第16話
『がるるるるー』
『改めてみると、やっぱり迫力がありますね』
『そ、そうだなー』
《教室3》の前までやって来た捕逸くんたちにふたたび牙をむく狼。
これだけ聞けばインパクトも充分なんだけどね、うん。雑さ加減じゃ知子ちゃんもなかなかじゃないかと僕は思うんだ。
『確認しとくが』僕は知子ちゃんを横見する。『ドア付近からもう3歩進んだら狼の爪牙にかかるんだったよな?』
「そうなるワン」
「やあ知子ちゃん、それじゃただの犬でしょ」
「でもイヌ科ですよ?」
「それはまあ、そうだけど」
「なのでちっともおかしくないワン。論破だワン」
(ぎゃふん)
ゲームクラブ副部長の僕が、たかが犬っころ――のロールプレイに傾注する後輩女子に言い負かされるだなんて……!?
この
『露木さん。《家庭科室》で見つけたというチョコレート、ありますか?』
『あ、ああほら、このとおりだ』
言いながらに僕は空っぽの右手を囁ちゃんへと渡した。
僕の演技をイメージで補完してくれたらしく、彼女も両手を伸ばして僕の右手から見えないチョコレートを受け取るふりをする。さながら新任公務員が
『けど板チョコ? なんかもらってどうすんだ?』
『キーパー、ナコは《教室3》に足を踏み入れるの』
『ちょ、ナコっ!?』
「ドアは開けっぱなしなので問題なく入れますねー」
『バカ言え! ナコの手をつかんで止めるぞ!』
僕はかぶせ気味に声を上げ、すぐさま机に置かれていた囁ちゃんの緩いこぶしに手を重ねる。
その拍子に囁ちゃんは「ひゃ!?」と裏返したような声を漏らした。
『待てよナコ! ……危ないだろ』
『な、ナコは大丈夫なの。準備、できたから』
『なんだよ準備って!? 板チョコ半分ぽっちで最後の
いくらゲームだからって。どんなに劇的だからって。
命を粗末にするなんてだめだ。
自己犠牲。誰かの助けとなれるなら、それは確かに
けれど、目を覆いたくなるほどの悲劇はけして避けられない。失われるものも確かに存在するし、まして相手を助けられるのはほんの一瞬だけ。「自分のために犠牲となった」という十字架の重みを負って生きていく側に、以後の安息などありはしないのだ。
それに献身は並々ならぬ覚悟を要する。かすかに手を震わす今の囁ちゃんに心の準備ができているだなんて、僕にはどうしても認められないよ。
『どんな状況だろうが関係ない……誰かのために犠牲をよしとするだなんて、僕は絶対に認めないぞ!』
「……犠牲って、なんのことですか……?」
えっ。
「そのぉ……ナコには別の考えがあって、ですね……」
「犠牲になるつもりじゃ……ない?」
僕は思わず確かめる。すると囁ちゃんは僕に目を合わせないようにしながらも、はっきりと首を縦に振った。
そんなぎこちないやり取りをする僕たちの間に、小憎たらしい作り声で知子ちゃんが横やりを入れる。
「あれれー? もしかして先輩、早とちりしちゃったんですかー?」
「ししし仕方ないだろ! あんな記録を見たあとなんだしさあ!」
しかも序盤の放送で『血と命をささげなさい』ってワードも出てたじゃないか。こんなの、よほど忘れっぽくなければ誰だって生け贄のことが脳裏をよぎっちゃうよ。
『じゃ、じゃあさナコ、お前どうして狼のいる室内なんかに……』
『こういうことなの』
囁ちゃんはものをつまんでいるような右手を知子ちゃんの顔へ近づけ、落ち着き払った口調で行動を宣言する。
『キーパー、ナコはこのチョコレートを狼に与えます』
(板チョコを……与えるだって?)
「どうやって食べさせるーとかの描写的な希望ってある?」
『安全にすませられるなら、どんな形でも構わないの』
「ほいほい。じゃーパクっとなっ」
幼稚な子犬みたいなしぐさで前のめりになる知子ちゃんの口が、囁ちゃんの指先すれすれの空気へと食いつく。そうして彼女は席に戻るやいなや、目下の状況を打って変わってシリアスに語りだした。
『――1歩、2歩。同類ならざる異形のつま先が猛獣の不可侵領域寸前へと貼りつく。相手が見も知らぬ人間なのだから、ただちに外敵と断じられてしかるべきである。狼は反射的、本能的に体中の速筋を力ませ、堰を切ったようにナコをめがけて……飛びかかるっ!』
『ナコ!?』
『心配ありません』
囁ちゃんは机に置いていたこぶしをひるがえし、
『ナコを信じるの』
重ねられた僕の手をそっと握り返した。
ほのかに赤らんだつつましいほほえみをたたえて。
『――差し出されたそれを体の一部とでも認識したのだろう。狼が牙を食い込ませたのはナコでなく、ナコが手にしたチョコレートだった。殺意に加えて飢えにまでとらわれているのか、少しも痛がらない彼女の反応など歯牙にもかけぬまま、狼は荒い
(本当に食べさせてる)
しかし狼のエサやりになんの意味があるんだ?
(……『ナコを信じるの』か)
ただ、ああもきっぱり言われてしまったんだ。意図がつかめないままだけど、こうなったらもう腹をくくるしかないかな。
『あとは待つだけなの』
囁ちゃんは両手をするりと胸もとに寄せ、一仕事終えたかのような顔つきで息をつく。
『……そういえば、まだ《理科室》を見ていませんでした』
『よし、じゃあ行こうぜ。今度こそふたり一緒に、足並みをそろえてな』
僕は快活な調子で囁ちゃんにそう呼びかけた。捕逸くんにとっては戒めの言葉でもある。
『旅は道連れってことでしょうか?』
『手の届く範囲にいてくれんならそうかもな』
『ナコはお子様じゃないの。どちらかと言えば露木さんのほうが子どもっぽいの』
『危なっかしいまねしといてよく言うぜ』
「チッ」
『おい今なんで舌打ちした?』
だしぬけに不条理を感じたものだから、思わず僕と捕逸くんの弁が融合してしまった。
「いやー、昨日の友は今日の敵とはよく言ったものだなーと」
「君はなにを言ってるんだい?」
「あー! もー! 先輩ってばほんっと気が利かないですよねー!」
「ご、ごめんね知子ちゃん……? くわばらの演技じゃやっぱり目に余る、よね……」
「つーちゃんまでっ!?」
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