新しい元号へ改まった日本が初めて迎えた年の暮れ、ひとつのニュースが列島を駆け抜けた。金融商品取引法違反と特別背任の容疑で逮捕された人物が、保釈中に国外へ逃亡した。それも並の人物ではない。資本金六千億円、二万三千人の従業員を抱える大企業のCEOだ。

 コントラバスのケースに潜んで空港保安検査の目をかいくぐり、プライベートジェットで中東へ。ハリウッド映画じみた逃走劇に人々は驚き、呆れ、怒った。そして天を仰ぐと、長々とあきらめの溜め息を吐いた。

 これは私たちには縁のない話だ。この国で起きたことだが、どこか遠い国で起きたも同然だ。いや、国という枠すら越えるスケールだ。世俗の習わしや道義など歯牙にもかけない。ルールそのものを変えたり、新しく作ってしまう奴ら。良くも悪くも後世に語り継がれるべき者たちの話なのだろう。

 名もなき人々はそんなふうに悟り、肩を落とし、苦笑いをしながら首を左右にふると、日常へ戻っていった。スーパーで生卵の賞味期限と値段のどちらを優先すべきか頭を悩ませたり、スマートフォンを凝視して自分が通勤電車にいることを忘れようとする、そんな平凡な日常に。ただ、なかには別の考えを抱く者もいた。

 なぜ、ルールに従わなければならないのか。強い者たちが決めた、強い者たちがより強くなるためのルールに。自分こそ、ルールを作る側にまわってなにが悪い。三十七歳の片蕗克紀かたぶき かつきは、そんな稀有な思いを抱いた一人だった。


 まずい。そう思ったときには足を踏みだしていた。風に吹かれ、つばを車輪代わりにして転がってきた登山帽が、吸いこまれるように靴底の下へ滑りこむ。冬枯れした芝生と足裏とのあいだに異物を感じる。どこうとして、足がもつれた。帽子をもう片方の足でも踏んでしまった。

 白いマフラーを巻いた中年女性が、目をみはった。不機嫌そうな顔が、不機嫌を通りこして凶悪になる。

「あ……し、す」

 すみません。その一言が、すっとでてこない。片蕗克紀は口をひくつかせた。頭の奥が熱い。息が苦しい。パニックになる自分を、もう一人の自分が冷ややかな目でみつめている。これだからお前はダメなんだ。想定外のトラブルにとことん弱い。

 風の強い日だった。松の内を過ぎ、雪こそないものの寒さが厳しい。日本海のほうは大雪らしいが、すっきり気持ちよく晴れている。

 晴れているからといって、こんなところへ来るのは物好きだろう。静岡県の尼僧祇あそぎ山は標高三百メートルほどの里山だ。その中腹にある尼僧祇山麓公園は、特に桜の時期には花見客が押し寄せるものの、冬は閑散としている。

 総延長が十五キロあるという遊歩道を巡れば、高低差もあって汗をかく。ダッフルコートのボタンを外し、片蕗克紀は歩いていた。登山帽をかぶった中年女性、中馬加奈江なかま かなえの後を尾けていた。

 それは偶然に過ぎなかった。気まぐれに公園を訪れ、たまたま加奈江の姿をみかけ、思うところがあったものの話しかける勇気はなく、かといって離れる気にもなれず後を追った。このとき克紀はまだ、殺意を抱いていなかった。

 雑木林を抜けると枯れた芝生が広がっていた。ひときわ強い風が吹いた。ハッと加奈江が頭に手をやるが、間に合わない。転がってきた登山帽を拾おうとして、気づけば克紀はそれを踏んでしまっていた。

「どいて」

 ドスの利いた声で呼びかけられ、初めて克紀はまだ自分のジョギングシューズが登山帽を踏んだままだと気づいた。慌てて片足を上げる。シューズの裏から松葉がぽとりと落ちる。ベージュ色の登山帽にくっきりと靴底の跡がついていた。

「すみません、申し訳ない」

 帽子を拾い、叩いて土埃を払う。しかし、そんなことで泥汚れは落ちない。

「洗ってきます。いや、クリーニング? 弁償しますよ。どこで買いました?」

 克紀の早口に面食らったのか、加奈江は金剛力士像のごとく目を丸くした。化粧気はなく、下瞼がたるんでいる。パチパチとまばたきして、国道沿いにある衣料品店の名を口にした。低価格高品質を売りにして全国津々浦々に店舗を拡大し海外進出も果たした店だ。

「覚えてますか? 片蕗です。中学のとき、喬一きょういちくんと仲良くさせてもらっていた」

 中馬喬一。十七歳で自殺した加奈江の息子。

 それは魔法の呪文のように効いた。加奈江の瞳から焦点が失われていく。そこには乱れ髪で放心する、初老に差しかかった女性がいた。笑みとも緩みともつかない顔で「ああ、片蕗くんね」と半ば放心したままつぶやいた。

 しばし二人は会話を交わした。加奈江は日曜日に決まってここで散歩をすること。克紀は都内で就職したが、過労で体調を崩し、帰省して骨休みをしていること。

「そういえば、お店で従業員の方が亡くなったそうですね」

 大変でしたね。せいいっぱいの何気なさを装い、克紀は同情の笑みを浮かべた。「そう、そうね……」ガソリンが尽きでもしたかのように、加奈江の口はみるみるスピードが衰えた。別れ際、加奈江は「別にいいわよ」と登山帽を取り返そうとしたが、克紀は固辞した。

 後の供述調書に記されたとおり、これは偶然に過ぎなかった。尼僧祇山麓公園からの帰路、克紀は洗濯するか、クリーニング店に頼むか、帽子代を支払うか、同じものを買いなおすか本気で悩んでいた。

 結果的に克紀は四番目の案を選んだ。加奈江がその帽子を買ったという店に克紀が赴いたのは翌日のことだった。そのときには、それは前代未聞の殺人計画を構成する一手となっていた。

 ダークウェブ上の電子掲示板「BigfootBB」に克紀がアカウント名「導師」で後の「共犯同盟」につながる初めての書き込みをしたのは、それからさらに四日後となる。

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