三
午後四時、バイト終了。
二月下旬、陽射しはまばゆいが風は冷たい。商店街を歩く人々はまだまだ冬の装いが目につく。花粉症か、それとも新型コロナウィルスを恐れてか、マスクをつけている人がずいぶん多い。
細い脇道に入る。神社の参道沿い、梅の木に花が咲いていた。コンビニの前を通りすぎる。今週の買い出し当番、どっちだっけ。そんなことを思ったが、咲は歩みを緩めなかった。せっかくの早上がりだ。もっと有意義な時間の使い方しなくちゃ。
部屋番号を入力し、鍵を差しこむ。集合玄関の自動ドアが開く。エレベーターは使わない。五階まで階段を上がる。瓦屋根を見下ろす角度が高くなっていくのが好きだ。なんとなく、なにか貯金をしてる気になれるし。
シューズを脱ぎ散らかし、短い廊下をどすどすと進んでリビングの扉を押し開ける。ローテーブルに同居人が覆いかぶさっていた。座椅子の背もたれがあるのに猫みたいに背中を丸めて、タブレットにやたら目を近づけている。
「ただいま」
咲が声をかけても、
腰を屈める。友子はパッと見、男性かと思うほど髪が短い。丸首のニットからうなじがすっと伸びている。美容師さん、ちゃんとカミソリをあててくれたらしい。ちょっとくすぐってみたい欲求をこらえて、咲は肩越しにタブレットを覗く。
ブラウザにぎょっとするほどいくつもタブが開いている。いまは「うなぎパイファクトリー」とやらの公式サイトを熱心にみつめている。
「旅行?」
ひゃえ? 悲鳴とも奇声ともつかない声をあげ、友子は身を震わせた。ふりかえる。息のかかりそうなほど近くにある咲の顔に思わずのけぞる。指がタブレットにぶつかった。ドミノが連鎖し、マグカップが揺れる。倒れこそしなかったもの、お茶が飛び散った。
あー、あー。一番目は驚愕の「あー」で、二番目は狼狽の「あー」だった。ぽかんと口を開けて固まる友子を尻目に、咲は素早く動いた。ティッシュペーパーをしゅしゅっと引き抜き、急須やカップを退避させ、こぼれたお茶を拭う。
「あー……り、がとう」
三番目は感謝の「あー」だった。
「ごめん、驚かせて」濡れたティッシュをくずかごへ放りこみ、咲はクッションに腰を下ろした。「それで? どっか旅行?」
「ん……なんとなく……どうかな、て」
黒縁の眼鏡を外し、友子は指先で瞼を撫でた。いつものしぐさだ。涙ぐんでいるのでも、かゆいわけでもないらしい。いつだったか咲が訊いてみると「マッサージ?」と友子は首を傾げた。本人にもよくわからないらしい。
「そっか、春休みだもんね」
二人は名古屋市内にある同じ大学に通っている。咲は経済学部、友子は工学部と別々だ。友子のほうが二つ年上の大学院生で、その驚愕の事実が明らかになったときには出会いから三ヶ月が過ぎていた。けっきょく、いまもタメ口で話すのが当然になっている。
初めて言葉を交わしたのはかれこれ二年前、学生食堂が混んでいて相席になったときだった。食事をする友子があまりに上の空に見えて、心配した咲が声をかけた。「うーん……そう、甘くておいしいなって」つぶやきながら友子はデザートスプーンを口元へのろのろと運び、フルーツヨーグルトを一口あたり一分くらいのペースでゆったりと味わっていた。
去年の夏、咲が生活していた安アパートの、真下の部屋が火事になった。新しい部屋を探すことになったが、時期外れだけに良い物件がない。学生食堂でそのことを友子にぼやき「あんたんとこ、住まわせてよ」と頼んだ。
わかった。友子は即答した。
親戚に資産家がいるおかげで、友子は2LDKの分譲マンションに独りで暮らしていると聞いたことがあった。築十二年、鉄筋コンクリート十五階建て、オートロック式の集合玄関に防犯カメラ。冗談で口にした頼みだったけど、淡い期待がなかったとは言えない。だからこそ、友子のあっさりすぎる承諾に咲はむしろ動揺した。
「ちょっとは考えなよ」一緒に暮らせば性格の違いとかいろいろあんのよ、私が真顔で冷蔵庫に納豆を一ダース常備しないとダメとか言いだしたらどうすんの。滔々と述べたてたが、友子はいつもと同じ、ぽやんとした目で「ま、なんとかなるよ」と、なんの根拠もなく言い切った。
で、けっきょく。
なんとかなった。
「咲ちゃん、ちょっとお待ちなさい」
着替えに自室へ戻ろうとした咲を、友子がなぜか時代劇みたいな言い方で呼びとめた。
「東と西、どっちが好き?」
「西かな」
ここは名古屋だ。うなぎパイで知られる浜松市は東にある。
友子はおもむろにテーブルへ両肘をつくと、頭を抱えこんだ。
「まあ、それなりに東も好き」
「だと思った」
顔を上げ、にっこりと友子が微笑む。
「温泉も好きだよね」
「いいね」
「プリンのおいしい店とか」
「写真、撮らないとな」
料理をスマートフォンで撮影し、写真共有サービスにアップロードするのが咲の習慣になっている。
「おみやげ、なに買ってきてほしい?」
「おい」
冗談! 心から楽しそうな声で友子はそう言って、タブレットに視線を戻すとワイヤレスキーボードでなにやらタイピングを始める。
「今度、服とか買いに行こうね」
「服かあ」
「咲ちゃん、いっつも白か黒か白と黒のボーダーしか着ないじゃない」
「人生の知恵、最強のコーディネイト」
「旅行くらい、可愛いの着よ」
「あー、考えとく」
頭を掻きながら、咲はリビングをでる。薄暗い廊下を歩きながら、ダウンジャケットのジッパーを下ろす。
(よかった)
ちょっとだけ、ひやっとした。本気で友子は一人旅をするつもりなのかと思った。
長かった同居生活も、もうすぐ終わる。すでに咲は新しいアパートをみつけており、来月には引っ越しを予定している。はっきり口にされたわけではないが、旅行はお別れ前の思い出作りなのだろう。
少し、感動している自分がいた。友子はそういうことを思いついたり、ましてや積極的に行動に移したりするタイプではないと思いこんでいた。
(やっぱ、わかんない)
友子のことはよくわからない。半年余り同居生活を続けてきたのに、宇津木咲は彼女のパーソナリティをつかんだという確信を得たことがなかった。
その頃、リビングで竹海友子――電子掲示板「BigfootBB」にアカウント「ジェームズ」として書きこみ、共犯同盟の第三のパートナーとなることを希望した人物――は、かたいプリンが美味しい喫茶店のサイトを眺めていた。
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