第7話 僕の求める愛
小学3年生の時、家族で遊園地に行った。
父は自然が好きで、キャンプや運動公園へはよく連れていってくれたのだが、遊園地やいかにもな観光地はあまり好まない。だから、自らの運転で僕と母を遊園地に連れていってくれるなんてと、子供ながらに驚いたものだ。
僕は遊園地が初めてだったからソワソワして、車の中でもずっと父や母に話しかけ、落ち着きなく過ごしていた。父からうるさいと怒られた記憶があるので、よく覚えている。
しかし、肝心の遊園地内での出来事はあまり思い出せない。
きっと皆で遊具に乗って遊んだのだろうが、どんな遊具があったのかすらも分からなくなってしまった。
ひとつだけ、鮮明に思い出すことができるのは、夕暮れの風景だ。
閑散とした園内には夕日が差していて、僕は母と二人で園内を歩いている。閉園間近だったのかもしれない。父はなぜかその場にいなかった。
母に手をひかれ、滑らかに舗装されたコンクリートの上を歩く。
足が疲れていた。
母におんぶをねだりたかったが言い出せず、うつむきながら必死に重い足を動かした。
足元を見ながら歩くと危ないと母に言われて顔を上げると、少し先にあるベンチの脇に、大きなクマの着ぐるみが立っているのが見えた。
臆病な性格だった僕は、突然現れたそのクマが地球にとって異物のように思えて恐ろしく、咄嗟に母の後ろに隠れた。
母の背中越しに恐る恐る見てみると、クマは通る客たちに手を振ったり、客と並んで写真を撮ったりしている。母に同じように並んで写真を撮るよう促されたが、僕は拒否し続けた。
お父さんを探して早く帰ろう、僕はそう母に言ったと思う。
しかし、母は僕の手をひいて、クマの所まで半ば無理矢理に連れていこうとした。僕は強く抵抗したが、騒いだせいか、クマの方が僕の存在に気づいてしまったのだった。そしてゆっくりとこちらに近寄ってくるものだから、僕の恐怖はピークに達した。
もう人生が終わった。そう思った。
お母さん、逃げなきゃ。
僕はしきりにそう言ったが、母は笑いながら全くその場を動こうとしないので、僕はひどく腹が立った。怒りと恐怖でメチャクチャになって、泣きながら母の手を力一杯引っ張ったが、母はニコニコしている。
そうこうしている内にこちらに到着したクマは、近くで見ると最初の印象よりもずっと大きかった。固定された笑顔のまま、体を折って僕の顔を覗き込んでくる。
食われる、と思ったが、クマは襲ってはこず、代わりに僕の前にそっと両の手の平を差し出したのだった。
その動作が驚くほど優しいものだったので、僕は拍子抜けした。
ふっと体の力が抜ける感覚。僕は自然とその上に自分の手の平を重ねた。
クマは僕の手をそっと握る。
そして、小首をかしげて見せた。
言葉はなかったけれど、ねっ?怖くないでしょう?と言っているのだと分かった。
僕の手を離したクマは、今度はゆっくり立ち上がって両手を大きく広げた。今度はこっちにおいでと言っているのだと分かった。
僕がゆっくりクマに近づくと、クマは大きな両腕で僕をそっと抱きしめる。
クマの茶色い毛は毛布のようで、温かくて、気持ち良かった。
その後はどうしたのだろう。
気がつくと父がいて、車で家に帰った。
クマと並んだ僕の写真がアルバムに残っているから、写真は撮ったのだろう。
あのクマの大きな体。
抱きしめられて身体中がほかほかとあたたかくなったあの感覚を、僕はいつまでも忘れられずにいる。
父とも母とも違う、あのぬくもり。
あの巨大なやすらぎ。
言葉がなくても気持ちが伝わった喜び。
一言で言うと愛だ。
僕の求める愛って、きっとあれなんだと思う。
僕はベッドの上で天井を眺めながら、今日の出来事を思い返した。
千歳さんに声をかけられて、会話をした。
そう、僕は千歳さんと話したんだ。
千歳さんがペンションへ行きたいって言って、僕は予約の電話をした。
つまり僕たちは旅行へ行くってこと。
ああ、まだ夢の中にいるようだ。千歳さん。君と僕は付き合うことになるのかな。
一緒に旅行に行くってことは、そうなんだと僕は思うよ。
早く君の彼氏になって、君に優しくしたい。君と抱き合いたい。君と愛を確かめたい。
僕は、千歳さん、と口に出して言ってみた。
千歳さん。千歳さん。千歳さん。
それからそっと、恵梨香、と言ってみた。顔が熱くなった。
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