視界がぼやけている。竹海友子はぎゅっと瞼を閉じた。一、二、三。胸のうちで数えてから目を開く。あまり変わらない。左右を雑木林に囲まれた道路の先、ログハウスが建っている。軒先に看板があるけれど、眼鏡をしていないから字がぼやけて読めない。

(大丈夫)

 大丈夫のはず。グーグルマップで下調べしてきた。あそこが目的の店で間違いない。いちばんの心配は新型コロナウィルスだった。中国の武漢市から広まったウィルスが日本にも飛び火した。三月から全国の小中高学校などの一斉休校が政府から要請されるほどになった。

 イベントが中止されたりスポーツが観客なしでの実施になったり、どこもかしこも自粛ムードになっている。尼僧祇山麓公園の公式サイトにはなんの告知もなかった。だから開店しているはずだけど、客足の少なさに店を閉じてしまっていてもおかしくない。

(どうかな?)

 短く着信音がした。肩にかけていたトートバッグから、スマートフォンをとりだす。「まだ?」「だいじょうぶ?」咲からのメッセージだった。おいおい、個別行動を初めてから十五分も経っていませんよ。この寂しん坊め。

 咲のバイトの都合もあって、旅行は土曜から月曜までになった。初日は新幹線と東海道線を乗り継いで沼津市に移動し、深海水族館を見物して温泉宿に泊まった。今日は新幹線で浜松まで戻って在来線に乗り換え、尼僧祇山麓公園の最寄り駅で降りた。

 お目当ての喫茶店に入る前に、少し運動しよう。そう咲を誘って二人で公園を一巡りした。出口近くに来たところで友子は屋外トイレを指差し、時間かかるから先に行ってと頼んだ。喫茶店は駅から歩いてくる途中で目にしていたから、迷うはずがない。

 入り口に「だれでもトイレ」と記された個室で服を着替えた。駅のコインロッカーで咲に「トートバッグも置いていけば?」と言われたときはヒヤッとした。着替えを詰めてこれだけ膨らんでいるんだから、アドバイスされて当然だ。変装って、本当にやるとなかなか大変だ。コンタクトレンズを買うか迷ったけど、さすがにお金がもったいないからやめた。ウィッグだけで一万円近くもした。

 スマートフォンのディスプレイに顔を近づける。「みやげもの屋、発見」「ちょっとみてくる」メッセージを送信。マナーモードにすると、友子はスマホをバッグの奥へ押しこんだ。任務が完了するまで、おさらばだ。

 バッグからマスクとサングラスをとりだし、装着する。ウィルスのおかげで、マスクをつけていても不審がられないのがありがたい。とはいえ、さすがにこの二点セットは怪しい人すぎる。サングラスはレンズの色がグリーンの、いかにもお洒落ですというタイプにした。

 ウッドデッキまでの短い階段を上がる。「あそぎふれあいショップ」という木製の看板を横目に扉を開く。カウベルが心地よい音を立てた。店内を見渡す。天井付近に視線を走らせ、防犯カメラが設置されていないことを確認する。

 奥のほうはレストランのようだけど、いまはプラスチック製の黄色い鎖が張り渡され、入ることができない。オフシーズンは休業とサイトに記されていたのを友子は思いだした。いかにも土産物屋らしく鉱石のキーホルダーや県内の銘菓を並べた棚がある。

「……らしゃいませ」

 山羊髭を垂らした白髪のお爺さんが、カウンターで瞼を半分閉じたまま言った。寝ていたのかもしれない。エプロンをしているし、ここの店員なのは間違いない。ピンクと白のチェック模様に花束のアップリケがされたエプロンが、いまいち店員っぽくないけど。

 肩からトートバッグを下ろして口を大きく広げ、友子はビニール袋に包まれていた帽子をとりだした。つばがちょっと波打っている、ベージュ色の登山帽だ。

 帽子は昨日、咲の目を盗んで、沼津市内のコンビニエンスストアで受けとった。導師から連絡のあった番号をキオスク端末に入力するだけで、本人確認書類なしで受けとることができた。ターゲットがここへ散歩するとき、いつも被っているのと同じ帽子らしい。導師がどうやって調べたのか知らないけれど、サイズはもちろんメーカーまで同じだという。

「すみませーん」

 登山帽を手にし、友子はカウンターの前へ足を進めた。三月だというのに、毛糸の手袋をしていることは気にしないでほしい。

「拾いました。これ、公園で」

 こういうとき、咲ならどんな言い方をするだろう。そもそも親切に帽子を拾ったりなんかしないか。落ちてたのが財布なら? ウーン、交番に届けそう。ただし、ぶつくさ文句を言いながら。で、落とし主に感謝されると、すっごい照れる。

「あの、私、いま旅行中で。交番とかどこにあるのかわからなくて」

 カウンターに登山帽を置く。山羊髭のお爺ちゃん店員は瞼を細めて、ぼんやりした目で友子を見上げた。カウンターに置かれた帽子に気づくと、おもむろに両手で持ちあげ、矯めつ眇めつした。「あー、これ?」やっと返ってきたお爺ちゃんの声は、頼りないものだった。状況認識が追いついてないらしい。

「落とし物です」

「あー、落とし物」

「あの道、なんだっけ? 桜のロード」

「さくらふぶきウォーキングコース」

「そこです。そこの、池のまわりの東屋のベンチ。落とした人も見ました」

 中年のおばちゃん。黒い髪を肩まで伸ばして、明るい緑色のスプリングコート。二月末に導師が公園でターゲットをみかけたときの特徴を並べ立てる。今日、大きくかけ離れた格好で来たなら導師から訂正の書き込みがあるはずだったけど、それはなかった。

「声かけたんですけど、気づかずに行ってしまって」

 あー、なるほどね。お爺ちゃん店員は相変わらず、わかったようなわからないような声で帽子をいじっている。大丈夫かな。

「持ち主の名前、書いてないね」

 そう言って、お爺ちゃんは登山帽をカウンターに戻した。意外にしっかりしてた。

 落とし主の外見的特徴をもう一度くりかえし述べ、拾ってから五分も経っていないことを強めに伝えると、友子は足早に「あそぎふれあいショップ」をでた。

 トイレへ戻り、もとの服装に着替える。トートバッグの中でスマートフォンが振動したけれど、手にとるのは我慢した。

 着替え完了。咲が怒り心頭で待っているであろう喫茶店へ、友子は足早に歩く。林に囲まれたアスファルトの道路。快晴で、気持ちの良い日だ。眼鏡をかけてクリアな視界で眺めるのはなおさら心地よい。

 終わった。いや、まだタスクはいくつか残ってる。今夜の仕事もけっこう面倒くさい。でも、気持ちとしては終わった感じだ。

 この一ヶ月あまり、ネットでのやりとりにどれだけの時間を費やしただろう。導師、京都飯、そしてジェームズ。一冊の本になるくらい文章を交わしあったように思う。

 大学で、友子は医療用画像に関する研究をしている。プログラミングで困ったことをネット検索することが多いせいか、ソーシャルブックマークサービスには情報工学系の記事がよく表示される。ダークウェブに関する紹介記事を読んだのは、ただの興味本位に過ぎなかった。

 違法薬物を取引するサイトを漫然と眺めたが、申しこもうとは思わなかった。高度な暗号化技術を解説するサイトの文章を理解するには、英語能力が低すぎた。気づけばBigfootBBで怪しい話を愉しんでいた。そして、導師や京都飯たちの議論をみつけた。

 犯行計画を練りながら、ときどき「自分はなにをしているんだろう」と思うときがあった。夜中に目が覚めて「共犯」「刑期」でネット検索したことがあった。共謀共同正犯は、正犯。どうやって人を殺すか具体的な計画を一緒に検討したなら、手を血に染めていない共犯者も、主犯と同罪とみなされる。

 バレたら刑務所に十年くらい閉じこめられてもおかしくない。自分がやろうとしているのはそういうことだ。刑務所についても検索してみた。友人関係だと面会は難しいけど、手紙を交わすくらいなら大丈夫らしい。咲はどう思うだろう。私がどうしてこんなことをしたのか伝える日は来るだろうか。

 胸にくすぐったいものを感じる。この一ヶ月余りをふりかえると「ふわふわしていた」としか言いようがない。まるで夢のように時間が過ぎた。この感情をなんと呼べばいいのかわからない。犯罪を成功させる。確実に、絶対に捕まらない方法で。残酷なことをしているはずなのに不思議なほど冷静で、そして興奮している。

(かわるんだ)

 林が途切れた。駅前の商店街が遠くに見えた。

(つまんない現実って、変わるんだ)

 歩きながら友子は頭の中で言い訳を考える。ごめんね、気づかずにマナーモードにしちゃったみたい。

 咲のことだから、もう注文は済ませてしまっただろう。かたいプリンを目の前にして、おあずけを食らってイライラしてるかも。写真を撮ろう。ねえ咲ちゃん、スマホ貸して。撮ってあげる。わかってるって、顔は写しちゃダメなんでしょ?

 頭の中で何度も練習したセリフだ。こんなちょろいタスク、失敗しようがない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る