも残念ながら、新しいレッスン者はお引き受けできないんです。僕も事情がありまして。」

と、彼は言うのだが、政子は彼の着ている着物を見て、この人は、わけがあるなということがわかった。確か、自分も着物に一度興味があって、資格取得には至らなかったけど、着付けを習ったことがある。その時、着付けの先生が、かわいいけれど、絶対に人前で着てはいけないと厳重注意していた着物がある。彼の着ているのは、その男性用と言ってよい。政子は、その知識を振り絞って、こういうことを言った。

「ええ、そうじゃなくて、あなたたちに、お願いしているんです。助けてあげてほしい人がいるんです。

あなたのような、事情がある方なら、彼のこともわかってくれるのではないでしょうか。」

と、政子は彼に頭を下げるような気持ちで、そういう事を言った。すると若い男性が、

「もしかしたらそれは水穂さんの、」

と言いかけたが、

「ええ、そういうことはわかります。だから、お願いしたいんです。別に、あなたの弱みを握ったとかそういうことは思わないで。彼も、音楽学校で先生にひどいことをされた人なんです。」

と、政子は、そうお願いした。

「そうなんですか。でも、水穂さんの弱みを握っているから、なんでもしたいようにレッスンをしてくれという人は、僕たちは、一寸お断りしたいんですけどね。僕は、水穂さんのことを、そういう風に思っている人には、来ないでもらいたいと思いますので。」

と、話を続ける彼に、政子は、

「いいえ、そういうつもりで言ったわけじゃないんです。私にはピアノを教えるなんて到底できることでもないですから、お願いしているんですよ。決してあなたのような人のことを、」

と話をつづけたが、若い男性は、

「その話を人がいる前でしないでください!」

と言って止めようとしたが、

「いいえ、大丈夫ですよ。この人は、ただ、レッスンしてほしいと思っているだけですから。」

と、例の美しい男性が言った。

「でも水穂さんいいんですか。そんなやり方で、レッスンを頼まれても、何をされるかわかりませんよ。

それでもいいですか?」

「ええ、浩二さん、それで結構です。きっと彼女が望んでいることは、僕たちの弱みをどうのとか、そういうことを言っているのではないと思います。」

と、水穂さんと言われた美しい男性は、そういうことを言っている。

「水穂さん、お人よしもほどが、」

と浩二は、そう言ったが、

「いいえ、私は、お願いしたいんです。私の最後の望みとして、あの彼の、そう、横山一由さんの人生をもう一回やり直させてあげたいんです。横山さんの連絡先はこちらですから、お願いです。彼にレッスンしてやっていただけないでしょうか。横山さんは、とても善良で優しい青年ですから。」

と、政子は、そういうことを言って、ただわからなくなった。それが水穂さんに届いたかどうかは不詳だが、、、。

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