七 妙機

 再び師の元に戻った弥五郎。


 正式に弟子になった弥五郎に施された修行は、主として小太刀や中太刀の稽古だった。元来、中条流というのは小太刀の流派だからこれは当然と言える。

 当初、もっと長く、大きな刀で稽古をしたいと騒いでいた弥五郎だったが、師に小太刀の特性や利点を諭され、渋々ながらも従った。


 野獣のようなこの男は、めきめきと剣術の腕前を上げていった。同時に師の自斎から実戦での型や技、構えといった「技」、書道や禅などの精神修行を含む「心」の稽古も受けることになった。

 そして、瞬く間に五年の月日が流れた。



 永禄十二年(1569年)、前原弥五郎二十歳の春。

 そこにはかつての鬼夜叉の姿は消え、一個の凛々しい若武者の姿があった。この五年、心・技・体を鍛え、特に弱点であった「心」を補い、獣の心から人の心へと発展を遂げ、心身共に弥五郎は大きく成長した。


 しかし、弥五郎は表面上は怒りや憎しみなどの負の感情を消していても、心の深層では未だに根強く負の感情を残したままだった。

 しかも、それは師の自斎ですら読み取れない、小さな、しかし確実にはぐくまれてきた感情であり、それだけにひどく厄介な代物だった。


 そんなある日、師を上座に据え、道場内で同僚である弟子たちと共に弥五郎が稽古に励んでいた時のことだった。


 ある弟子と組太刀くみだちの稽古をしていた弥五郎は、何気なく立ち合ってみて、不思議なほど相手の太刀捌きが軽く、また柔らかく見えるのを感じた。それはまるで綿が宙に浮いているかのような、何とも表現のしようのない奇妙な感覚だった。

 同時に向かい合っている相手が隙だらけに見えた。


 その瞬間、彼の頭の中を猛烈な速さで何かが後光のように駆け抜けた。

(これだ!)

 まるで悟りを開いた僧侶のように、ごく自然に弥五郎は剣に対する鮮烈な心象をその脳の中に掴んでいた。


「先生!」

 突然、道場中に響くような大声を弥五郎が上げたため、門弟も自斎も何事かとその動きを止め、道場の中央に立っている弥五郎に目をやった。


「何だ、弥五郎」

 その弥五郎はこの男には珍しいほど爽快感の漂う態度と口調で師を見つめ、自信満々にこう言った。


「先生。私はたった今、剣法けんぽう妙機みょうきを悟りました」

 この場合の「妙機」とは、奥義とか神髄といった意味合いである。この言葉を耳にし、門弟たちは皆、唖然とした表情を見せたが、次の瞬間、巨大な笑いの渦が道場の中に広がった。


「弥五郎。気でも狂ったか!」

「面白い戯言ざれごとだ!」


 まだ弟子入りしてから日が浅く、また弱冠二十歳の若さである弥五郎は、当然自分よりも年上の兄弟子あにでしたちの嘲笑を一身に浴びることになった。

 師の鐘巻自斎も同様に、今にも鼻でせせら笑いをしそうな冷ややかな表情を浮かべた。


 だが、弥五郎はそれらの冷ややかな視線を無視し、師の目を睨むように見つめながら、

「先生。本当です」

 念を押すように言った。


 これにはさすがに温厚で通っている自斎も思わず腹を立てていた。いかに優れた弟子とはいえ、わずか五年の修行だけで「剣術の全てを悟った」と言い出せば、思い上がりもはなはだしい、そう思うのが当然だった。

(相変わらず生意気な小僧よ)


 自斎は眉間にしわを寄せて、凄味のある声で、

「門下となって日も浅いのに、左様に大言壮語するものではない。真の悟りを知るためにも慢心は禁物だぞ」

 と、強くたしなめた。


 ところが、弥五郎はかえって向きになって食い下がるのだった。

「嘘ではありません。そもそも剣の妙機というものは、師から教えられるものでも、長く修行していればわかるというものでもありません。その証拠をお見せしましょう。一つ私と手合わせ願います」


 途端に門弟たちが騒ぎ出した。しかしそれも無理はない。このような大言を吐く弟子は、この道場始まって以来初めてだったからだ。

 門弟たちは、特に弥五郎の兄弟子たちは生意気な餓鬼だと言わんばかりに、弥五郎を物凄い目つきで睨み始めた。


 上座に座っていた自斎も一瞬、我が耳を疑うほどだった。しかし、彼にしてみれば、弥五郎は生意気でも大事な弟子の一人だ。

 ここは師として、彼を叩きのめし、その慢心を砕いてやるのが師としての務めだと即座に判断した。


「静まれ。皆、稽古をやめよ」

 野太い声でそう言うと、自斎は壁に立てかけてある木刀を手に取り、ゆっくりと道場の中央に歩みを進めた。


 門弟たちが散り、道場の中央に弥五郎と自斎が対峙する。

 弥五郎の脳裏に一瞬、矢田織部が以前、発した言葉が鮮烈に甦ってきた。

 それは譲り受けた、神社の宝刀のことだった。


(俺の行い一つで味方にも敵にもなる……か)

 今回は木刀での立ち合いだが、その言葉が何故か気になっていた。

 二人は、互いに険しい表情のまま、立ち合った。


 が、奇妙なことに木刀を構えた弥五郎の心は真っ白だった。何もないのである。あるのは、ただ目の前に立つ老いた師の姿だけだった。

 門弟たちは当然、師の勝利を確信している。目の前に血反吐ちへどを吐いて倒れる弥五郎の無様な姿をそれぞれ頭の中に描いていた。


 一方、自斎の目に映る弥五郎は、いつもと変わらないように見えた。故に最初に自信ありげに打ち込んでいったのは自斎の方だった。

 彼は右脇に構えた木刀を弥五郎に向かってすばやく突き出した。


 しかし、弥五郎は師の鋭い太刀捌きをまるで読んでいたかのように、半身を開くという最低限の動きだけでかわすと、がら空きになっている師の胴を木刀でしたたかに打ちつけたのだ。

 自斎は弥五郎の強烈な打ち込みのためによろめき、そのまま床に倒れ込んだ。


「おおっ!」

 驚きの喚声が上がる中、自斎は少しも応えていないような顔で立ち上がると、間合いを取って再び構えた。

 しかし、隠そうとしても幾筋もの深い皺が刻まれたその顔からは、確実に自斎の焦燥を感じることができる。


「もう一度!」

「構いません」

 対して、弥五郎は至って落ち着いている。その余裕の態度が自斎には返って気に入らない。


 今度もまた自斎から動いた。中段の胴打ちと見せかけて、斬りかかり、途中から弥五郎の頭を目掛けて、大上段に打ち下ろした。


 しかし。

 一陣の風が吹いたかと思うと、自斎の身体がわずかに宙に浮き、そのまま床に背中が激突していた。目の前に木刀を突き出し、自信に満ちた表情を弥五郎が立っている。

 何が起こったのか、自斎にもわからないほどだったが、かわされて肩口を打たれたところまではわかった。


「……」

 門弟たちは喚声を上げるどころか、全員口を閉ざしてしまっている。まるで白昼夢でも見ているかのように、弥五郎のの大きな背中に釘付けになっている。


「くっ。もう一度!」

 自斎の半ば自棄やけになったような声が響く。

「何度でも」


 ついに三度目である。

 今度ばかりは自斎も容易には打ち込まず、じりじりと二人は睨み合った。自斎が弥五郎の隙を狙っていると、不意に弥五郎の身体がすばやく動いた。

 明らかに面を打ちにくる、そのように自斎には見えた。


 が、面に対処するように木刀を上段に構えた瞬間、自斎はその木刀を持つ両手に激痛を感じ、木刀を落としていた。

 弥五郎の鮮やかな籠手打ちだった。


 師の自斎も門弟たちもこの展開に驚くよりも、まず呆気あっけに取られていた。道場は静まり返り、物音一つ聞こえない。


 半刻(約1時間後)後、弥五郎と自斎は、自斎の部屋で向き合っていた。

 目の前に座る弱冠二十歳の青年を、まるで珍物でも眺めるように見つめ、自斎は問いかけた。


「弥五郎。一体何を悟ったのだ?」

 すると弥五郎はいかにも自信ありげに、はきはきとした口調でこう答えた。


「人は眠っている時でも、頭がかゆいのに足をかいたりはしません。それは人に備わった自然な機能です。その機能を完全に働かせることが剣の妙機でないでしょうか」


 そして、続ける。

「先生が私を打とうとする時には、先生の心は『虚』になっています。対して、私はただその自然な機能で応戦しますが、これは『実』と言えるものです。『実』が『虚』に勝つのは至極当然のことではないでしょうか」


 この言葉を聞くと、自斎はさらに呆然として、弥五郎の自信に満ちた紅潮した顔を眺めていたが、まもなく、

「驚いた。それをこの五年の間に悟ったというのか」

 と問いかけた。


 弥五郎が頷くと、自斎は蔵の中に保管してある巻物をいくつか取り出してきて、ためらいもなく弥五郎の手に渡した。

「中条流の秘伝書だ。もうお前はわしに教わる必要はない。免許皆伝だ」

 驚きながらも、弥五郎はこれを謹んで受け取った。


「それと、これをやろう」

 自斎が渡したのは、一振りの日本刀だった。長さが二尺五寸(約77センチメートル)くらいの、立派なこしらえのついた真剣だ。

 弥五郎は、うやうやしくその真剣を受け取った。


 翌日、多くの門弟に見送られる弥五郎の姿が道場の門前にあった。

「これからどうするつもりだ?」

 問いかける師に、弥五郎は故郷のある、はるか南の空の彼方を見つめて。


故郷くにへ帰ります。その後は、武者修行にでも出るつもりです」

 そう清々しい笑みと共に答えていた。


 かつての鬼夜叉から想像すると、このような清々しい笑みなど、とても考えられることではなかった。それだけ弥五郎は確かに成長したと言える。

 しかし、彼の心の奥底にはまだまだ負の感情、そして光の当たらない冷たい心が潜んでいた。

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