二 悪餓鬼

 数十人の子供たちが入り乱れて、たった一人の少年と殴り合っていた。打ち寄せる太平洋の荒波のせいで、その喚声はかき消されている。


 どの子供たちの目も血走っていた。それは目の前の一人の少年のせいで、すでに数人の仲間たちが激痛のために砂浜をのたうちまわっていることに起因する。


「囲み込め! 一斉にかかるんだ!」


 一人の大柄な少年がそう叫んだと同時に、子供たちは円を描くように遠巻きに少年を取り囲む。

 しかし、その円の中心にいる少年は円が完全に出来上がる前にすばやく動いていた。


「うわっ!」


 一人の太った少年が突き飛ばされて、地面に背中を打ちつけたと思った瞬間、その少年は石のような拳によって、顔面を何度も何度も殴られ、ついには鼻血を出して、気を失ってしまった。


「ぶっ殺せ!」


 大柄な少年が、気が狂ったように大声で吠えた瞬間、三人の少年がほぼ同時に少年に殴りかかったが、対する少年はしゃがんで、それらを簡単にかわすと、瞬く間に一人に頭突きを、一人には顎が砕けると思えるくらい強烈な拳打を、そしてもう一人には股間に蹴りを浴びせたため、三人の少年たちはたちまちうずくまった。


「まだやるか!」


 そう言った少年の目はぎらぎらと光り、すべての人間を受け入れないようなひややかな輝きを放っていた。


「く、くそっ! 退け!」


 大柄な少年の一言で、ばたばたと慌てて、子供たちは蜘蛛の子を散らすように砂浜から散っていった。

 一人その場に残された少年は、自分の並外れて大きな体躯たいくと、拳にべっとりと付着した血の色と、そして倒れている無数の少年たちの体を見やり、不気味な笑みを浮かべていた。


 この少年の名は、前原弥五郎まえばらやごろうといった。まだ十四歳という若年ながら、身の丈は五尺(約150センチ)を越え、その大柄な体格から生まれる膂力りょりょくは並の大人より強かった。

 手入れをしていない、ぼさぼさの髪を肩にかかるほど伸ばし、目つきは常に獣のように猛々しい。


 永禄六年(1563年)春、伊豆大島。

 この頃、日本全国でいつ果てるとも知れない戦が続いていたが、少年の住むこの伊豆大島はそのような戦とは無縁の小島だった。

 弥五郎はこの島の漁師の息子だった。しかし、この歳になっても漁師の仕事など何もせず、毎日毎日まるで腕試しでもするように村の子供たちとの喧嘩に明け暮れていた。

 そんな弥五郎は当然、村の鼻つまみ者であり、厄介者だった。


 弥五郎が家に帰ると、いつものよう父親はそこにいなかった。質素なわらいただけの掘っ立て小屋のような家には、酒の匂いが充満していた。


 見ると、裾の切れた汚れた着物を着た母親のなつが昼間から酒を飲んでいる。切れた裾からは漁村の女には珍しいほど白い肌が覗いている。

 酒のせいで、目が多少うつろになっているように見えるが、白い肌と艶やかな黒髪は島のどんな女にも劣らないほど美しい。


「弥五郎。あんた、また喧嘩してきたね」

 入ってきた弥五郎の姿を一目見て、彼女は血の匂いを敏感にかぎ分け、鋭く言い放った。

「違う。転んだだけだ」

 すると、捺はその艶めかしい朱色の唇をわずかに動かし、笑みを浮かべると、


「弥五郎。嘘だけはつくんじゃない。あんたの親父みたいになっちまうよ」

 女性にしては、迫力のある鋭い目つきで、弥五郎を圧して黙らせてしまった。

「どうなんだい?」

 母にそう言われると、何故か嘘がつけない弥五郎少年は、ほとんど無意識のうちに、

「ああ。喧嘩をした」

 そう悔しそうに頷いてしまうのだった。


 彼の母、捺は村の実力者である村長むらおさ長女ちょうじょである。元の姓は「伊東」といい、先祖は伊豆半島の伊東に居を構える豪族だったという。今は漁師になっているが、元はれっきとした武士の家柄だ。


 捺は父から武家の娘としての心得を教えられて育ったから、息子の弥五郎を武士の子として育てるように務めてきた。

 しかし、彼女が嫁いだ男、つまり弥五郎の父は、酒と女と喧嘩しか頭にはないような粗暴で、退廃的な男だった。


 彼女はすでに夫に愛想をつかし、弥五郎にだけ愛情を注いでいる。喧嘩に明け暮れ、村中から「悪餓鬼わるがき」と呼ばれている弥五郎の唯一と言ってもいい味方だった。


 夜、いつものように遅い時間に、父である甚兵衛じんべえが帰ってきた。帰ってくるなり、むしろの上に座って母と談笑していた弥五郎を物凄い目つきでジロリと睨みつけ、すぐに捺の方に目を向けた。


「お捺! 酒だ!」

 しかし、捺は呆れたように、

「あんたに飲ませる酒はもうないよ」

 と、そっぽを向いて答えた。

「何だと! どういうことだ!」

 怒鳴りつける甚兵衛に対し、捺は気丈にも夫をきっと睨みつけて、毒舌を振るった。

「わたしが昼間に全部飲んだんだよ。酒が欲しけりゃ、あんたが今の今まで抱いていた女にでももらうんだね」


 その瞬間、十四歳の少年の目の前で母は父に拳で頬を殴られていた。母の体が数間すうけんは吹き飛び、壁に激突する。少年、弥五郎にとってそれはすでに見慣れた光景に過ぎなかったが、それでも彼はいつものように母をかばい、父の前に立ちはだかった。

「お袋をいじめるな!」


 しかし、少年にしては大柄な弥五郎の体も、海で鍛えた甚兵衛の膂力の前では無意味だった。

 同じように頬を殴られ、壁まで飛ばされた。

「餓鬼は黙ってろ!」


 甚兵衛は体を横たえ、頬を手で押さえている捺にずかずかと近づいていき、いきなり彼女の襟首を鷲掴みにして、

「生意気なことするんじゃねえ。てめえは誰に食わしてもらってると思ってるんだ」

 と、凄みのある声を上げ、口の周りに生えている熊のような顎髭あごひげを揺すった。


 捺はそれでもひるまず、夫の醜い顔を冷たく一瞥し、

「あんたみたいなぐうたらに食わしてもらってるとは思ってないよ」

 と、きっぱり言い返していた。

「ふん!」

 甚兵衛は再び妻の顔面を今度は平手で打つと、どかっと横になり、そのまま高いびきをかいて眠ってしまった。


 捺の顔にはこのように夫から殴られて紫色に染まったあざがいくつもあり、すでに昔日のような美しい娘の面影がなくなっていた。

 弥五郎には、そんな母が哀れに思えてならなかった。それ故に、母をこんなになるまで殴った父に激しい敵愾心てきがいしんを抱いていた。

 彼が幼い頃から喧嘩に明け暮れたのも、一つには母を父から守る強さが欲しいという純粋な願望から来ていた。


 しかし十四歳になった今でも、弥五郎は父に対して全く歯が立たない。それは父が若い頃に剣術を習っていたからだろう。漁師の父は武士のように両刀を腰に下げてはいなかったが、護身用に常に木刀を持っていた。

 弥五郎は、これまでに二度、父に対して木刀で勝負を挑み、二度ともあっさり負けている。



 南海の空の上に浮かぶ熱い太陽が二人の男を頭上から照りつけている。その陽光に反射して海面がきらきらと光っている。しかし、その明るさとは対照的に二人の放つ視線は互いに冷たく、そして濁ったものだった。


 甚兵衛と弥五郎が木刀を手に向かい合っていた。場所は島の南端の竜王岬であった。この仕合しあいを見届けているのは捺ただ一人だった。

「身の程知らずのバカ息子が! 何度やっても同じだぞ!」

 甚兵衛が獣のような眼光をぎらぎらさせながらそう吠える。すると、その自信満々の憎たらしい父の顔を睨みつけながら、弥五郎も腹立たしげに、

「クソ親父! もう二度と木刀を握れなくしてやる!」

 と叫ぶ。


 三度目の決闘だった。今までの二回はともに甚兵衛の圧勝で、弥五郎は父の持った木刀に触れることもできず、一撃で倒されてきた。

 その二回のうち、父は息子を殺すまでには至らなかった。しかし、今回はどうなるかわからない。


 弥五郎は随分成長したし、甚兵衛は益々狂暴になっている。

 捺は気が気でなかった。だが、それも無理はない。いくら気丈に振る舞っていても、弥五郎は一人息子だ。

(弥五郎。死ぬんじゃないよ)

 捺は祈るような気持ちで、二人の男の勝負を見守った。


 最初に打ちかかって行ったのは、意外にも弥五郎だった。彼は木刀を横に水平に持ち、相手の胴を払いに行った。これは明らかに前回、前々回とは異なる戦法だった。

 これまでは正面から上段に振りかぶり、肩口を打ちに行って、あっさり父に打ち返されてきた弥五郎だったが、今回は初めから狙いは胴だった。


 甚兵衛も捺もそこに確かに息子の成長を見た気がした。

 しかし、打ち込みに行った弥五郎の木刀をあっさりと受け止め、甚兵衛はさらに強い力で弥五郎を体ごと弾き返した。


 よろついた弥五郎に追い打ちをかけるように二撃、三撃が襲いかかり、気がついてみると弥五郎は防戦一方になっていた。

 しばらく甚兵衛の鋭い攻めが続いた後、不意に彼の体がわずかに後ろに下がった。これを好機とばかりに弥五郎が攻めに転じた瞬間、脳天を突き抜けるような衝撃と共に弥五郎の記憶はぷっつりと途絶えた。



 弥五郎の意識が戻った時、彼は自分の頭に布が巻かれてあるのに気づいた。同時にその頭から激痛が伝わってくるのを感じた。辺りを見回してみると、自分の家だとわかる。

 いつものように酒を飲んでいる母が、白く細い足を、破れた着物から覗かせているのが見える。


「お袋……」

 呟くようにそう言うと、ようやく気付いた捺が、それでもゆっくりと彼の所に歩いてきて、枕元に座り込み、彼の顔を覗き込んだ。


「全く無茶するんじゃないよ」

 怒ったような声で、捺は酒臭い息を彼の鼻先に吹きかけた。

「俺はまた負けたのか」

「あんたの腕じゃまだ勝てないよ。あんなぐうたらでも、一応兵法者ひょうほうしゃの端くれなんだからさ」

 捺はそう諭すように言いながら、また杯を傾ける。


「親父は?」

 その問いに、捺は面倒臭そうに、

「どうせまた女の所にでも行ってるんだろうさ」

 と答えを返した。

「お袋。何で親父と別れないんだ?」

 不意にそう尋ねてみると、彼女は少し目を細めて、それから、

「ここを追い出されたら、わたしもあんたも生きていけないだろ」

 と、どこか冷めた口調で答えた。


「村長のところがあるじゃないか」

「わたしはこれでも武家の娘だよ。一度嫁いだからには、相手がぐうたらだからって実家に逃げ込むわけにはいかないんだよ。どのつら下げて実家に戻れるんだい」

 その言葉に、捺の武士の娘としての誇りの高さがうかがわれる。

 それを聞いて、しょんぼりと寂しげな表情を浮かべてしまった息子に対し、捺は普段は滅多に見せることのない、優しげな顔で弥五郎を見下ろしながら言った。


「弥五郎。あんた、漁師になんかなる必要はないよ。侍になりなよ」

「侍に?」

 驚いて聞き返す息子に、母は強い口調で、

「そう。あんたは腕力が強いからきっと強い侍になれるよ」

 と楽観的に言い、けらけらと笑った。


 弥五郎が母の笑い声を聞いたのは、実に久しぶりだった。それだけにこの母の言葉と笑い声が彼には嬉しかった。

(侍……か)

 初めてうっすらと将来が見えた気がした弥五郎少年だった。

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