第二話 異世界の空

 目が覚めると見たこともない天井が視界に入った。模様が織られた布が張られていて、あきらかに自室の天井ではない。柔らかいとはいいがたい薄い布団の感触は、子供の頃に泊まった寂れた田舎の宿を思い出す。


「目が覚めたか」

 安堵の言葉が聞こえて目を動かすと、昨日私を助けてくれた銀髪の男が横たわっていた。男は上半身裸で、私は……全裸だった。


「!」

 恐怖で叫びそうになった口を乱暴に手で塞がれた。暴れる体も全身で伸し掛かられて抑え込まれる。ぎしぎしとベッドが軋む音がやたらと大きく聞こえる。


「いいか。死にたくなければ大人しくしていろ。私の庇護から離れればお前は死ぬ」

 耳元で男が囁く。何が起こっているのかわからない。恐怖で全身が固まる。


「絶対に叫ぶな。私が何をしても拒否せず、はいとだけ言え。後で説明する」

 口を押えられたまま、私は頷いた。


 男が私の上からゆっくりと移動した。横向きになって、ふわりと抱き込まれる。男の左胸から左腕に黒い茨の刺青が施されていることに気が付いた途端、強烈な寒気に体が震えた。


 男が手を伸ばして枕元の紐を引いた。

「お目覚めでしょうか」

「ああ、湯浴みの準備をしてくれ。それから、女が着られる服を一式」

「はい。準備致します」

 天幕の外から落ち着いた男の声がして、しばらくすると用意ができたと返答があった。


 男が立ち上がってガウンのような物を羽織って、私を掛け布ごと抱き上げた。


 天幕の外には衝立が用意されていて、隣の天幕に移動しただけだった。中央には大きなたらいが置かれていて、その周囲には五名の男達がお湯が入った壺を持っていた。


「ジェイク以外は下がれ」

 男が指示すると、四名の男達が壺を置いて外に出た。微かに溜息を吐いたエゼルバルドは長持ながもちのような箱に座って、私を膝の上に横座りに乗せた。


「エゼルバルド様、その女性は?」

 ジェイクと呼ばれた男が落ち着いた声で問いかけた。綺麗な空色の髪にオレンジ色の瞳。人間にはありえない色彩にめまいがする。


「ああ、俺の運命が現れた」

 銀髪の男――エゼルバルドはそう言って、私の右手の甲に音を立ててキスをした。不快にしか思えなくても我慢するしかない。


 突然、エゼルバルドが片手で手話のような物を始めた。

『昨夜、天幕に侵入してきた。何者かは不明。名前を聞いた途端に繋がった』


「あまり見せつけないでくださいませ」

 呆れるような声音を出ししたジェイクも手話を始める。こちらは両手だ。

『天幕には結界魔法を掛けていました。黒髪に黒目、クリーム色の肌、これは異世界人の特徴です。この者は自分の真実の名を明かしてしまったのでしょう。呪茨じゅしに魅入られた以上、元には戻せません』

 ジェイクが手話をしている間、エゼルバルドは何度も音を立てて手にキスを繰り返す。性的な行為ではなく、ただ音を出す為だけなのだと気が付いた。


「え? も……」

 元に戻せない? 何が? と聞こうとした所で、エゼルバルドにキスをされた。ただ、口をふさぐだけのキス。息苦しさに徐々に思考がぼやけてくる。


「そんなに口づけをしたいのか?」

 エゼルバルドが甘いとも言える声を出していても、目つきは鋭い。

『意味が分かるのか?』

 エゼルバルドが手話で話しかけてきたので、ぼやけた思考で辛うじて頷く。


「朝食は少々後に致しましょうか。お戯れはほどほどになさって下さい」

 苦笑するような声色を出すジェイクの目も鋭い。


『外に間諜がいる。下手なことを話せば、お前の命に係わる。夜に詳しい話をするから我慢して演技をしろ』

 冷たい紫の瞳に背筋が凍る。私は頷くしかない。


 エゼルバルドが口を塞ぐだけのキスをして、私に巻き付けていた布を剥がした。抵抗したくても、がっちりと体を押さえ込まれていて動けない。


 ジェイクがはっと息を飲む音が聞こえた。それは性的な物ではなく恐怖によるものだと感じた。


「全く、そんなに甘えたいというのか」

 エゼルバルドの甘い声が、ぼんやりとした思考の中で聞こえる。ジェイクの視線に気が付いて、自分の胸を見ると左胸に赤い薔薇の花と黒い茨の紋様が広がっていた。


「!」

 私の悲鳴はエゼルバルドに飲み込まれた。何が自分に起きているのか全く理解できない。涙が溢れて視界が滲むと、エゼルバルドの冷たい瞳が憐憫を含む物に変わった。


「……湯浴みをして、食事をしようか」

 リップ音を立てて唇を解いたエゼルバルドの甘い声と、憐憫の眼差しが現実のものとは思えない。混乱と息苦しさで思考がまとまらない。


 恐怖で動けなかった私は、エゼルバルドとジェイクに体を洗われた。大きなたらいの中に座らされて、ぼんやりとしている内に何もかもが終わっていた。洗う中で、いろいろな場所をチェックされていたような気はしても、酷いことはされなかった。


 洗い終わった後、ジェイクが魔法陣のような物が描かれた箱を差し出した。

「この紋様に手を乗せて下さい」

 指示されるままに手を乗せると一瞬で髪と体が乾く。


 用意されていた服は、生成のシャツに深緑のベストに茶色のズボン。下着はないので、そのまま着るしかない。シャツは恐らくシルクでも、ズボンのごわごわとした感触が痛い。ただの袋のような伸びない靴下に男物の黒い編上げ靴を履く。


「至急女物の服を買って来るように頼みますので、二日程我慢してください」

 ジェイクの声は静かで優しい。見上げると、ふっと困ったような微笑みが返ってきた。


「あの……私の服と鞄は?」

「天幕に置いてある。随分汚れていたから脱がせた」

 エゼルバルドはざっと洗うだけで湯浴みを終えて、生成のシルクのシャツに黒いズボン、裾の長い紫色のベストを着用して、私と同じ靴下と黒い編上げ靴を履いた。


     ■


 元の天幕に戻ると食事が用意されていた。折り畳みのテーブルには、木の器に入ったスープと干し肉、乾燥果実、硬そうなパンが置かれている。


 食欲は無かったので、あんずに似た乾燥果実を口にする。エゼルバルドは、硬そうなパンを割ってスープに浸して食べていた。


「もう食べないのか?」

「申し訳ありません。食欲がありません」

 エゼルバルドが食事を終えると、すぐに三名の男達が入ってきて片付けて出て行った。


『中身を確認させてもらった』

 エゼルバルドが鞄を渡してくれた。中身は財布とスマホ、化粧品と手帳。ハンカチ程度で大したものは入っていない。


 スマホを取り出して触った途端に、エゼルバルドの目つきが鋭くなって取り上げられた。

『何をするつもりだ? これは何だ?』

 突然の敵意を含んだ追及に、どうやって答えたらいいのかわからなくて涙が溢れた。


 怖い。何が起きているのかさっぱりわからない。目の前の男も何を考えているのかわからない。ぽろぽろと零れる涙を拭くこともできずに泣いていると、エゼルバルドが溜息を吐いてスマホを返してくれた。


 スマホを見ると完全に圏外。友人に掛けてみても繋がらない。通信アプリを起動しても繋がらない。現在地も表示できない。この現状から逃げたくて、意地になって様々なアプリを起動させて試している内に電池が切れた。鞄の中の予備電池を繋ごうとして、後がないことに気が付く。いざという時の為に電池は取っておいた方がいい。


「そろそろ出発の準備だ」

 私がスマホを鞄に入れると、エゼルバルドが声を掛けてきた。もしかして、待っていてくれたのだろうか。

「はい」

 私は力なく答えるしかなかった。


     ■


 エゼルバルドと私が天幕の外に出ると、二十名程の男達が一斉に天幕の解体を始めた。手慣れた動きで畳まれて、荷馬車に積まれていく。作業をする男達の中に昨日追いかけてきた顔が見えた。向こうも気が付いたらしくて舐めるような視線を感じたけれど、エゼルバルドが私の肩を抱くと全員が視線を逸らして二度と私を見ることはなかった。


 エゼルバルドに肩を抱かれたまま、豪華な四頭立ての馬車に乗り込む。前後の向かい合う席に六人ほどが乗れる広さで、前の席にはジェイクが乗り込んだ。


 馬車の見た目は豪華なのに乗り心地は酷い。たくさんのクッションが置かれていても、体が跳ねる程の揺れが起きる。見かねたエゼルバルドが私を膝の上に乗せた。


「あ、あの……」

「目的地までは三日かかる。無理はしなくていい」


 馬車の中に会話は一切なかった。ジェイクはずっと私を観察するように見ていて、エゼルバルドは窓の外を眺めている。重苦しい空気の中、私は眠りに引き込まれた。


     ■


「そろそろ目覚めてくれないか」

 甘い声に目を開けると、鋭い紫の瞳が視界に入った。エゼルバルドの声と態度が違い過ぎて混乱する。それでも眠っている間、ずっと膝の上に乗せていてくれたらしい。


「……ごめんなさい」

 謝罪するとエゼルバルドの瞳が揺れた。

「謝らなくていい」

 ごく小さな溜息を吐いて、エゼルバルドは私を膝から降ろした。


 今日の宿営予定地についたと馬車が停まった。小さな村の外れの広場に天幕が組み立てられる。


 馬車を降りて空を見上げた私は息を飲んだ。夕焼けが近づく青い空には、巨大な赤い月と緑の月が浮かんでいる。今までずっと下を向いていたから気が付かなかった。一体、この世界は何なのか。


 地球ではありえない光景に脚が震える。

「ここは……どこ?」

「ローディア王国のスィールチ村だ」

 エゼルバルドが震える肩を抱く。


「そんな国、聞いたことない……赤い月とか緑の月なんて見たこと無い」

 体中に恐怖が走る。理解できない。ここは地球じゃないのか。


「い……!」

 拒絶の叫びはエゼルバルドに飲み込まれた。紫の目に見つめられながら、徐々に意識が薄れていく。


 私は目の前の現実から、再び逃避した。

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