140.逃避行三

「そうですね。歩く分には問題ないかと思いますが……それ以外のところは、腕が治るまでに色々と不自由はしそうな気はしますね。」

 そう言って桔梗ききょう骨接ほねつぎされた自らの腕をふでへと僅かに上げて見せる。お腹あたりにまで吊っていた腕を、胸のところにまで上げた程度ではあったが、それでも桔梗ききょうは腕に痛みが走るのを感じたのか顔を強張らせていた。


「痛た……とまあ、利き腕がこんな有様ですからね。食べるのも、体を洗うのも、用を足すのにも苦労しそうですよ。」

 冗談めかして桔梗ききょうはそう言ったが、ふではほうっと口元を緩めると思い深げに顎を撫でる。


「なるほどなるほど、それでしたら風呂に入る時には私が桔梗ききょうさんの体を洗ってあげましょう。どうしたって片手一本では届かない場所がありますでしょうから。」

 何とも嬉しそうにふでが言うや、途端に桔梗ききょうは不信感をあらわにした表情を見せる。


「えぇ……、ふで殿が洗ってくれるって、それ絶対に変なところを触るつもりですよね?」

「なにをなにを……いやはや……桔梗ききょうさんの傷に差し障るようなことは致しませんよ。」

「信じられませんよ。大体、肝心なことに返事してませんよね。変なところに触るかってところをさわるかどうかって……。」

「それは何と言いますか……。」


 実際図星だったのか、歩いていた足を僅かに依れさせると、ふでは苦笑いしてひょいっと視線を外した。


 不意とその瞬間、視線の先に木の枝があることに気が付いて、ふでは立ち止まった。歩いていた小高い道の脇は斜面になっていて、そこから更に下った所から生えた木が、丁度、ふでの手の高さあたりにまで木枝が届くほどに育ってきているようだった。一つ鼻で息を吸い込ませてみると、ふわりと甘い香りがした。漂う匂いを追って視線を向けてみると、丸く弧を描いてしなった枝の先に、人差し指を丸めた程度の小さな橙色の実が成っているのを見つけた。


 綺麗な曲線を描いてまん丸に小さな実には片方の側面に一本の長い窪みが出来ていて、どうやらあんずの実であるように見えた。その木の周囲を見回してみるが、民家のようなものは見当たらなく、誰かが育てていると言うより自生しているもののようだった。


桔梗ききょうさん。お腹すいていませんか?」

 そうふでが声を掛けると、桔梗ききょうも立ち止まって顔を振り返らせる。


「まあ、ずっと歩いてきましたから、ずいぶん減ってますけど、なにか食べるものでもあるんですか?」

「ここにあんずがあるみたいで。」


 言いながらふでは近くにあった果実へと手を伸ばして、ひょいひょいっと指先を器用に動かして二つもぎ取った。そうして歩き出しながら、懐から中指ほどの長さの小さな刃物を取り出すと、その刃先をもいだあんずの皮へと押し当てた。


「その小刀。まだ残ってたんですね。全部投げたのかと思ってました。」

 ひょいっと桔梗ききょうが手元へと顔を覗き込ませる。


 ふでが握っている小刀は越後屋えちごやで何本か手に入れたものであり、その殆どは唐傘からかさ陣伍じんごらと戦った時に投げ打っていた。ただ、まだ残っていたようで、ふでは指先でくるりとひるがえすと、あんずの身へとその切っ先を食いこませる。


「この刃の長さが使いやすそうでしたからね。一本使わずに残しておこうと思ったんですよ。」

 言いながら桔梗ききょうの方へと視線をむけると、ふでは口角を僅かに上げて、そのまま、するするとあんずの皮を綺麗に剥いてみせる。一つの実を完全に剥いてしまうと、刃先を跳ねさせてその皮を道へと投げ捨てた。そうして綺麗に黄色に色づいた身を露わにしたあんずふでは指先でつまむと、桔梗ききょうの方へと差し出す。


「はい。桔梗ききょうさん、あーんっと口を開いてくださいな。」

 すいっと口元まであんずの実を運んでみせると、桔梗ききょうは露骨に嫌そうな顔をして背を反らした。


「なんですか。それぐらい自分一人で食べれますよ。」

「まあまあ、桔梗ききょうさんは利き腕が使えないんですから。左手で食べようとして落としても勿体ないでございましょう?ほら、早う口を開いてくださいな。」


 にこにこと笑みを浮かべて、ずいっと実を差し出してくるふでに、桔梗ききょうは仕方なさそうに一つ溜息をついて不承不承ふしょうぶしょうと口を開く。すると薄紅色をした桔梗ききょうの唇の狭間へと、ふでの指が伸びて、その細い指先が、そっと黄色いあんずの実を押し込んでいく。瑞々しく果汁を滴らせた果実が、くちゅっと僅かに水気のある音をさせて口の中へと入りこむ。途端と桔梗ききょうの口内に、水気の溢れた甘味がとろりと広がっていく。


「ん……甘いですね。」

 口内で果実を転がしながら、桔梗ききょうは顔をほこばせた。そんな桔梗ききょうの表情に、ふでも口元を緩めさせながら、もう一つの方の実を剥いてしまうと、自分の口の中へと放りこんだ。


 どこか果実に若いところが残っているのか、酸味のある甘さがして、口内がさっぱりとするような心持になる。


「ふむ、確かに甘くて美味しいですね。もう二三個取っておけば良かったでしょうか。」


 通り過ぎてしまった木枝へと顔を振り返らせながら、物足りなさそうにふでは呟く。それを横目で眺めながら桔梗ききょうは、彼女の歩くに合わせつつに、道先を眺める。延々と続く川は、遠く山の狭間にまで続いていて、このまま歩いていけば恐らくは、そのうち村の一つにでも辿りつくだろう。川を渡れば畿内にも行けるだろう。ただ、その後どうするのか、ふでの行くままに着いてきた桔梗ききょうは、何となく行く先が気になってきていた。


「それで、ふで殿。差しあたって遠くに行くのはいいのですが、その後に目指すところとかあるんですか?」

「差しあたっては、先程も言うた通り遠くへ。それからは――」


 僅かにふでは言葉を途切れさせる。


「それからは?」

 桔梗ききょうが言葉を促すと、ふでは一つ頷いて川の向こうへと視線を向ける。


「そうですね。桔梗ききょうさん、貴女様さえ宜しければ、貴女様の生まれ育ったという里へと案内していただけませんか?」

「はあ、私の里ですか……えっ?私の里ですか!?」


 思わずも驚いて桔梗ききょうは立ち止まってしまっていた。



「私の里って、私の里ですか?」


 余りにも驚いてしまったのか、桔梗ききょうは良く分からないような問い返しをしてしまう。


 不意に桔梗ききょうが立ち止まったために、数歩ばかり進んだところで足を止めたふでは振り返ると、肩を揺らしながら頷いた。



「ええ。桔梗ききょうさんの生まれ育った里のことですよ。どうか致しましたか?なにか驚くことでも?」


「どうかしましたかって、どうして私の里って……そこがどういう所だか分かっていて言ってるんですか?」


「さあて、どういう所だと言うのです?」


 すっ呆けたような物の言い方をして、ふでは肩を竦めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る