十 払捨刀

 一刀流を創設し、伊東一刀斎と名を改めたかつての鬼夜叉はそれからも武者修行に励んだ。

 その一刀斎の脳裏にあった言葉が、

「無双の男になること」

 だった。


 自分がどれだけ無双の男に近づいたのか、どれほど剣術の階段を上ったのか、まるでそれを確かめるための旅のようだった。

 それは一日一日が緊張と恐怖と戦慄に包まれた凄まじい戦いの旅だった。


 一刀斎は決して住居を構えず、強敵がいると聞けば、どんなに遠くても出かけていった。

 また、街に着き宿に泊まると必ず表に、

「天下一名人 伊東一刀斎」

 と札を掛けた。

 勝てば生き残り、名を上げることができるが、負ければそこで野垂れ死にである。もはや頼るべき家族のいない一刀斎は孤立無援の戦士だった。


 生き残るためにはひたすら勝つだけである。負けは絶対に許されない。

 敵を一人倒す度に、

「俺は無双に近づけたか」

 と確かめながら、一刀斎はあてのない放浪の旅を続けた。

 それは限りなく不可能に近い、一刀斎の「夢」だった。木刀でも真剣でも戦い、時には山賊退治のようなことまでやってのけた。

 いつしか、彼の名は高まり、達人や名人と言われる類の剣術家に成長した。


 そんな彼が二十代最後の年、二十九歳の時にそれは起こった。

 ある時、彼は北陸の金沢に逗留していた。

 その時、長く滞在する過程で知り合った一人の女と親しくなり、その女と宿で酒を飲んでいた。

 梅と名乗るその女は遊女だったが、張りのある艶、鮮やかな黒髪が美しい美人だった。


「ほら、一刀斎様。もっと飲んで下さいな」

 その夜、その梅がやたらと酒を勧めてくるのが、多少気になっていた一刀斎だが、北陸の美味な魚を酒肴にしていたのも手伝って、つい気分が乗って、酌を受けてしまい、したたか酒を飲んで、酔い潰れて寝てしまった。


 深夜。

 一刀斎は複数の男たちの足音で目が覚めた。

 隣の布団には、居るはずの梅がいなかった。

 そして、一刀斎はまず気づいてしまった。

(刀がない! まさかあいつ)


 その瞬間、襖が勢いよく開かれ、複数の男たちが現れた。

 どの男たちも抜き身の刀を構えており、血走った目を向けている。

 一刀斎はすぐに気づいた。その男たちは、先日、金沢のとある道場で倒した男の弟子たちだと。つまり、まともに戦っても勝てないので、寝込みを襲ったわけだ。

 同時に、梅が内通者だと疑う。梅が男たちに従って、一刀斎の刀を盗んだのだ。


 辺りは真っ暗だ。

 男たちは、何も言わず、いきなり一刀斎に斬りつけてきた。


 刀がない一刀斎は、咄嗟に斬りかかってきた男の一人に、手元にあった酒肴の膳を投げつけた。

 膳の食器が男の顔面に当たり、男はひるんだ。

 その隙に、すばやく移動し、男の右腕を蹴り上げ、落とした刀を奪うと、そのまま男の脇腹から肩にかけてを斬り上げた。

 短い悲鳴と共に男は沈む。


 次にまた別の男が三人ほど同時に斬りかかってきた。

 一刀斎は、前転して攻撃をかわしながら、一人の男の足先からももにかけてを、払うように横に斬り、もう一人の男の脇腹に刀を突き刺し、さらにもう一人の男の肩から脇腹にかけてを袈裟斬りに斬っていた。


 本来、「一刀」をもって戦うのが、一刀流の極意だが、不意に寝込みを襲われ、さすがにそんなことを考えている余裕はなかった。


 苦しむ男たちに、容赦なく止めの一撃を刺したが、男たちはさらに三人、階段を上がって、部屋に入り込んできた。

 狭い室内で、さらに死闘が続く。


「一刀斎。師の仇! 覚悟!」

 大柄な体格の男が槍で突いてきた。

 一刀斎は、素早く体を回転させて、それをかわすと、男の槍の柄を斬りつけて切断し、返す刀で男の脇腹を斬りつける。


 もう一人の男が袈裟斬りに来るが、一刀斎の刀はすでに刃こぼれしていた。

 その一撃をつばの部分で受け止めると同時に、男の腹に蹴りを入れ、男がひるんだ隙にその男の刀を奪い取り、後ろから襲ってくるもう一人の男に夢中で斬りかかっていた。


 鈍い音と共に、首を斬られた男が沈む。

 残った一人の胸部に突きを入れ、止めに喉に刀を突き立てる。


 ようやく死闘は終わった。狭い室内に七人の男たちの骸が並んでいた。まさに死屍累々の有様で、闇夜の中、刀もなかった一刀斎は、遮二無二斬りまくるしかなかった。


(これは、まさに「払捨ほっしゃ」だな)

 そう思った一刀斎。

 払捨、とは「払い捨てる」、つまり無心になって、我が身を捨てて戦うことを意味する。


払捨刀ほっしゃとう


 一刀斎はこの時の死闘を夢中で切り抜けたことを思い出し、そう名付けた。それは同時に、女にうつつを抜かし、危機を招いた自分の邪念を払い捨てるという意味も込められていた。


 死闘の翌日、一刀斎は梅を探した。

 宿の者に聞くと、梅は遊女屋に戻ったという。


 その遊女屋につかつかと乗り込む一刀斎。

 遊女屋の主人が、

「お待ち下さい!」

 と叫んで、遮るが、


「邪魔立てするな。梅はどこだ?」

 と、鬼のような形相で睨みつけたため、主人は震えあがって梅の居場所を教えた。


 彼女は、遊女屋の控え室にいた。

 その襖を強引に開けると、女たちが悲鳴を上げた。

 そんな中、怯えた表情の梅が部屋の隅にいた。


「梅。俺の刀はどうした?」

 鋭く、刺すような視線を向けながら、迫る一刀斎に、彼女は怯えながら、


「お許し下さい! 私はあの男たちに買収されただけなんです。一刀斎様に恨みはありません」

 必死に床に頭をこすりつけて、訴える梅に対し、一刀斎は、


「刀はどこだ!」

 怒声を上げて彼女に迫った。


 梅はすっかり怯えきり、行李こうりの中にしまってあった刀を取り出し、一刀斎に差し出した。


「わ、私も斬るのですか?」

 怯えた瞳で、恐る恐る尋ねる梅。


 だが、一刀斎は刀を受け取ると、

「女を斬る趣味はない」

 とだけ言って、そのまま立ち去っていた。


 一刀斎は、確かにたくさんの人間を斬ってきたが、女を斬ったことは一度もなかった。

 女を斬るのは、鬼畜や外道と変わらないと思っていたからだ。

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