三 鬼夜叉

 それは全く唐突な出来事だった。ある夜のこと、弥五郎の家に一人の若い女が駆け込んできた。それは捺の妹であり、弥五郎にとっては叔母に当たるこんという名の女であった。捺や弥五郎の数少ない味方の一人だった。


 その紺が息を切らせて、家に入ってくるなり、

「大変だよ! 村の連中が弥五郎を捕まえて血祭りに上げろって騒いでるよ!」

 と叫んだのだ。

「何だって」


 事情を聞いてみると、どうやら弥五郎の喧嘩のために傷つけられた子供の親たちが二、三十人も集まり、弥五郎のことを快く思っていない村人たちと連合して武器を取り、この家に迫っているという。


「弥五郎! ついて来な!」

 捺は息子を連れて外へ飛び出そうとしたが、それを逃亡と察した弥五郎は首を横に振り、憤りを現した。

「俺は戦う! 逃げるのは嫌だ!」

「馬鹿なこと言ってるんじゃないよ! 相手は何人いると思っているんだい。死んだら元も子もないじゃないか」


 捺はきっと息子を睨みつけながらそう叱り飛ばすと、弥五郎のごつごつとした手を引き、家を飛び出した。

 見ると遠くの森の黒い影が、無数のあかりのせいでぼんやりと赤く染まっている。


 捺は灯りとは反対側の闇の深い、森の中を一目散に駆け始めた。まるでこの広い森の抜け道でも知っているかのように、ほぼ正確に南の方角を目指していた。

 途中から手を振りほどいた弥五郎も、もはや覚悟を決め、母の背中を追った。


 どのくらい走っただろうか。やがて、波が打ち寄せる音とともに漆黒の海が現れた。捺はその海岸で足を止めた。

 弥五郎は辺りの様子を窺ってみた。前は岩肌が露出した小さな入り江になっていて、背後は一面の森だ。どうやら松明たいまつの灯りはまだ見えない。左右は幅の狭い砂浜になっている。


 捺は岩肌に近づき、海に足を浸した。海は荒れている。波はいつもより高い。その高波が彼女の細い体に容赦なく襲いかかる。

「お袋! 何をする気だ!」

「いいからそこにいな!」

 しばらくすると、彼女は岩肌の陰に消えた。しかし、ややあって波に揺られる小舟を縄で引っ張りながら戻ってきた。弥五郎は驚いて、海に足を入れ、それを手伝う。


 小舟を浮かべながら、母と子は海岸の砂浜の上で向かい合った。見たところ、舟の備えは粗末な二本のかいだけのようだった。こんな小さな舟で一体何をするのか、と弥五郎が不思議に思っていると捺は突然、真顔で、


「弥五郎。今すぐこの島を出るんだ」

 と言い出した。

「何を言い出すんだ。こんなに海が荒れているのに」

 さすがに慌てて聞き返す弥五郎だが、捺は、

「このまま島にいたらあんたは殺されるよ。だから島を出るんだよ」

 どこか嬉しそうな、楽しそうな、不思議な笑みを捺は浮かべた。

 しかし、そこには息子を文字通り、世間の荒波の中に放ち、その成長を楽しみにするという、強い母の姿があった。

 それは、彼女のように、強い心を持った母でなければ到底できることではない。


「今、島を出たってこの波じゃ途中で死んでしまうかもしれない」

「じゃあ島に残るってのかい。どうなっても知らないよ」

 睨むような眼でそう諭され、渋々弥五郎は小舟に乗ることを決意した。


 波に揺れる不安定な小舟に乗り、母と最後の別れをしようと、何か言葉をかけようと考えていた弥五郎の耳に、奇妙な問いかけが入ってきたのはその時だった。


「弥五郎。あんた、夢はあるかい?」

 夢、そう言われて真っ先に弥五郎の脳裏に浮かんだのは、真剣を持って兵法者たちと戦う自分の姿だった。

 その刀で父を倒して、母を守る。それが彼の望みであり、そして誰にも負けないような強い男になる、それが彼の夢だった。


 しばらく難しい顔で考えてから、彼は自信満々にこう答えた。

「この世で一番強い、無双の男になること」

 とてつもなく壮大かつ、限りなく不可能に近い大法螺おおぼらに聞こえるこの夢を、捺は決して嘲笑ちょうしょうすることなく、むしろ小さな口を大きく開けて、

「そりゃおもしろい! やってみな! あんたならできるよ!」

 楽しそうに笑い、弥五郎の背中を勢いよく叩いた。


 その時、辺りをぼんやりと照らす灯りが二人の目の端に入った。振り向くと、黒い森の上に無数の赤い光が灯っている。

「さあ、もう行きな」

 こくりと頷き、弥五郎は荒波に舟を漕ぎ出した。


 小舟の中、遠ざかっていく母の姿を目にしていると、これまでの色々な出来事が走馬灯そうまとうのように甦ってくる。

 母や、この島のことを考えながら去って行こうと櫂を漕ぐ彼の耳に、捺の大きな叫び声が飛び込んでくる。

「強くなるまで戻ってくるんじゃないよ!」


 それが弥五郎が聞いた、母の最期の言葉になった。母、捺はそれからすぐに海岸線を走り去って行った。


 これが十四歳の前原弥五郎が生まれて初めて島を出た瞬間だった。



 海は荒れていた。それはまるで、この獣のような少年の心を映し出す鏡のようだった。まるで自分の暗く、すさんだ心のように辺りは全て闇であった。


 弥五郎は、何度も何度も小舟から振り落とされそうになりながらも、歯を食いしばり、必死に生きようあがいた。

(こんなところで死んでたまるか。俺は強くなってやる。誰よりも強く!)

 一心不乱に、祈るように強烈にそれだけを考えながら、櫂を動かし続けた。



 眩しい陽射しが頬を照りつけていた。弥五郎はゆっくりと目を開けてみた。砂の上に自分の体が横たわっているのがわかる。

 目の前には澄んだ空とその中にぎらぎらと眩しい太陽があった。波が穏やかに打ち寄せる音が聞こえる。


 弥五郎は起き上がってみた。どうやらあの世ではないらしい。生きている感覚が身体にある。


 辺りに目をやると、砂浜のようだ。さらさらとした砂の粒が足に心地よい。すぐ近くに小舟が見える。しかし、舳先へさきが折れていて、もう使い物にならない。櫂も壊れていた。


 とりあえず陸地にはたどり着いたようだ。彼は砂浜を越えて、小さな林の方向に足を向けて歩き出した。

 少し歩くと、民家が二、三軒、目についた。軒先に出ていた疲れた顔をしたような老婆に、


「ここはどこだ?」

 と尋ねると、

熱海あたみじゃ」

 と、しわがれた声が返ってきた。


 随分、寂れた村だと思いながらも、さらに道なりに歩いて行くと、やがて何十軒かの民家が並ぶ通りに出た。

 藁を乗せただけの質素な民家が連なる、活気がない村で、老人や老婆、子供の姿が目立つ。


 弥五郎が通りを歩いていると、村の者が珍しそう目を向けてくる。目をぎらつかせながら弥五郎がのしのしと歩いていると、不意に、

「あんちゃん、どこから来たの?」

 と、人懐こい笑顔を浮かべた、七、八歳くらいの子供が声をかけてきた。

「遠いところだ。それより坊主、この辺に強い兵法者はいないか?」


 子供に聞いてもわからないだろう、と思いながらも彼はそう聞いていた。だが、考えてみれば自分も身体は大きいが、まだ子供みたいなものだ。世間のことなど全然わからない。

 しかし、その子供は意外にも、

「いるよ。三島神社の神主さんさ」

 と明るい声で答えた。

「三島?」

「ここからあの峠を越えたところだよ」

 少年が指さす方向には、こんもりと生い茂る黒い森がそびえていた。


 半信半疑のまま、弥五郎は峠に向かった。宿に泊まるための金すらない彼は、夜を迎えると山中で獣と一緒に寝るような野性的な旅を続け、空腹で倒れそうになりながらも、ようやく三島に着き、大きな鳥居の待ち構える三島神社を見つけると、滑り込むように境内に入った。

 弥五郎は、あまりの疲労と空腹感のために、やしろの前にたどり着くと、そこで気を失ってしまった。


 気がついてみると、辺りはすっかり暗くなっていて、何故か自分の身体が畳の上にある。辺りを見回してみると三けん(約5.5メートル)ほど向こうにぼんやりと燭台しょくだいあかりが見え、その傍らに一人の男が背を向けて座っていた。


「気がついたか」

 中年の男の声だった。男は立ち上がると、振り向き、燭台を手に弥五郎に近づいてきて、やがて彼の目の前に腰を降ろした。闇の中に男の顔が浮かび上がる。

 小柄な身体をした四十がらみの男が、人懐こい笑顔を浮かべて弥五郎を見下ろしていた。

 白い衣を着て、頭に細長い烏帽子えぼしを乗せている。


「社の前で行き倒れとは、とんでもない小僧よのう。お前、乞食こつじきか」

 誇りだけは高い弥五郎はそれを聞いて、自分の哀れさを恥じ、いても立ってもいられなくなった。

「違う!」

 思わず大声で否定していた。

「では何だ?」


 逆にそう問われると、まだ子供の弥五郎は確たる答えがないことに気づく。しかし、この少年は筋金入りの自信家であった。今の自分の姿に最も当てはまる美しいと思う称号を勝手に当てはめた。

「兵法者だ」

 瞬間、甲高い笑い声が薄暗い部屋の中に響き渡った。弥五郎の目の前に座する男の顔が緩んでいた。


「何がおかしい!」

「いや、すまん、すまん。して、名は?」

「前原弥五郎だ」

 怒ったような声で言い放った弥五郎に対して、男は目を見開いてわざとらしく驚いて見せた。


「ほう。獣のような小僧と思っておったが、存外、人らしい名じゃな」

「何だと!」

 さらに鼻息を荒くする弥五郎をなだめるように右手で制し、男はにやけたような顔で、

「ここに何をしに来た?」

 と尋ねた。


 自信家の弥五郎が刃物のようにぎらぎらした眼を向けて、

「ここの神主と仕合をしに来た」

 と告げると、男は再び、今度は先程よりも大きく、部屋中に響き渡る甲高い笑い声を上げ、

「わしがこの三島神社の神主、矢田織部やたおりべじゃよ」

 と言って、口元を緩ませ、やけに白い歯を見せた。


「何?」

 弥五郎は腹立たしさを感じずにはいられなかった。

 この、人の良さそうな顔をした中年の神主に子供扱いされ、馬鹿にされているのだ。思わず神主の顔を物凄い形相で睨みつけていた。

 ところが、この神主はその鬼のような視線に動じる気配すら見せずに、返って受け流すと、さらに弥五郎の心を逆撫さかなでするかのような冷笑を口元に浮かべ、

「木刀も持ってないのに、このわしと立ち合うつもりか?」

 尋ねた。


「木刀ぐらい、自分で作る!」

 さらに息巻く弥五郎の幼い顔を見ながら神主の織部は、

「残念じゃが、わしはとうに刀を捨てた。木刀は持っておるが、立ち合う気はない」

 ときっぱり言い放った。

「何だと!」


 あの子供に騙された、と感じ、ふつふつと怒りがこみ上げてくるのを感じた弥五郎は、その冷たく光る眼で織部を睨みつけた。

 すると、織部は目を細め、小馬鹿にしたようなその眼で弥五郎の前身を、頭から爪先まで眺めた後、冷たい目に引き寄せられるように、弥五郎の目を捕らえて、綻んだままの口を開いた。


「人が怖いか、小僧」

「なにっ?」

 弥五郎は思わず気の抜けたような声を上げていた。

 織部は目の前にいる少年の瞳の奥底を覗き込むような眼をしてみせたと思うと、突然、いわおのように表情を硬くさせ、話し始めた。


「お前の眼はまるで野にむ獣のようだ。人を寄せつけようとしない。それは人が怖いという証拠だ」

(何を言ってやがる)

 弥五郎にしてみれば、この神主がまるで説教好きな僧侶のように思えた。神主のくせに偉そうに説教を垂れるこの男が気に入らない、と明らかに見てとれるような表情で織部の顔をきつく睨み続けた。


 織部は少しの間、弥五郎という人間を観察するように、彼の全身にくまなく目を配っていたが、やがて、

「そうやって獣のような眼で人を見ているようでは、お前はいつまで経っても強くはなれんよ」

 そう言って、おもむろに腰を上げた。

しゃくさわる野郎だ)

 憎々しげな目で織部を見ている弥五郎に対し、織部は冷笑を浮かべるようなことはしなかった。


 立ち上がると織部は、弥五郎には暗くてよく見えないが、無造作に壁に立てかけてあった一本の木刀を手に取り、弥五郎の前に差し出した。

「お前にくれてやる。強くなりたいのなら、この神社の境内を使って勝手に修行しろ。寝食くらいは与えてやる。ただ……」

 一度言葉を区切り、再び今度は強い口調と眼差しでこの自信家の少年に向かって言い放った。


「誰も頼るな。どんなことがあっても一人で解決しろ。わしは、ここでお前の成長を見ていてやる」

 それは十四歳の少年には、あまりにも過酷はあるが、兵法者としてはむしろ当然のことわりだった。


 弥五郎はひったくるように、木刀を織部の手から奪い取ると、

「ふん! 言われなくてもてめえなんか頼らねえ。それと、俺は小僧なんかじゃねえ。前原弥五郎だ」

 と鋭い声を発して、まるで獲物を威嚇する肉食獣のような眼をしてみせた。

 織部はまるで品物を吟味するかのような目つきで、心を試すように弥五郎という名の獣を見つめていた。そして思った。

(生意気だが、存外骨はありそうだ)



 次の日から弥五郎の修羅道のような激しい戦いの人生が始まった。毎日、朝起きてから夜寝るまでの間、食事以外はひたすら気が狂ったように、木刀を振り回し続けた。

 文字通り、獣のような咆哮ほうこうが境内に満ちた。

 誰も頼らない、そう誓ったため、弥五郎はいつもみすぼらしいボロ切れのような服をまとい、いつしか髪は伸び放題になった。目はいつもぎらぎらしていて、しかも大柄な身体に赤黒い肌のために、まさに人ではなくて、木の刀を持った一匹の獣のようだった。

 矢田織部は時折現れては、そんな孤独な男を遠くから眺めるようになった。

 そうして瞬く間に三か月が経った。



 ある日のこと、神社の境内に近所の子供たちが遊びに来たことがあった。

 この時も弥五郎はみすぼらしい格好で、恐ろしげな形相を浮かべながら木刀で立ち木を打っていた。

 そこへ、喚声とともに子供たちが境内に駆け込んできた。声に気づいた弥五郎は反射的に、その獣のような眼で子供たちを睨みつけた。

 その途端、子供たちはすくみ上った。

 無理もない。ぼさぼさの髪は背中まで達し、ボロ着のはだけた胸の間からは隆々たる筋肉が顔を出し、さらに血色の悪い紫色の唇に獣のような目、そして赤黒い肌の化け物のような男がそこにいたのだから。


 一瞬、境内が凍りついたように静まり返った。たまたま境内に居合わせた矢田織部はこの様子を社の石段に座って見守っていた。

 その静寂を破る一人の子供の恐怖に染まった声が弥五郎の耳に入った。

「お、鬼だ。鬼夜叉おにやしゃだ!」

 一人の少年がそう叫んだ瞬間、子供たちの間に恐怖が伝播し、恐怖に引きつった表情と狂ったような叫び声を弥五郎の脳裏に残しながら、一目散にその場から子供たちは消えていった。


 しかし、鬼夜叉と呼ばれた当の弥五郎はそれに対して憤るどころか、腹の底からふつふつと湧き上がるような、甘美で爽快な気分に自分を浸らせた。

(鬼夜叉か。気に入った!)


 強くなりたいという一心で、島を飛び出してきたこの若者には、鬼夜叉だろうと、悪鬼だろうと、物のだろうと、強いことには変わりはないと思われたのだ。

 それは剣の世界では悪名ではなく、むしろ名誉である。そうとすら思った。


 しかし、この様子を眺めていた織部はおもむろに立ち上がり、弥五郎に近づくと、その恐ろしげな顔を見据え、対照的に渋柿のような表情を作り、諭すように口を開いた。

「弥五郎。何故人を怖がる。何故人を憎む。このままではお前は一生誰からも愛されず、愛することもできない。それでいいのか?」


 弥五郎は、目を背けて、苦々しげに言葉を発した。

「人など信じるだけ無駄だ。裏切られ、忌み嫌われ、そして殺される。ならば強くなって見返してやるのだ」

 その傲岸な瞳は、無限に広がる雲間の青空を自信ありげに捕らえていた。

(孤独な心だ)

 織部はそう思いながらも、この鬼のような少年が哀れに思えてならなかった。

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