四 初陣
やがて秋が過ぎ、冬になった。
弥五郎は相変わらず神社の境内で立ち木に向かって木刀を打ち込んだり、足腰を鍛錬するために近くの山を走り回る日々を続けていた。髪は益々伸び、目つきも以前よりも鋭くなり、次第にその顔は狂相を帯びてきた。
そんなある寒い日のことだった。矢田織部が不意に弥五郎に奇妙なことを持ちかけた。
「弥五郎。そろそろ仕合をしてみるか?」
「仕合?」
そう聞いて、弥五郎の青く、熱い心が震える。
「そうだ。お前の実力がどの程度か知りたい」
弥五郎は目を輝かせながら、織部の次の言葉を待った。
「今、この村に
この織部の親切な言葉も、負けず嫌いなこの若者にとっては迷惑なだけだった。弥五郎は右の拳を固く握り締めて、不遜な態度で吐き捨てるように吠えた。
「相手が誰だろうと、ぶった斬るだけだ」
思い立つと、ただちにその兵法者の逗留先を探すために、木刀一本だけを持って、境内を飛び出し、村に出て行った。
富田一放が逗留している宿はすぐに判明した。村の中央を貫く大きな通りに面した、小奇麗な一軒の宿の表札に豪放な太字の楷書で大きく、
「
と書かれた、竹の札が掛かっていた。
弥五郎はこれを目に止めると、薄い笑みを浮かべて、豪胆にも宿に一人で乗り込んでいった。
「いらっしゃいませ」
と、愛想笑いとともに出てきた宿の主人を睨みつけ、
「富田一放はいるか」
と、言い放つと、主人は弥五郎の鬼のような形相と容姿にすくみ上り、すぐに彼を案内した。
声もかけずに勢いよく襖を開けると、そこには四人の侍らしき男たちが座っていた。
顔の大きな、顎の張った大柄な体躯の男を首座に据えるようにして、残りの三人の男が
三人の男はいずれもまだ二十代の若者のようで、それぞれ腰に大刀と脇差を差し、頭を侍のように結い上げている。
一方、首座の男は尊大な態度で杯を
突如、現れた鬼のような形相をした大柄な少年に四人の男の視線が集中する。
「何だ、小僧」
不遜な態度で肩を怒らせながら、首座の男が弥五郎に言葉を投げかける。その風貌と尊大な態度、剣豪に相応しいがっしりとした身体と、鷹のような眼光、そしてある種独特な雰囲気により、弥五郎は即座にこの男が富田一放だと察した。
「富田一放。俺と勝負しろ!」
勢い込んで、首座の男を睨みつけながら鬼の子は吠えた。
ところが、その瞬間、大きな笑いの渦が部屋の中を包み込んだ。三人の若者が腹を抱えて笑い出し、残りの一人である首座の男も含み笑いをしていたが、この男だけは自分を真っすぐに見つめ、富田一放と即座に見抜いた少年の眼にわずかながらも驚いているようだった。
「何がおかしい!」
一放は含み笑いをしながら、口を開いた。
「小僧。これは餓鬼の喧嘩じゃないんだ。怪我をするくらいじゃ済まないんだぞ」
「怖いのか?」
今までいくらか穏やかな雰囲気に包まれていた部屋の空気が、その一言で途端に重くなり、一気に凍りついていた。
「何だと」
低く唸るような声で、一放は弥五郎を威嚇し、その弟子であろう三人の男も同様にこの生意気な少年を睨んだ。
「こんな餓鬼に負けるのが怖いのか?」
「貴様!」
弟子の一人が刀に手をかけたのを横目に見て、一放が
ここで不意討ちに襲われていたら、あるいはこの無謀な少年の命はここで尽きていたかもしれない。それほどに兵法者の取る態度からは逸脱した発言だった。
一放は、弥五郎のぎらぎらと光る獣の目を正面から見据えて、再び今度は蔑視と見て取れる嫌味な笑みを浮かべた。
「そうか。お前が噂の鬼夜叉だな」
弟子たちが驚いて師を見つめる中、その師は弥五郎の根底を見透かすような目つきをしたまま、弥五郎の顔から視線を離そうとしない。
「そうだ」
「面白い。鬼を倒して名を上げるのもまた
弟子たちはその言葉に酷く驚いているが、師は自信に満ちた瞳をこの鬼夜叉に向けている。
「よし。ならば時と場所はこちらで指定する」
「よかろう」
互いに睨み合い、相手の心の深淵を確かめようとする中、弥五郎の高い声が響き渡った。
「明日、
弥五郎が消えると、弟子たちは弾かれたように次々に師に問いかける。
「何故あんな餓鬼を相手になさるのですか?」
「そうです。餓鬼を倒しても名は上がりませぬ」
だが、一放は杯を呷りながら、
「退屈しのぎには丁度よい」
と、侮蔑の笑みを面上に走らせていた。
この富田一放という男は、俗に「名人
それだけに本来、弥五郎のような十四歳の少年が相手にできる男ではないのも当然だった。
初冬の寂しげな光景はまるで一枚の水墨画のように
境内には男ばかりが六人も佇んでいた。
一人はすり切れた木刀を手に、この寒中にも関わらず裸足で地を踏み、足を開いて仁王のように立ち、鬼のような形相で眼の先に獲物を捕らえている弥五郎であった。
そこから三間ほど離れた土の上に、黄土色の光沢を放つ丈の短い木刀を構え、立派な綿の着物に袴を履き、傲慢な態度と表情で弥五郎を見下ろす富田一放がいる。
一放より斜め後ろに三人の弟子たちがいずれも寒さのために肩から
社の石段の上には、烏帽子を深く被った矢田織部が静かに見守っている。
一放は明らかにこの若者を侮っていた。鬼夜叉だか何だか知らないが、こんな若造に一体何ができる、という思いがその高慢な態度からありありと窺われる。
一放の手に握られている木刀は、同じ木刀でも小ぶりな木片のような木刀である。これは彼の得意とする剣が小太刀にあることに起因している。
両者が睨み合う。弥五郎にとって、これは生まれ始めての公式な仕合だ。今までの喧嘩とは異なる。木刀によって、相手を打ち倒すことだけを考えた。
だが、形は「仕合」ではあるが、実質はただの喧嘩と変わりのないものだった。何しろ野仕合である。仲介人である審判もいないため、どちらかが戦闘不能になるまで続けられる。
織部は初めからそれを狙って、この仕合を仕組んだ。あまりにも正式すぎる仕合では、この野獣のような男の真価はわからないだろうし、これから剣客として生きていく上での障害にもなる。
所詮、剣術の仕合とは、生と死を賭けた「
だが、それも当然だった。織部もまたかつては名の知れた一人の剣豪だったのだから。
向かい合った時からすでにこの仕合は始まっている。だが、二人は動かない。一放の弟子や織部が息を殺して見守る中、突如激しい掛け声と共に動いたのは、一放の方だった。
一放は軽量の小太刀の利を生かし、軽快な
しかし、一放の持つこの軽量でもろい小太刀が命取りになった。見守る四人はそこに信じられない光景を見た。
打ちかかってきた一放の小太刀の一撃目を弥五郎はいとも簡単にその太い木刀によって受け止めていた。
あっと一放が驚いた顔を一瞬見せたその刹那、弥五郎の丸太のように太い両腕が振り下ろされた。
雪のために湿った大地に真紅の花が咲いたように見えた。弥五郎の木刀はその並外れた怪力のために一放の小太刀を真っ二つに叩き折り、そのまま脳天に落下し、一放は声を出す間もなく頭に直撃を受け、仰向けに倒れ、脳天から血の花を咲かせていた。
当然、即死だった。弥五郎が覗いて見ると、一放の頭の頂上が大きく陥没しているのがわかった。弥五郎は侮蔑の薄笑いを浮かべた。
(弱い。兵法者などこんなものか)
しかし、見守っていた織部はその怪力に背筋が寒くなる感覚すら覚えるのだった。
(何という剛力。まさに鬼の剣よ)
目を上げて見ると、三人の弟子たちが真剣を鞘から抜き放ち、目を血走らせている。
そのうちの一人が、
「先生の仇討ちだ! 斬れ!」
そう叫んだ瞬間、三人はほぼ同時に弥五郎に向かって駆けた。
真剣を相手に木刀ではさすがに鬼夜叉といえども危うい、と織部は危惧し、止めようと思ったが、すでに手遅れだった。
弥五郎は真剣に対して怯えるどころか、鬼のような形相のまま木刀を構え、あろうことか自分から三人の男に打ちかかっていったのだ。
先頭の男が弥五郎と目と鼻の先まで肉薄し、勢いよく真剣を振り下ろした。が、それよりも一瞬早く弥五郎が刀を握っている相手の手首を目掛けて木刀を打ち下ろしていた。
そのため、男は激痛のために刀を取り落した。瞬間、弥五郎は木刀を捨てて、すばやく体を沈め、相手が落とした真剣を拾い上げるとそのまま相手の腹を真一文字に斬り裂いていた。
それとほぼ同時に追いついた残りの二人の刀が弥五郎の頭上を走り抜けた。あっと驚いた二人のうち、一人は斬撃を加える間もなく、弥五郎の持った真剣によって顔面を突き刺され、赤い雨と生臭い血の匂いを残してどっと倒れた。
残った一人は弥五郎のあまりの
間髪を入れずにその男の頭上から刀を振り下ろすと、男の頭が陥没し、さらに顔が歪み、そして物も言わない
さらに弥五郎は最初に斬った男がわずかに
これらの行動をほんのわずかな間に弥五郎は実行して見せた。驚くべき早業と容赦のない残酷な
動かない肉の塊と化した四人の身体から流れ出た血が、まるで赤い絵の具を垂らしたように、水墨画のこの風景を不自然に彩っていく。そして、その絵の中に佇む弥五郎の顔もまた
しかも、驚くべきことに、これが弥五郎が人を斬り殺した初めてのことだった。鬼夜叉の名に相応しい所業だった。
目の前に広がる、あまりにも凄惨な光景に織部は声を出せずにただ呆然と立ち尽くしていた。
その織部の様子に目を止めた弥五郎が血刀を持ち、その先端から赤い雫を垂らしながらゆっくりと近づいていく。
「どうだ。これが俺の実力だ。これでも俺は強くなれんとでもぬかすつもりか」
その自信に満ちた口調で、ようやく織部は我に返った。
織部は今までに決して見せたことのない鋭く、刺すような鋭利な目で、きっと弥五郎を睨みつけて、
「
と、罵声を浴びせたために、血の気が多い弥五郎はたちまち頭に来て、怒鳴り返した。
「剣を捨てた神主なんかにそんな偉そうなことを言われる筋合いはない!」
あくまでも人の意見を拒み続ける弥五郎の孤独に満ちた、暗く寂しい視線を受け流し、織部は静かな声で、まるで自分自身を落ち着かせるように呟いた。
「捨てたのではない。自ら封印したのだ」
「封印? どういうことだ?」
しかし、織部は彼から目をそらし、四つの骸に目を向けると、ゆっくりと近づいて行った。
「おい!」
弥五郎を無視し、骸の前にしゃがみ込み、織部は黙って合掌し始めた。
「弥五郎。お前がこの者たちの命を奪ったのだ」
弥五郎に背を向けたまま、ぼそりと呟いた。弥五郎にはわからなかったが、この時織部は寂寞とした目つきで、四つの肉の塊に目を落としていた。
「何だ? 坊主のように
「わかっている。そうじゃない。お前は腕力だけは強いようだ。だが、心が荒みきっている。このわしではもはやどうにもできんだろうな」
まるで自分に言い聞かせるようにそう言うと、織部は立ち上がり、弥五郎を無視するように彼の前を通って、社の中に入って行った。
不思議な神主だ、と思いながら弥五郎がしばし待っていると、やがて両端に細く白い糸を垂らした白木を大事そうに抱えながら織部は現れた。
「何だ、それは?」
弥五郎に近づきながら織部は、
「この神社に奉納してある神聖な刀だ。お前にやろう」
と、珍しく
「いいのか?」
驚いて目を見開く弥五郎を諭すような口調で織部は続ける。
「これは神の力が宿っている由緒ある刀だ。お前の行い一つで味方にも敵にもなるだろう。これから受けるお前の
「苦行?」
織部は刀を手渡すと、ふと空を見上げた。
いつの間にか雪は止み、雲間から冬のか弱い太陽が顔を出している。
「お前はこれから小田原に行き、
「何で俺がそいつに弟子入りしないといけない。そんな見ず知らずの奴に」
すると、織部は含み笑いをし、目元を緩めて心なしか優しげな表情を浮かべた。
「わしの師匠だからさ。心配するな。紹介状を書いてやる」
「師匠? あんたの?」
気の抜けたような声が弥五郎の口の端から洩れた。
前原弥五郎、十四歳の冬。それはあまりにも唐突な剣豪としての出発点だった。
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