八 血遊びの果てに

 太平洋に浮かぶ小舟の中に弥五郎の姿はあった。辺りからは船頭が櫂を漕ぐ音と穏やかな波の音だけが聞こえてくる。

 十四歳で故郷を飛び出してから早くも六年の歳月が流れていた。

 舟に揺られながら、彼は故郷を出る時に聞いた、母の言葉を心の中で反復していた。


「強くなるまで戻ってくるんじゃないよ!」

 酒に溺れながらも、強く生きようと必死にあがいていた母のその言葉はこの六年間、ずっと弥五郎の頭の中で生き続けてきた。


「この世で一番強い、無双の男になること」

 その夢を語った時に、決して馬鹿にせずに、むしろ持ち前の明るさで励ましてくれたのも、またこの母だった。

(お袋。俺は強くなったぞ)

 まさに胸中、そんな気持ちを抱きながら弥五郎は故郷、伊豆大島を目指していた。


 浜に着いてみると、懐かしい風景が目の前に広がっていた。質素な藁葺き屋根の家並み、古ぼけた漁船の群れ、そしてたくましい村人たちの姿。弥五郎にとって六年前と少しも変わらない懐かしい風景がそこに存在していた。


 上陸すると間もなく、弥五郎に目を止めた村人たちが、不審の念の籠ったような表情で、彼の姿を遠くからじっと見つめてきた。

 誰もがあの「悪餓鬼」弥五郎とは思っていない様子だった。だが、それも無理はない。


 弥五郎は今や立派な黒縮緬くろちりめんの着物を着て、まげを結い、腰には立派なこしらえの両刀を差しているのだ。どこから見ても一角ひとかどの武士であった。

 母、捺が諭した通り、弥五郎は漁師ではなく、武士になって故郷に錦を飾ったのだ。


 弥五郎の足は自然と生家に向けられていた。あのぐうたらな父は恐らくまた家にはいないのだろうが、母はいるはずだ。母に会って、せめてもの礼を言いたい。今の自分があるのは何よりも母のお陰なのだから。


 しかし、弥五郎が生家で見たものは、あまりにも苛烈な現実だった。

 そこに母の姿はなかった。代わりに彼の目に映ったものは一個の小さな位牌だった。

(まさか!)


 慌てて駆け出し、位牌を手に取り、食い入るように見つめる。位牌には何やら難しい漢字が並んでいる。戒名である。

 その戒名を熱心に見ていた弥五郎の瞳に信じられない文字が映った。

 「捺」という漢字である。一瞬、頭の中が真っ白になった。


 その時、不意に背後から、かすれたような声がかかった。いつもなら背後を取られることもない弥五郎だが、この時はそんな状態ではなかった。

「弥五郎。遅かったよ……」

 振り向くと、叔母の紺が粛然とした面持ちのまま、こちらを向いて立っていた。その目に薄く涙が光っている。彼女にはこの男が、甥の弥五郎と一目でわかったようだ。


「叔母さん! 一体どういうことだ!」

 位牌を元の位置に戻し、足早に近づくと、弥五郎は叔母の前に立ちはだかった。しかし、紺はただ涙を流すだけで口を開こうとしない。


「叔母さん!」

 脅迫するように叔母の細い肩を掴み、揺らす弥五郎に、紺は弥五郎の顔から目をそらしてそっと答えた。


「三日前だったんだ。あんたの母親が殺されたのは……」

「殺された! 一体誰に!」

 驚愕と同時に、激しい激怒の炎が弥五郎の瞳に灯った瞬間だった。

 紺は大きく成長した弥五郎の、意志の強そうな瞳を正面から見つめて、ついに決意の強い瞳と共に答えた。


「あんたの親父にだよ」

 その瞬間、弥五郎は崩れ落ちるように膝を床についていた。

「何故だ?」

「姉さんとあんたの親父はあの日、物凄い口論になったそうよ。激しく罵る姉さんに腹を立てたあんたの親父が首を絞めて……」


 紺はそこまで言うと、涙と共に崩れ落ちた。今まで必死に抑えてきた感情が一度に氾濫したようであった。

 弥五郎もまた紺と同じように、悲哀の気持ちを抑えきれなかったが、それ以上に彼の全身を貫くように襲ってきたのは、その身が打ち震えるほどの、あまりにも激しすぎる怒りだった。


 それが修行した時に教わった、「負の感情」であると自覚しながらも、彼はどうしてもたぎり立つこの激しい感情を抑えることはできなかった。

 膝をつきながら、弥五郎は充血したように真っ赤に染まった怒りの目と、血がにじみ出るほどきつく握り締めた右拳によって、たぎる怒りを表現していた。

 彼はゆっくりと立ち上がり、


「叔母さん。クソ親父は今どこにいる?」

 刃物のような鋭い目つきで紺を睨みつけた。


 紺は当初、それを聞かれても答えるつもりはなかった。弥五郎の性格から考えると教えない方がよい。そう思ったのだ。

 しかし、このような恐ろしい弥五郎の目を前にしては、言わざるを得ないと感じた。言わなければ自分が殺されるのではないか、そう戦慄したからだ。


「島の南の海岸に、ごろつきと一緒に住んでいるよ。誰も近づかないからすぐにわかるよ」

 弥五郎はそれを聞くと、弾けるように走り出した。

「弥五郎……」

 紺にはもはやかつての鬼夜叉に戻ったこの男を止めることはできなかった。彼女には甥の生還を祈ることしかできなかった。


 島の南の海岸に向かって遮二無二走りながら、弥五郎は獣のように吠えたい気持ちを必死に抑えていた。

(クソ親父! 絶対許さねえ! 殺してやる!)


 屋根の上に石を乗せた、草葺きの家が海岸にぽつんと建っていた。質素な造りだが、村にあるどの民家よりも間口が広く、奥行きもある。

 家の周りには人気がないが、中からは時折下品な笑い声が聞こえてくる。

 木で出来た、質素な家の扉を派手な音と共に蹴り飛ばし、弥五郎はかつての鬼夜叉の表情のまま、仁王立ちになった。


「何じゃ、我は!」

「ここをどこだと思っている!」

「殺されてえか!」

 たちまちごろつきたちが弥五郎を睨みつけて立ち上がった。どの男も目つきが悪く、腰に日本刀を差している。

 中には髷を結わずに、総髪にして、派手な緋色の羽織を着た傾奇者かぶきもののような男までいる。


 弥五郎は彼らを無視し、建物の奥に目を配った。

 そこには杯を手にし、血に飢えた獣のような目つきでこちらを見ている中年の男が座っていた。

 頭にだいぶ白いものが混じり、髭もますます濃くなり、皺も増えたようだが、それは間違いなく彼の父、前原甚兵衛に違いなかった。


「クソ親父! 俺と立ち合え!」

 その声にようやく甚兵衛は反応を示し、

「誰かと思ったらバカ息子か。今頃のこのこ帰ってきて一体何の用だ」

 と、見下したような薄気味の悪い笑みを浮かべた。

「とぼけるんじゃねえ! お袋の仇討かたきうちだ!」

「ふっ。あのバカ女のことか。お前もあいつのところに行きてえのか」

「何っ!」


 いきり立って睨みつける弥五郎に、甚兵衛は冷笑と共に答えた。

「お前がどれだけ成長したか見てみたい」

 甚兵衛がごろつきたちに向かって、顎を軽くしゃくって見せた瞬間、ごろつきたちはそれぞれ腰の得物を抜いて、弥五郎を四方から囲み込んだ。


 ざっと数えて六人の男が血走った目を向けて身構えた。弥五郎もやむなく、まだ血を吸ったことが全くない、真新しい刀を抜く。

 それは、免許皆伝の時に鐘巻自斎からもらった二尺五寸の打刀うちがたなだった。

「そいつは俺の息子だ。だが、もう息子なんかじゃねえ。遠慮はいらん。殺せ」

「おう!」


 瞬間、弥五郎の正面にいた男がまず刀を振りかぶり飛び込んできた。弥五郎は襲いかかってくるう相手の刀を、いとも簡単に自分の刀の鍔元つばもとで受け止める。そしてそのまま剛力を生かして押し返す。


「くっ」

 相手の男がその剛力にひるみそうになった瞬間、

「うらぁ!」

 丁度、弥五郎の真後ろにいた男が刀を槍のように水平にして、がら空きになっている弥五郎の背中を目掛けて突いてきた。

 咄嗟に弥五郎は体を沈め、刀を受けていた男の腕を掴み、この男を槍の前に出して、盾にした。


 そのため、男の刀は仲間の男の腹部に深々と突き刺さり、辺りに赤い血の雨が降り、悲鳴が轟いた。

「このクソ餓鬼!」

 弥五郎を左右から挟むように立っていた二人の男がいきり立ちながら、同時に弥五郎を目掛けて刀を振り下ろした。


 しかし、弥五郎は一方の男の腹を目掛けて刃を振るい、さらに返す刀でもう一方の男の肩から首にかけてを斬り上げた。

 鈍い悲鳴と共に腹部を真一文字に斬り裂かれた男が血だるまになって倒れ込み、同時にもう一人が声を出す間もなく沈み、そのまま動かなくなった。

 さらに、弥五郎はすばやく血だるまになりながらもわずかに動く男に止めを刺す。


 立っている残りの三人は、弥五郎のあまりの早業と凄絶かつ、場慣れした戦いぶりにすくみ上り、両足を震わせながら、二歩・三歩と後退していく。

 と、そこへ。


「何やってんだ、てめえら! そんな餓鬼に戸惑ってんじゃねえ!」

 背後から轟いた甚兵衛の怒声のために、男たちは強引に気を奮い立たせるしかなかった。

 辺りはすでに血の池と化し、倒れた男たちの体から流れ出る赤い液体が放つ独特の生臭い血の匂いが、男たちの鼻を突くように漂っている。


「死ね!」

 上半身が裸の、屈強そうな男が刀を振りかぶる。弥五郎は、防御と攻撃を兼ねるように、前に踏み出して、相手の刀をその落下地点で受け止めた。

 しかし、すでに血脂ちあぶらと刃こぼれでもろくなっている刀で受け止めたために、刀は刀身の中央部分から真っ二つに折れてしまった。


 しめた、と思った相手の男がもう一度、刀を振り下ろすが、その前に男の左胸に、折れた弥五郎の刀の先端が突き刺さっていた。

 弥五郎は咄嗟に、折れて根元の方が残った刀を再利用したのだが、折れてぎざぎざになった刃が刺さったために、返って屈強そうな男は、激痛にのたうち回ることになった。


 その時、間隙を突いて、右後方から襲ってくる男の姿が弥五郎の目の端にかろうじて映った。

 そのため、弥五郎は今、倒した男が持っていた刀を拾い上げながら半身を開いた。

 男の手にあった刀が空を斬った瞬間、凄まじい血の雨と共に男の首は宙を舞っていた。

 さらに、激痛でのたうちまわっている男の背中から刃を突き立てて、止めを刺す。


 残ったのは、緋色の羽織を着込んだ総髪の傾奇者だけである。

 さすがに五人の死骸を前にして、その派手な男は焦っている。顔面が汗にまみれている、さらに睨みつける弥五郎の、鬼のような眼光のために、体が震えている。

 それを見た弥五郎は、自ら刀を上段に持ち換えて、斬りかかっていった。


 男は、手に持った刀でそれを受け止めに行くが、受け止めたと思った次の瞬間に男は額を割られていた。剛剣のため、刃を折られていたのだ。折れた刀の破片が床に当たって小さな音を立てた。


 そこには凄絶な光景が広がっていた。赤い血化粧をしたような六つのむくろが転がり、部屋中を血生臭い腐臭が満たしていた。

「……」

 甚兵衛は目の前に展開された、あまりにも凄絶な血の祭りを前に、愕然とした瞳を血の海の上に落としていた。


 弥五郎は血脂と刃こぼれのために、のこぎりのようになった刀を捨てて、倒れている男の一人が握っている真新しい刀を拾い上げ、実の父に向かって、怒りに満ちた目を向けた。

 そこには怒りと憎しみという負の感情をむき出しにした、野生の狼のような弥五郎がいた。

 それはまさにかつて鬼夜叉と呼ばれた男と何ら変わりがなかった。


「確かに強くなったようだ。だが、お前はやはりまだ餓鬼だ」

 甚兵衛が杯を投げ捨て、立ち上がって腰の刀を抜く。

 弥五郎は無言のまま、刀を構える。その足下には血が溢れており、ぬるぬると不快な感触が彼の足に伝わってくる。

 一方、遠くでは血の匂いを敏感に嗅ぎつけた烏たちが盛んに気味の悪い鳴き声を上げている。


 弥五郎と甚兵衛はほぼ同時に駆け出していた。しかし、二人がすれ違った瞬間に勝負はあっけなくついていた。

 肩から脇腹にかけてを袈裟けさに斬られた甚兵衛がよろめきながら血の海の中に仰向けに倒れ込んだ。

 弥五郎は冷たい表情のまま、父を見下ろす。


「強い……。お前は確かに強い。だが、お前がやっていることは決して剣術ではない」

「何だと」

 弥五郎が血まみれになった父を見下ろしながら聞き返す。その顔や体は血化粧をしたように赤く染まっているが、驚くべきことにこれだけ斬っておきながら、息を切らせていないし、何よりもその身体には傷一つついていなかった。


 甚兵衛は弥五郎の顔を見上げ、息子に冷笑を浴びせながら言葉を継いだ。

「お前がやっているのは、ただの血遊びだ」

「血遊び?」

「そうだ。よく見ろ、このおぞましい光景を。お前は剣客ではなく、血で遊ぶ子供に過ぎん」

 弥五郎はしかし、未だに怒りと憎しみに包まれた目を向けながら口を開く。


「ふん。俺はあんたとは違う。女と遊び、酒に溺れ、ごろつきどもとつるんで喜んでいるあんたよりはマシだろ」

「だが、お前はこの俺の血を引いている。前原の姓と俺の血を背負って生きていくしかないんだぞ」

 ところが、これを聞いて弥五郎は、鬼夜叉に相応するような、禍々しく不気味な笑みを浮かべて、父に向かって吐き捨てるように言い放った。


「俺はもう前原という姓は捨てる。今から俺は伊東弥五郎だ」

 伊東という姓は亡き母の実家の姓である。

 このぐうたらな父との縁を切り、彼は誇り高い武士の血を受け継ぐ母の姓を名乗り、侍として生きる道を選んだのだ。


「伊東弥五郎か。お前がどこまで行けるのか、地獄の底から見ていて……やる」

 それが弥五郎の父、前原甚兵衛の最期の言葉になった。


 半刻後、島の東海岸の絶壁の上にぽつんと佇む、一つの墓石の前に弥五郎の姿はあった。

 波の音と、潮の匂いとが絶え間なくこの場所に届いてくる。カモメが鳴き、草木が揺れている。

 弥五郎は墓石の前にしゃがみ込み、目を閉じて手を合わせていた。

 この墓は、紺が作ったという。捺は海が好きだったため、海を見下ろせる位置にある。


(お袋。かたきは取ったぞ。安心して眠ってくれ。そして、この俺を見守っていてくれ。必ず無双の男になってみせる)

 それは母への誓いの言葉だった。同時に伊東という姓を継いで、無双の男になることが亡き母への何よりの贈り物になる。弥五郎はそう考えていた。

(俺はもうここには戻らない。さらばだ)


 弥五郎は立ち上がり、墓に背を向けて去って行った。

 決して後ろを振り返らずに、前だけを見つめて。

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