五 獣の心

 相州小田原の空は高かった。少なくとも弥五郎の目にはそう映った。


 小田原の城下町は日本では珍しく、城壁にすっぽりと包まれた城塞都市で、街のどこを歩いていても、大きな天守閣と城壁が見える。


 ここは相模国さがみのくにの戦国大名、北条氏の城下町であり、当時、「坂東ばんどう」と呼ばれた田舎に過ぎなかった関東では最も大きく活気に満ちた街だった。それだけに多くの人が集まり、自然と強い兵法者も名を上げようと集まってくる。


 島育ちの弥五郎にとって、こんなに人が多い街に来たのは、もちろん初めてのことだった。


 街を南北に貫く一番大きな通りは、半里(約2キロメートル)ほどの長さに渡ってびっしりと道の両側に店が固まっている。

 そこで売られている品物も、山海の珍味、琴や笛などの楽器、書画、刀剣、さらには異国情緒あふれる唐物からものの陶器など、弥五郎が目にしたことがないものばかりだった。


 家々の屋根は、ほとんどが草葺くさぶき、藁葺わらぶき、茅葺かやぶきの質素なものであり、さすがに京のような板葺いたぶきの屋根はどこにも見当たらないが、それでも東西南北から聞こえてくる人々の声や熱気は、十分にこの街の繁栄ぶりを物語っていた。


 弥五郎が織部から紹介された、鐘巻自斎かねまきじさいという剣豪は、富田流の祖、富田勢源とだせいげんの弟子で、中条流ちゅうじょうりゅうの道場を構えているという。


 早速、弥五郎は町はずれにあるという道場へと足を運んだ。

 素朴な茅葺き屋根の門構えを持つ屋敷の入口に楷書体かいしょたいで、


「中条流剣術道場」


 と大きく書かれた札が掛かっている。

 門の周りに人気ひとけはないが、奥の道場の方からは空気を切り裂くような裂帛れっぱくの気合いの声が響いてくる。


 道場の前まで行き、

「頼もう!」

 と、大きな声で叫ぶと。間もなく、扉が開き、一人の若い男が木刀を小脇に抱えたまま出てきた。


「何だ、小僧」

 相手がまだ子供だと思ったためか、男は刺すように鋭い目つきで、弥五郎を睨みつけた。

「鐘巻自斎という人に会いたい」

 男にしてみれば、むさ苦しい頭髪を持ち、刀をかろうじて一本腰に差し、木刀を持ったこの若者が滑稽に見えた。


「先生に会いたい? 何者だ?」

 明らかに不審そうな目つきで、自分を見下ろす男の態度には構わず、弥五郎は黙って懐から書状を取り出し、男に手渡す。


 男はそれを手に取り、しばらく眺めていたが、やがてもう一度、弥五郎の方を見て、驚いたような表情を見せて、

「ついてこい」

 渋々ながらそう言うと、弥五郎を伴って道場へ入った。


 板敷きの広い道場には、二・三十人ほどの門下生が、木刀を手に汗を流していた。その木刀はいずれも小太刀か中太刀くらいの二尺(約60センチメートル)にも満たない長さだ。そのことに弥五郎は一目で気づいていた。


 やがて道場を抜けたところにある、六畳間に通された弥五郎は、目の前に泰然と座る一人の男と対面した。


 男は織部よりも幾分か年上の五十歳前後の年齢と思われ、髪は結わずに総髪にしている。その総髪が雪のように鮮やかに染まっている。

 目つきや顔つきは、穏やかで、物腰も柔らかい感じがして、どこか剣豪らしくない雰囲気を漂わせている。

 しかし、その眼は、弥五郎が今までに決して見たことのない暖かな光を放っていた。その男が鐘巻自斎であった。


「先生」

 案内をした男が弥五郎の持っていた書状を師匠に渡しながら何事か師の耳元でささやいている。

 自斎は黙って書状に目を落としていたが、間もなく弟子を下がらせると弥五郎を正面から見つめた。

 弥五郎も畳の上に突っ立ったまま、この不思議な雰囲気を持つ男を観察している。


 富田一放のように思いあがった剣豪とは違い、穏やかでおよそ剣豪らしからぬ暖かな空気を感じる。

「なるほど。お前が富田一放を倒したという鬼夜叉か。確かに鬼だな」

 その声もおよそ剣豪らしからぬ穏やかな声だった。

 弥五郎がむしろその声に驚いていると、自斎は、


「だが、随分と弱い鬼だな」

 と言って、小馬鹿にするようにくすくすと笑った。

「何っ! ならば試してみるか!」

 目をぎらつかせ、野牛のようにいきり立った弥五郎に対して、自斎は、

「おお、構わんぞ。もしお前がわしに勝ったら、お前に中条流の免許皆伝をくれてやる」

 と、余裕の態度を見せて、大きく笑った。


 二人は互いに木刀を持ち、向かい合った。

 自斎は一尺二寸(約36センチメートル)ほどの長さしかない小ぶりの木刀を、弥五郎は織部からもらった二尺六寸(約79センチメートル)ほどの木刀を握っている。


 道場の庭であった。雑草の生えた、あまり広くない庭の土の上に足を着けて、二人は頭上に眩しいほどの陽光を浴びながら立ち合った。

 弥五郎は獣のように禍々まがまがしい目つきで自斎を睨みつけながら、獲物を狙う猛獣のように相手の様子を窺っている。今にも飛びかかろうとする勢いである。


 一方の自斎は木刀を構えることすらせずに、両腕をだらりと下げている。その目つきもまるで犬か猫のように弱々しく感じられる。

(こんな奴が強いのか)

 弥五郎はいざ向かい合ってみて、この壮年の男がひどい小男に見えた。自分はこんな男の弟子になりたくない、そうも思った。


「うおあっ!」

 雄叫おたけびと共に、弥五郎は走りながら木刀を斜めに下ろした。相手の肩口から脇腹までを一気に袈裟斬けさぎりにしてやろう、という思いだった。

 しかし、弥五郎にとって信じられないことが起こった。


 自斎は弥五郎の太刀捌たちさばきをまるで読んでいるかのように、流水のような滑らかな動きだけでひらりとかわしたのだ。

 弥五郎は長い髪の毛を振り乱し、胴を払おうと今度は刀を横に振った。しかし、これもまるで弥五郎の無駄の多い動きを見透かしているように、最小限の動きだけで、あっさりとかわされた。


 それでもめげずに、今度は自斎の右手の籠手こてを狙おうと木刀を振り下ろした弥五郎だったが、その瞬間に激痛が全身を貫くように走ったのを感じ、気がつくと地面に仰向けに倒れていた。


 どん、という鈍い音とともに倒れている弥五郎の頭の上の地面に木刀が突き立っていた。弥五郎の目には自斎がにやけているように見えた。

 一体、何が起こったのか、弥五郎にはわからなかったが、かわされた瞬間、足払いをされたと気づいた。

「まだやるか、小僧」


 元来、負けん気が強く、また素直という言葉とは程遠い弥五郎は、

「まだまだ!」

 立ち上がると、再び気合いとともに木刀を構えた。


 しかし、何度やってみても結果は変わらなかった。傍から見ると哀れなほど弥五郎はこの小さな壮年の男に簡単に打ち込まれ、次々に頭、籠手、胴を叩かれていく。

 普通の人間なら木刀でここまで叩かれれば、いつ死んでもおかしくないはずなのだが、この強健かつ負けず嫌いの男は、何度も倒れ、血まみれになりながらも、何度も立ち向かって行くのだった。


 何度目かに立ち向かって行った時だった。

 びゅっと風を切る音とともに、木刀が弥五郎の目の前に飛んできたため、さしもの勇猛な鬼夜叉もひどく慌てて歩を止めざるを得なかった。


 目の前に木刀の鋭い先端があった。自斎が刀を弥五郎の鼻先に突きつけたまま、先程とは打って変わって、殺気のある恐ろしげな目つきをして凄んだ声を上げた。そこには先程までの温厚な紳士の面影は消えていた。


「もうよせ。これ以上続けると死ぬぞ」

 生まれて初めて、弥五郎は心の底から、いや魂の底から戦慄した。


 恐怖のあまり、地面に膝を着き、がっくりと肩を落とす弥五郎に自斎はこれまた先程とは打って変わって、鋭く心の中に響くような太い声を出した。

「弥五郎とやら。強くなりたいか」

 弥五郎はあっさりと、あまりにもあっけなく勝負に負けた屈辱と衝撃のために、自斎から目をそらしていたが、耳だけはかろうじて傾けていた。


「強くなるためには、何が必要だと思う?」

 その自斎の問いにも答える気にはなれず、弥五郎はただ低くうなだれているだけたった。

「それはしんたいの三つを備えることだ。この三つの要素が揃って初めて剣豪と呼ばれる強さを身につけることができる。しかし……」

 自斎が言葉を区切り、うなだれる弥五郎を見下ろしながら、よく耳の奥に響くような大きな声を出した。


「今のお前には『体』、これしかない。だから勝てんのだ」

「……」


 尚も沈黙している弥五郎に、決定的な言葉が投げかけられたのはその時だった。

「それとその目。すべての人間を拒み、刃物のように鋭く、暗く、悲しく、憎しみに満ちた目だ。憎しみの心を持ちながら刀を振るう男は決して強くはなれん」

(くそっ。うるせえ野郎だ)


 弥五郎は打ちのめされながらも、負け惜しみのように心の中で自斎を罵っていた。

 ところが不思議なことに、自斎はまるでその弥五郎の暗い心を見透かしているかのように、

「弥五郎。何故人を怖がる。何故もっと素直にならん。人を憎んで、殺して、修羅のように生きることがお前の望みか。違うだろう?」

 と、問いかけた。


 深い谷の底のように、光の届かなかった弥五郎の荒んだ心に、一筋の光明が差した瞬間だった。

「俺は……」

 初めて穏やかな、しかしどこか悲しげな声を弥五郎は出していた。


「この世で一番強い、無双の男になりたい」

 うなだれている弥五郎の目の前にしゃがみ込み、その飢えた獣のような恐ろしげな、しかし限りなく寂しげな眼に視線を合わせて、自斎は元の穏やかな声で、子供をなだめるような口調で言った。


「なりたければもっと素直になれ。わしが鍛えてやる」

(俺は……今まで何をやっていたんだ)

 弥五郎はもはや首を縦に振る以外、どうしようもないと悟っているように、静かに頷いた。その寂しそうな目に、生まれて初めて悔しさと嬉しさの混じった、美しく澄んだ涙が光っていた。

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