第3話 体験入会

 よかったら、と中川が教えてくれたのは筋トレには疎い僕でも聞いたことのある大手チェーンのジムだった。ちょうど入会金無料のキャンペーンをやっていたのと、一人でいると鬱々とした気持ちになるのもあって僕はとりあえず入会してみることにした。当面は浮いた引っ越し資金でジムの費用は賄えそうだった。

 人見知りというわけではないが、なかなかジムに初めて足を踏み入れるというのは勇気のいることだった。部活での基礎体力作りでくらいしか筋トレはしたことがないし、こんなひょろひょろな男が入会希望ですなんて言ったら笑われるのではないかという恐怖もあった。

 比較的人が少ないであろう平日の昼間に時間が空いたので、あまり人がたくさんいるような時間帯よりはと思い切って引っ越したアパートから自転車で15分程度のそのジムへ向かった。春にしてはずいぶん厳しい日差しの中、僕は大学2年生の時にかなり悩んだ末に思い切って買ったもののすっかり錆びついて今ではほとんど稼働していないクロスバイクにまたがって不安と期待の入り混じった何とも整理のつかない気持ちのままそこについてしまった。

 不安な気持ちでジムを見上げる。堂々としたロゴがどんと構えていて、僕を見下ろしているようにさえ感じてしまい、なかなか一歩を踏み出せずにいた。

 「あれ、見学ですか?」

 ジムの前で直立している男を不審に思ったのか、会員らしきマッチョに声をかけられた。半パンからのぞく足は競輪選手のように太く、パーカーを着ている上からでも胸板の厚さや腕の太さがよくわかる。やはりここはマッチョにしか入場の許されない聖地なのだ…。

 「あ、はい。すみません、邪魔でしたよね。」

 少し横にそれるようにすると、「見学なら一緒に入りましょう。案内しますよ。」とそのマッチョはさわやかに言い、ついてくるようにと僕に目で合図してから手慣れた様子でジムの中へ入っていった。

 マッチョによって開かれた自動ドアの先には、今までに見たような市営のジムとはまるで違うかっこいい雰囲気が漂っていた。受付のきれいなお姉さんが笑顔で「見学ですね。少々お待ちくださいね。」と椅子を勧めてくれたので素直に座ることにした。

 少し落ち着いて周りを見回すと、ランニングマシンで走っている人たちの姿が見える。よく見ると女性や僕のような体型の人も少なくない。これはとても勇気づけられる事実だった。

 「お待たせしましたね。ここのジムの店長をやっています、林と申します。」

 先ほど入り口で僕を案内してくれたマッチョが僕の向かいに窮屈そうに座る。さっきは緊張してまともに見ていなかったが、首から腕、ふくらはぎに至るまで、僕とは違う生き物のように発達している。

 「まずはいろいろシステムなんかの説明と、あとはカウンセリングをさせてもらって、ジム内を見学する流れになるんですが。」

 林と名乗った店長は快活に話す。やはり見た目ががっしりしていると、中身も自信がついてくるものなのだろうか。

 料金やコースの書かれた紙を僕の前に広げると、林さんははきはきと説明を勧めていく。

 「ここに来ようと思った理由なんかはありますか?」

 ご希望に応じたコースを選んでいただくことになっていて、と林さんは続けた。

 「あ、友人に勧められて。大学院に通っているので、基本的には夜や土日に来たいなと思っています。」

 すっかり林さんの色黒でつやつやした肉体に目を奪われていた僕は慌てて答えた。

 「そうなんですね。ご友人もここに通われている方なんですか?」

 「そうです。中川、っていう大学で知り合った友人なんですけど。」

 僕が答えると、ああ、と林さんは納得したような顔をした。

 「中川君の。友人が入会するかもって聞いてたな。中川君は去年までバイトをしてくれてたんだけど、とてもいい子でしたよ。」

 知り合いがすでに会員の場合は紹介割が使えることや、僕の希望を聞くところ一番ベーシックなプランがいいだろういうこと、どのようなトレーニングを組み合わせていくか、などを丁寧に説明してもらう。店長だけあって林さんの説明は素人の僕からみてもとても分かりやすかった。

 一通り説明を聞いてみても、僕が中川や林さんのような見た目になれる未来はいまいち見えてはこなかった。

 「では、施設内を見学していきましょう。」

 林さんは席を立ち、トレーニングエリアへと僕を誘導した。

 ジム自体が3、4年前にできた割と新しい施設ということもあり、マシンは比較的新しくそして当たり前のようにごつごつとしていて、いきなり目に飛び込んできたそれらに僕は少し面食らう。

 「このあたりがウェイトトレーニング、自分で器具の重さなんかを調節してトレーニングをするエリアですね。筋トレといえば思いつくようなマシンがあるんじゃないかと思います。」

 林さんの説明通り、筋トレと言えば思い浮かべるような器具たちがずらりと並んでいて、平日の昼間だというのにトレーニングをしているマッチョもいた。

 「はじめはいちばんとっつきにくいエリアかもしれませんね。でも、最初に使い方なんかは講習がありますし、ジムに来る一番のメリットは家では使えないようなこういったマシンが使えることですから…」

 説明はまだまだ続いていたが、僕の目はぎらぎらごつごつしたマシンと、それをものすごい形相で上げたり下げたりするマッチョにくぎ付けになっていた。

 いや、マッチョだけではなかった。どこにでもいそうな主婦といった顔をしたおばさんが、真剣な表情でトレーニングをしているし、少し離れたところではもう定年退職後であろうおじいちゃんなんかもいる。

 僕の知らなかった世界がそこにある気がした。老若男女問わず、そこにいる人たちは自分の身体に真摯に向き合っているように見えた。

 そのあと有酸素運動をするゾーン、シャワールーム、ロッカールーム、スタジオなど一通り施設内を案内してもらった僕は、帰りにはしっかりとマイロッカーのカギを持ち、会員証を財布に大切にしまい込んでからジムを後にしていた。

 見学をして家でゆっくり考えようと思っていたのに、気づけば契約してしまっていたという衝動性は僕には珍しかった。というよりは、自分にはないと思っていた一面だった。夕方に差し掛かった街を半年悩んで買ったクロスバイクにまたがって走りながら、僕は何となく晴れやかな気持ちになっていた。

 

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