十一 無双から無想へ
「無双の男」を目指し、日本各地をさすらうこと十余年。一刀斎は久しぶりに相模国に戻ってきた。
ここは彼が入門した中条流道場のある小田原の街がある国で、彼にとっては思い出深い地であった。
一刀斎はすでに三十代の半ばを過ぎ、皺の多い顔立ちになっていた。髷を結っているが、髪は大たぶさにまとめ、
また、口の周りと顎に薄く髭を生やしている。どこか野性的に見える風貌であり、一見すると山伏のようであった。
その一刀斎が、ある寒い冬の日に、ふらりと鎌倉の
目的はこの由緒正しい社に留まり、瞑想し、剣技の深淵を極めるための参籠にあった。
重厚な雰囲気を醸し出す赤い大鳥居をくぐり、社の脇にそびえている大きな松の木を選び、そのたもとで座禅を組み、目を閉じて瞑想にふけった。それが七日間も続いた。
それは酷烈な精神修行だった。一刀斎は禅の道を師から諭されていたが、それでもこれほど辛い修行は初めてだった。
一日、二日と時が無残に過ぎていくが、一刀斎はただ黙して石像のように動かない。
三日目になると神主も参拝者も気味悪がって彼に近づかなくなった。
四日目。朝から北風が吹き荒れ、肌を裂くような寒気のために、人気のほとんどない神社の境内で、それでも微塵も動かずに一刀斎は耐えていた。
五日目、六日目も虚しく過ぎ去り、ついに最終日の七日目が訪れた。
前夜から降り続ける雨がこの日、激しさを増し、痛いほど地面を打ちつけ始めた。気温は低く、雨が今にも雪に変わりそうな気配を見せている。
辺りには全く人気がなく、ただ座禅を組む壮年の男の姿だけが、ぽつんと寂しそうに佇んでいた。
一刀斎は激しい雨に打たれながらも、傘一つ差さずに目を閉じ、満願に達することへの焦りをその疲労の漂った顔に滲ませて、祈り続けていた。
時折、遠くで黄色い稲光が輝き、その後に大きな天の唸り声のような雷鳴が中空に轟くが、一刀斎は微動だにしない。
丁度、陽が落ちた頃だった。境内に笠と蓑をかぶった浪人風の男がふらりと姿を現した。目つきの悪い痩せた男で、腰に二刀を差している。
あまりにも激しい雨音と、極限まで高めた集中力のためか、一刀斎は男の存在には気づいていない。
男は松の木の下に座る奇妙な男に目を止め、好奇心にかられ、ゆっくりと近づいていく。
一刀斎はその接近にも気づかない。
遠くから眺めるように、一刀斎を眺めていたその男の表情が突然、硬くなり、腰の大刀に手をかけたのはその時だった。
実はこの男は、以前に一刀斎に倒された、ある道場の師範の一番弟子だった。師が一刀斎に負けて殺された後、その仇を探すために旅に出たのだが、ここでまさに偶然にも出くわしたのだ。
しかもこの激しい雨のために、一刀斎は自分の姿に気づいていない。
(ついに見つけたぞ、一刀斎。先生の仇を取らせてもらうぞ)
男は気づかないように注意深く、一刀斎の背後に近づいて、刀の柄に手をかける。
間もなく男と一刀斎との距離が二間(約3.6メートル)ほどにまで縮まったが、一刀斎はまだ気づいていないらしく、重い瞳を閉じたまま瞑想にふけっている。
(馬鹿が。後ろから斬り殺してやるわ)
さらに一、二歩間合いを詰め、男が刀の鞘を払い、刀を抜く、まさにその瞬間、
(むっ)
一刀斎は背後に怪しい気配がよぎるのと咄嗟に感じた。それはまさに殺気という言葉で言い表せられる感覚だった。
刹那、
「ぎゃっ!」
という短い叫び声と共に雨の中に男の身体が仰向けに倒れていた。
まさに一瞬の出来事だった。一刀斎は立て膝の格好のまま、雨水に流されていく血刀を握ったまま、未だに目を閉じていた。
恐らく骸となった刺客の男には、抜き手すら見えなかっただろう。
ほとんど無意識のうちに、殺気を捕らえ、そのまま鞘から刀を抜いて敵を斬っていた。
一刀斎はようやく目を開けた。辺りは元の静寂に戻っている。立ち上がって後ろを振り向くと、首の皮を半分以上斬り取られ、恐怖に顔を強張らせたまま絶命している無残な男の死体が転がっていた。
(これだ! この心気、この呼吸。これこそ俺が求めていたものだ。心身一如となって初めて出来る奥義だ)
頭の中を強烈な印象が駆け抜けた。
殺気を感じ、その瞬間にそれが敵だと悟り、抜き手すら見せずにすばやく斬る。これが長年彼が求めていたものに相違なかった。
何も考えず、無の心の中にあって決定的な一撃を放つ。
一刀斎はこの瞬間に「無双の男」に到達した。
しかし、それはすべての欲望を消し、無念無想の境地に達する「無想の男」に到達したことを意味するものだった。
剣豪、伊東一刀斎はこれを、
「
と名付けた。
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