九 一刀のもとに

 前原弥五郎改め、伊東弥五郎は再び伊豆大島を出てから、そのまま諸国を流浪する武者修行に旅立った。

 しかし、彼の頭の中には亡き父が死ぬ間際に残した、

「お前がやっているのは、ただの血遊びだ」

 という言葉がいつまでも蝿のようにつきまとい、決して離れなかった。


(血遊び。俺の剣術はただの血遊びなのか)

 その思いがいつまでも離れないため、弥五郎はどこで誰と立ち合っても気が退き、いつしか真剣で相手を倒すことができなくなっていた。


 あれだけ鬼夜叉と言われて恐れられた男が、今はまるで牙を抜かれた肉食獣のように、真剣という牙を失い、木刀で相手を傷つける程度のことしかできなくなっていた。

 だが、剣の妙機を自ら悟ったためなのか、弥五郎は決して負けなかった。

 そんな虚しい日々が五年余りも続いた。


 天正二年(1574年)春。弥五郎が二十五歳の時、突然その転機は訪れた。

 弥五郎の剣の腕前を聞いた甲斐の大名、武田勝頼たけだかつよりが彼を招いて、甲斐随一の剣術遣いである新当流しんとうりゅう平塚兵馬ひらつかへいまという男と仕合をさせた時のことだった。


 平塚兵馬の強い希望により、両者は勝頼の御前ごぜんで真剣による仕合を行うことになった。すでに多くの武芸者に名を知られる存在になっていた弥五郎としては、この申し出を断るわけにはいかず、結局真剣で立ち合うことになった。

 勝頼は、かの武田信玄の息子であり元来、戦場を渡り歩く豪勇の士なので、二人の勝負を縁側に面した座敷の上から興味深そうに観察した。


 平塚兵馬は、身の丈が六尺(約180センチメートル)はある弥五郎を上回るほど大柄な体躯の豪勇の男で、長刀を振り回す荒武者のような兵法者として知られていた。

 その師は新当流を興した塚原卜伝つかはらぼくでんであるから、格式の上でも弥五郎よりも上手うわてである。


 ところが、いざ立ち合ってみると、弥五郎の目に不思議なものが映った。

 平塚兵馬はその大柄な体格と剛力にものを言わせて、長さ三尺(約90センチメートル)はあろうかという長刀を大振りに振り下ろしてきた。

 しかも連撃である。普通なら、なますのように体を刻まれてもおかしくないほどの斬撃であるが、弥五郎の目にはこの男の剣術が、ただ刀を振り回しているだけの曲芸のようにしか見えないのだった。

 そればかりか、大振りのために隙だらけに見えるほどだ。


「おおっ!」

 勝頼をはじめ、居並ぶ武田家の重臣たちの間から喚声が漏れるほど、弥五郎は兵馬の剛刀を右に左にと、自在にかわしていた。

「くそっ!」

 一方の兵馬は焦燥の色を露わにしながら、なおも刀を振るう。


(遅い。仮にも真剣勝負ではないか。隙だらけだが、この男はこれでも兵法者なのか)

 そう思った瞬間、弥五郎は無意識のうちにさやを走らせていた。


 鍔鳴つばなりの音と共に、兵馬の巨体が沈んでいた。弥五郎の右手にしばらく使われていなかった日本刀が吸い付いたように握られていた。

 見事な抜き打ちだった。弥五郎はたった一撃で相手を仕留めていた。

「見事じゃ!」

 勝頼が叫ぶ声が聞こえたが、弥五郎の頭の中には全く別の閃きに似た、一種の輝きのようなものがあった。


(そうか! ただ一刀をもって敵を倒す。これこそことわりではないか。二刀・三刀をもって敵を倒すのは素人だ)

 常に一撃で敵を倒すことができれば、相手を苦しませることはないし、父が言ったような血遊びになることもない。


 そして、それこそが剣術の真理ではないか。

 そう悟った瞬間、弥五郎は居ても立ってもいられなくなり、勝頼の賛辞の言葉や褒美のことを、さらりと受け流すと、早々に宿に帰って行った。

 宿に着くと、筆と紙を取り出し、紙に勢いよく次のように書きつけた。


「我、心が身に通じ、身が刀に通じ、心身刀が一如いちじょとなることを悟り、心身一如しんしんいちじょ妙理みょうり一心刀いっしんとうと称し、外物一切げぶついっさいを一心の味方となし、応敵おうてき必勝の秘法を覚え、彼我ひが一体万物一如ばんぶついちじょくろを得るなり


 その後に、

これ、一刀流極意也ごくいなり

 と記し、最後に、

「伊東一刀斎いっとうさい

 と署名した。


 この瞬間に、後世の剣術界に最も大きな影響を与えた流派の一つ、一刀流が完成をみ、そして同時に流祖の伊東一刀斎が誕生したのである。


 一刀斎、二十五歳の春。まさに彼の前に道は開かれた。

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