第十四話 感情の萌芽
エゼルバルドのキスが荒々しくなってきた。
時折、苛立つように舌を執拗に甘噛みされて緊張する。このまま舌をかみちぎられたらどうしようという恐怖が、どこか心地いい。背筋に走るのが快感だとは認めたくない。
「ミサキ……」
名前を呼ばれて目を開くと苦し気な紫の瞳が見えた。キスより先の経験はないから怖い。それでも求められたら拒否しようがない。視線を逸らせると、またキスが始まる。
温かい図書室の棚の間で、もうずっと抱きしめられている。不快だと思えないのはエゼルバルドが美形だからとか、そういったことではなくて、夢の中の男と良く似ているからなのだと思う。キスをされると私の中の魔女が歓喜で震えているのがはっきりと判るようになってきた。
私はヴァスィルが好きなのに、エゼルバルドのキスが心地いいと思っている。
魔女の歓喜は徐々に私の心を浸食しているのかもしれない。
苦しい。ヴァスィルには手が届かないのだから、エゼルバルドを好きになればいいと思うこともある。暖かくて力強い腕の中は安心できる。この異世界で頼れるのはこの人だけなのだからと理性ではわかっていても、乱れる心がちぎれそうで痛い。
……早く元の世界に帰りたい。
私がヴァスィルとエゼルバルドの二人を好きになる前に。
■
エゼルバルドとジェイクが取り寄せてくれるお菓子は全く違う。
エゼルバルドが取り寄せる王城で人気だというクッキーは見た目が綺麗でもあまり甘くない。蜂蜜の甘さだとは思うけれど物足りない。ジェイクが取り寄せる一般国民に人気だという丸いカステラに似た焼き菓子は、じゃりじゃりと砂糖まみれで甘すぎる。
それでも、甘いお菓子が口にできるだけで嬉しかった。紅茶や珈琲はないから、ハーブティやホットミルクと一緒に食べる。
エゼルバルドとジェイクは最初に一口食べるだけで後は口にしようとしない。その一口は毒見の為であって、甘い物は食べる習慣がないので受け付けないらしい。
■
塔の温室に入ると赤い竜が七色の煌めきの中で人の姿になった。
『ミサキ! 芽が出たぞ!』
最近、ヴァスィルは人の姿になって笑って出迎えてくれて、大きな手で頭を撫でてくる。リクエストすれば竜の姿に戻ってくれるけれど、人の姿で一緒に過ごすことが増えている。
「凄い。春になるまで出ないと思ってた」
昨日見た時には何も変化がなかったのに緑の芽が沢山出ている。二人でしゃがみ込んで一センチにも満たない芽に手を伸ばす。そっと触れるか触れないかの距離で撫でるとさわさわとした感触がくすぐったい。
『ここは温かいし魔力も栄養も豊富だ』
「魔力で花が咲いたら、どうなるの?」
『薬にした時に効果が高くなると聞いてる』
この塔を作ったライトゥーナ国の王族は、ここで魔力を込めた薬草を作って国民に分け与えていた。巫女が作る薬のおかげで、国民は寿命で死ぬまで健康に暮らしていたらしい。
「国が滅びると、いろんなものが無くなってしまうのね」
『そうだな。戦争で勝った国は負けた国の人間も文化も全て消し去ってしまう。自国が一番だと思っているから、受け継ぐなんてことは考えない。相手の歴史を途絶えさせることで優位に立とうとするんだ。俺達、竜族から見ると五百年、千年なんて短い間だけどな』
ヴァスィルがそう言って、私の頭を少し強めに撫でた。
「子供扱いしないで!」
ぷくりと片頬を膨らませると、ヴァスィルは笑って頬をつつく。
『この姿なら、いくらでもミサキを可愛がれるからな』
ヴァスィルは、私の髪の感触が気に入ったらしくて、すぐに頭を撫でて髪に触れたがる。これは子供のような扱いで、恋人に対するものではないと思いながらも触れられるのは嬉しい。
「もー! 仕方ないんだから!」
子供のような仕草で抱き着くと、ヴァスィルは上機嫌で抱きしめ返してくれる。ヴァスィルの腕の中は、鼓動が跳ねて落ち着かない。
私がヴァスィルの
『ミサキ? どうした?』
抱き着いたまま目を閉じているとヴァスィルに問いかけられた。
「……早く帰りたいなって」
ヴァスィルと離れたくはない。でも、エゼルバルドを好きになる前に離れたい。二人が好きなんていう状況は自分の心が許さない。
『そうか。そうだな。早く帰らないとな』
「ヴァスィル? どうしたの? 何だか寂しそう」
『よくわからない。なんだろうな。ミサキがいないと寂しい』
少し困ったように首を傾げると、綺麗な赤い髪がさらりと零れる。ヴァスィルの言葉に、さらに鼓動が跳ねた。優しく髪を撫でられて抱きしめられた。
『ミサキが番だったら良かったのにな』
ヴァスィルの言葉で、氷水を浴びせかけられたように私の心が冷えて、どこか黒い思いが頭をもたげた。
私はヴァスィルの番じゃない。……番なんて、無くなればいいのに。
■
窓の外にちらほらと雪が舞い始めた。温かい居間の中から空を見上げると暗い冬の雲に覆われていて、あの不思議な赤と緑の月は見えない。
この世界には女性向けの娯楽が少ないから、私はとにかく本を読む。竜に関する本は書き手が違っても書いてある内容はほぼ同じで飽きてしまった。ヴァスィルに聞いた方が深くて面白い。
折角だからと魔法に関する本も読むようになった。ジェイクがいろいろと手解きしてくれても、目に見えるような魔法は使えない。私の元の世界の知識が、魔法を使う事を阻止している可能性があると言われて納得した。
ジェイクが水をお湯にしたり、火をおこしたり、時にはつむじ風を起こして中庭の落ち葉を巻き上げて降らせたりするのを見せてくれたりする。不思議だったり綺麗だったりする光景は、手品か映画の一場面のようにしか思えない。わかりやすく解説されても、実現なんてできないだろうと最初から諦めてしまっているからかもしれない。
■
新しい本を図書室で選んで居間へと戻る。一度に何冊も選べば楽だろうと言われても、この城の中での生活と散歩だけでは運動が足りないと感じているから、少しでも歩く為に一冊ずつ読んでいる。
「ミサキ、何か希望はありませんか? 最近、私には何も言ってくれないので寂しいですよ」
戻る途中の廊下で隣を歩いていたジェイクが優しい笑顔で問いかける。最近、希望をエゼルバルドに伝えているのは、ドレスを着せ付けてくれるジェイクの手が怖いのと、エゼルバルドの不機嫌が怖いから。
「……帰る方法は、まだ見つからないのですか?」
ぽつりと呟くと、ジェイクが困ったような笑顔になった。
「まだ見つけられていません。……ミサキ、この世界で生きてみようと思いませんか?」
優しい笑顔のジェイクが立ち止まって、私の手を取った。
「この世界は私の世界ではありません。何もかもが違い過ぎていて落ち着けません。……ごめんなさい。どうしても帰りたいんです」
やはりヴァスィルに頼んで精霊に見てもらうべきなのかもしれない。ジェイクは魔術師になる資格がある程の魔力を持っているとエゼルバルドに聞いている。そんな人が戻る方法を見つけられないのなら、違う方法を採るしかない。
「僕と一緒に城の外に出てみませんか?」
初めて僕と口にしたジェイクに驚いて見上げると、いつもとは違う、とろけるような甘い笑顔が目に入った。
ジェイクの笑顔は綺麗なのに、とても怖い。獲物を見つけた蛇のようだと気が付いた。
「僕が王子よりも早く出会っていたら、ミサキを生贄の魔女にはさせなかった」
優しく囁くジェイクの橙色の瞳が私を真っすぐに見つめていて、そこはかとない恐怖に心が絡めとられる。ジェイクの言葉がねっとりとした水飴のように、心を包もうとしているような気がして震える。
整い過ぎた綺麗な顔と空色の髪のせいか、ジェイクが作り物の人形のように見えてきた。
声に捕らえられてしまうから逃げろと私の心の奥で魔女が警鐘を鳴らしている。このままジェイクにしゃべらせてはダメだ。私は咄嗟に話を打ち切ることにした。
「……仮定の話は苦手です。時間は戻りません」
「そうですね。時間は戻らない」
寂しげに呟いたジェイクを置き去りにして、私はエゼルバルドがいる居間へと逃げ込んだ。
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