四
帰還不能点は越えていない。片蕗克紀はそう心に刻んだ。
いまなら引き返せる。いろいろ準備をした。頭を使った。抜かりはないか何度も確認した。運にも恵まれ、必要なものはすべてそろった。それらの労力を、いまなら投げ捨てることができる。日常に帰ることができる。
まばゆさを感じた。顔を上げる。抜けるような青空が広がっている。うつむいたまま歩くうちに、林を抜けたことに気づかなかったらしい。
歩行者専用の、アスファルト敷きの細い遊歩道が延びている。右手には池が広がっている。風はなく、水面は鏡のように平らだ。対岸にボートがいくつか係留されている。人の姿はない。
立ちどまり、克紀は金属製の柵をつかむ。その向こう側、水面は克紀の足元から三メートルほど下だ。崖はコンクリートで固められ、岸には雑草が繁茂している。ここから落ちて死んだなら、誰にもみつけてもらえないほどに。
ここは無理だ。柵が高すぎる。もちろん克紀は下調べを済ませていた。都合の良い場所をみつけてある。喬一のことで、打ち明けたいことがある。そんなふうに話しかけて移動するつもりだった。
誤って柵から転落した事故。そう判断されたらラッキーだが、望み薄だろう。たかだか三メートル前後の垂直な崖から落ちて、頭にいくつも殴打痕ができるわけがない。すぐには死体がみつからないよう、草むらに隠さなければならない。その痕跡からも他殺だとバレるだろう。
遊歩道は池に沿って緩やかにカーブしている。三月上旬、桜の開花にはまだ早い。尼僧祇山麓公園に人の姿は相変わらず稀だ。それは好都合だが、ターゲットの姿もないのは困る。しかたがない。まさか電話で呼ぶわけにもいかない。
これまで五回、ここに来た。中馬加奈江は日曜日、午後一時前後にはいつもここを通った。とはいえ、人間のすることに絶対はない。突然の用事ができて時間帯をずらすかもしれない。ちょっとした気分の変化で散歩そのものをやめるかもしれない。
ジェームズは遠方に住んでいるらしい。ここへは旅行という名目で訪れる。他ならぬ克紀も、四月には都内のマンションに戻るつもりだ。今日の計画が頓挫したら、そう簡単にやり直しはできない。
三十分ほどのずれは問題ない。一時間となると考えものだ。この犯行計画のリスクのひとつは、検死による死亡推定時刻の判断にある。
直腸内温度の変化、死後硬直の度合い、角膜の混濁や食べたものの消化具合。死亡推定時刻はさまざまな観察事実の組み合わせから推測される。何時何分に殺されたとピンポイントにわかるものではなく、必ず幅がある。とはいえ、ズレは小さいに越したことはない。死亡推定時刻が午後一時から二時までなのに、午後五時に生きている姿をみかけましたなどと証言したら、間違いなく怪しまれる。
午前一時前後に中馬加奈江を石で殴り殺す。ジェームズには、生きている加奈江の姿を午後二時にみかけたことにするよう頼んでいる。殺害後に克紀はさっさとここから立ち去り、午後二時以降のアリバイを作っておけばいい。
加奈江は夫と二人暮らしだ。幼児の姿が見えなくなれば一時間も待たずに大騒ぎになるが、大人ならそんなことはない。夜まで待つか、せいぜい心当たりに電話するくらいだろう。警察や消防団による大がかりな捜索がされて死体がみつかるのは、早くて明日になるはずだ。
死体発見までに半日以上の開きがあれば、死亡時刻を一時間くらい偽装しても気づかれない。そう信じたいが、こればかりは賭けだ。ジェームズに心配されたが、克紀がいくら調べても確信を得ることはできなかった。
(しかたないさ)
つかんでいた柵から指を離し、克紀は歩きだす。遠くで鳥の鳴き声がした。
(やってみないと、わからない)
たとえば、自分に人は殺せるのか。
ダッフルコートが重い。ポケットに石を入れているせいだ。手頃な大きさのものを探すのに時間がかかった。あまり小さいと凶器にならない。かといって大きすぎると、ポケットの中で握りしめたままスムーズにだすことができない。
(座るか)
道の脇にベンチがあった。背もたれも肘掛けもない、シンプルな木製のベンチだ。風雨にさらされてくすんだ座面を、克紀は手で払った。ゆっくりと腰を下ろす。
中馬喬一の死を知ったのは、克紀が高校三年生のときだった。十二月半ばの、ありふれた平日の朝だった。校舎の窓から生徒が飛びおりて即死したとテレビニュースが報じた。またイジメがあったのか。味噌汁を啜りながら克紀はそう思ったが、テロップを目にした母に「ちょっと、あれ」と箸を持った手で叩かれた。
克紀が喬一とクラスメイトになったのは中学二年のときだった。席替えで隣同士になったことをきっかけに雑談を交わす仲になった。マンガや小説の好みが似ていて、やがて貸し借りのためにおたがいの家を訪れるようになった。
二人とも帰宅部だったが、喬一は塾に通っていた。それを知ったとき「頭良いのに、なんで勉強すんだよ」と克紀はからかった。喬一は薄く笑みを浮かべるだけだった。クラスの友人たちとカラオケやゲームセンターへ遊びに行くとき何度か誘ったが、親に禁じられているからと断られた。
中学を卒業すると、喬一は県下有数の進学校に入学した。地方で高校生が携帯電話を持っているのはまだ珍しい頃で、行き来に苦労するほどおたがいの家が離れていたわけでもないが、いつしか疎遠になった。
ニュース番組のテロップにかつての友人の名を目にし、高校三年生になっていた克紀は呆然とした。電話をハシゴし、ようやく喬一と同じ高校へ進学した者をみつけた。
受験ノイローゼだったらしい。結論として得られたのは、そんなありふれた理由だった。母親と進路のことで対立していた。希望する学部に進学したければ旧帝大を目指せ。そんな条件を課せられていたという噂がささやかれていた。
当時、中馬加奈江は美容室を個人経営していた。店舗は離れたところにあり、喬一の家を訪れても克紀は加奈江とほとんど顔を合わせなかった。通夜の席で挨拶をしたが、加奈江は半ば放心しているようだった。嫌味のひとつくらい言ってやろう。そんなつもりでいた克紀だったが、喪服姿で髪を乱した女のうつろな表情になにも口にできなくなった。
(馬鹿みたいだな)
克紀はいま三十七歳。友人の死を知った冬の朝から、二十年近くが過ぎようとしている。
(馬鹿だ)
たかだか雑談を交わして一緒に暇をつぶしただけの仲じゃないか。大人になったいまならわかる。高校生だった。思春期だった。多感な時期だった。自分の力量が足りないというそれだけのことを、世界の終りのように感じてしまう。喬一にも悪いところがあったという意味ではない。ただ巡り合わせが、タイミングが悪かった。
(わかってる)
それはわかっている。中馬加奈江だけが悪いわけではない。俺だって、悪い。あのまま友人関係を続けていたなら変調に気づいてやれたかもしれない。ガス抜き役くらいにはなれたかもしれない。
(わかってるんだがな)
足元を蟻が這っている。いつの間にか、またうつむいていたらしい。克紀は顔を上げた。
遊歩道の果て、中年女性の姿があった。距離があるが間違いない。予定どおり、克紀が弁償したベージュ色の登山帽を被っている。
(――来た)
帰還不能点は越えていない。そう心に刻んだことを、克紀は思いだした。
じゃあ、越えよう。
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