二
あなたの目の前に百万円の札束があるとしよう。誰かの忘れ物だが、忘れていった当人はすでにいない。まわりに他の人の眼も、防犯カメラもない。速やかに札束をつかみ、鞄に忍ばせ、家に帰れば、あなたは誰にも知られることなく大金を我が物とすることができる。さあ、あなたはどうするだろう。
新しい世紀を迎えてから二十年近くが過ぎた現在、インターネットとはなにか説明する必要はないだろう。しかし「ダークウェブ」はどうだろうか。耳にしたことくらいはあっても、詳しくは知らない者が大半ではないか。
ダークウェブとは、匿名性が保証されたネットだ。誰がどこからアクセスしたのか、たとえ国家権力であろうと身元を明らかにすることはできない。
匿名巨大掲示板に無差別殺人や爆破予告を書きこんだ人物が逮捕された。そんなニュースを耳にしたことはないだろうか。プロバイダや、サイトを公開しているサーバにはアクセスログが残る。法の執行機関はログを開示するよう要求し、軽率なふるまいをしたのは誰なのか特定することができる。
だが、ダークウェブはそうではない。目的のサイトへアクセスするまでに複数のサーバを経由し、その経路は暗号化される。誹謗中傷だろうが、違法薬物の取り引きだろうが、暗殺依頼だろうが、全世界七十七億人のいったい誰が書きこんだのか突きとめることはできない。
なんだか難しそうな話だって? だったらページをめくる手を休めて、ネットを検索してみればいい。ダークウェブにアクセスするためのブラウザは誰でも無料で入手できる。ものの十分もあれば未知の世界を覗くことができるだろう。
ダークウェブ上のサイト「BigfootBB」は当初、心霊や超能力、UFO、オーパーツといったオカルト関連の話題を語りあうフォーラムだった。やがて秘密組織や陰謀論、未解決犯罪や猟奇的事件を扱うカテゴリが設けられた。登録アカウント数は四千を越え、基本的には英語を用いることがルールとされていたが、各言語別のルームも設けられた。
日本語ルーム内の雑談を目的としたスレッドに、アカウント名「導師」での書き込みがなされたのは日本標準時で一月十七日の午後十一時七分。交換殺人のパートナーを求める内容だった。
交換殺人とはなにか説明しておこう。他殺死体が発見され、現場の状況から内部の者による犯行とみなされたとする。警察は被害者と利害関係のある人物をリストアップし、死亡推定時刻のアリバイを確認していく。
ミステリでは、見知らぬ者同士が殺す相手を交換するというアイデアが古くから検討されてきた。Aが殺したい人物をBが代わりに殺す。同じ時間帯にAは別の場所にいたため犯行は不可能だったという
AとBは赤の他人だから、Bが動機のある人物として警察にリストアップされることはない。Aにはアリバイがあるため、犯行は不可能とみなされる。こうして二人とも容疑圏外となる。
同様に、Bが殺したい相手をAが殺し、その時間帯にBはアリバイを確保する。同じ理屈でAもBも容疑圏外となり、完全犯罪を成し遂げることができる。
交換殺人のパートナーを求める導師の書き込みに初めて反応があったのはそれから二日後のことだった。アカウント名「京都飯」による〝俺も気に入らない奴はいるけど〟という書き出しの文章は、否定的な内容だった。
京都飯のコメントに導師はレスを返し、交換殺人の現実性について議論を深めていく。殺す相手を交換するということは、赤の他人に暴力をふるうということだ。心理的なハードルが高すぎる。パートナーが裏切ったり、へまをしたらどうする。京都飯が次から次へとくりだす批判に、導師は劣勢に立たされる。
引用を含む長い文章の応報が続き、新しくこの議論のためのスレッドが立てられる。このスレッドには他のアカウントからの書き込みもあったが、散発的なものに過ぎないため紹介は省略しよう。初めの呼びかけからちょうど一週間後の一月二十四日午前一時五分、導師は次の文章で始まる書き込みを投稿する。このとき「共犯同盟」という言葉が初めて用いられた。
わかった。無理。交換殺人むりすぎる。
で、急に方向転換して悪いんだが、別のアイデア思いついた。名づけて共存共栄ならぬ「共犯共栄」もしくはシンプルに「共犯同盟」でいいか。
後の議論による改良点を含めて共犯同盟のアイデアを整理すると、次のようになる。
おたがいの犯行の共犯者になる。殺人は、ターゲットを憎む本人が実行する。手を血に染める主犯のために、共犯者は偽証してアリバイを捏造してやる。
身元は決して明かさない。ダークウェブだけで情報交換し、物のやりとりは最小限にする。顔を合わせることは一度もしない。無事に犯行を終えたなら、おたがいに情報端末上の記録をすべて破棄する。
つまり、共犯者の心理的抵抗感を交換殺人より格段に下げたのが共犯同盟になる。なんらかのへまをして逮捕されても、主犯は誰が共犯者なのかアカウント名しか知らず自白しようがない。共犯者はたったひとつ嘘をつくだけで良く、身の安全が保証された気楽な立場だ。
京都飯はそれでも容赦なく、このアイデアの瑕疵を指摘した。身元をおたがい知らずにいることは難しいのではないか。ことは殺人事件だ。誰が被害者を恨んでいたのかマスコミが記事にしたりネットで噂されるかもしれない。共犯者がどこそこで主犯をみかけたと偽証するには、主犯の容姿や年齢層を知らされていなければならない。それらの情報を組みあわせれば、共犯者には主犯が誰なのか身元の見当がついてしまう。
それなら主犯ではなく、ターゲットの行動について偽証すればいい。そう導師は反論した。殺された時刻よりも後に、生きている被害者をみかけたと証言する。こうして死亡推定時刻を後ろへずらし、まだ被害者が生きていたとされる時間帯に主犯はアリバイを作る。これなら共犯者に伝えるべきは被害者の特徴であり、主犯については明かさずに済む。
京都飯はそれでも慎重だった。交換殺人と違って、共犯者は証言という形で事件に表から関わることになる。AとBが共犯同盟を結んだとする。二人は赤の他人同士だ。それなのに警察がAを疑った事件ではBが無実の証明につながる証言をし、Bを疑った事件ではAが証言をする。警察や裁判の関係者に勘の良い者がいれば、間違いなく不審を抱く。
この指摘に導師は、二つの解決策を提案する。ひとつ、共犯者は直接証言するのではなく、間接的な形で被害者の死亡推定時刻をずらす工作をすればいい。たとえば共犯者が被害者そっくりに変装し、防犯カメラに映る。これなら共犯者は警察に関わる必要がない。
もうひとつの解決策として、第三の人物を共犯同盟に加える。Aが殺人を実行し、Bが偽りの証言をする。このときCはなにもしなくて良い。同様にBが主犯でCが共犯、Cが主犯でAが共犯と分担をローテーションする。
これなら三つの事件すべてに関わらないかぎり三者につながりがあるとは気づかない。そもそもネットで知りあった三人が三人とも同じ都道府県に住んでいる確率は低い。管轄が異なる事件のただの一証言者まで把握している捜査員などいないだろう。
くわえて導師は、三人で共犯同盟を結成すればもうひとつ大きな利点があると指摘した。
ダークウェブを利用すれば身元を明かさずに済む。だからこそ、裏切りにつながる恐れがある。初めにAが主犯となり、無事に犯行を終えたとする。次の犯行前にAが逃げてしまったらどうなるか。
逃げるといっても、Aはただ音信不通にするだけでいい。ダークウェブの性質上、BにはAを探して「約束が違う」と問い詰める手段が無い。被害者と利害関係のある者を探せばみつかるかもしれないが、警察のような捜査能力のない一般市民にそれは難しいだろう。
これが三人ならどうなるか。Aが主犯、Bが共犯、Cはノータッチとしよう。首尾よくAが殺人を成し遂げた後、もし連絡を絶つようであれば、罰としてCはすべてを警察に打ち明けるという取り決めをする。
殺人計画にまったく関わっていないCは、ダークウェブでのやりとりの記録さえ消去すれば警察を恐れる必要がない。警察はむしろアリバイがある人物に容疑の眼を向け、Aは逮捕されるだろう。Bはとばっちりを受けることになるが、それはしかたがない。
一月末日の昼下がり、都内のカフェでコーヒーカップ片手に日本スキューズ社のソーシャルエンジニア、
果たして罠にかかる者はいるのか。蓮井が思い浮かべた疑問は、その日の夕方に答えがでた。一月三十一日午後五時四十二分、アカウント名「ジェームズ」が共犯同盟に加わりたい旨の文章を投稿した。
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