139.逃避行二

「充分に治るまで、あの療庵でゆっくりと出来ていれば良かったのですけれどね。」


 とびを見上げていた顔を下ろして、自分達の来た道を振り返ると、ふでは見える範囲に何がしかの人の影がないことを確かめる。遠くに道を行く人影が居るには居たが、自分達へと近づいてきそうな者、害意のありそうな手合いは見当たらず、そのまま道の先にも待ち伏せや何かが居やしないだろうかと、僅かばかりに緊張感を漂わせながら視線を向けていく。


 その傍らでは、どちらかと言えばのんびりとした表情をした桔梗ききょうが、軽い雰囲気で首を振った。


「そう言うわけにもいかないでしょう。なにしろ藩の家老の屋敷を襲ったんですから。仕方ないです。今頃、市中をひっくり返して私たちのこと探している人たちもいるでしょうからね。あんな所でのんびりしていたら街から出られなくなってましたよ。」

「それはその通りでは、ございますがね。」

「そうですよね?」


 小さく微笑みながら、桔梗ききょうは空を見上げ続けていた。


「そうではございますが……。」

 頷きながらも、ふではどこか不思議そうな顔をしながら、隣の桔梗ききょうの顔を覗き込む。


「追われてると言いますか、逃げなくてはいけないと言いますか、兎も角も、そんな羽目に成っているにも拘らず、桔梗ききょうさんは随分とのんびりしていると言うか、余り切羽詰まった感じがしていませんね……。以前でしたら良く良く不安で文句を仰られていらしたでしょうに、今は心配にならないのですか?」

 問われて桔梗ききょうは首を傾げた後、妙にあどけない顔でくすりと笑う。


「うーん……言われてみると、確かにあまり心配していないかもしれませんね。でも、それは何というか、ふで殿もそうではありませんか?」

「そう見えますか?」


 ふでが目をぱちくりとさせると、桔梗ききょうは微笑みながら何故か嬉しそうに頷く。


「いつも、そう見えますよ。仮にどんな事態になったとしても、どうとでもなると言う自信がありそうというか、あるいは、逆に死んでしまっても良いみたいな捨て鉢のようなものを感じることがあります。何というか、死にたがりと言いますか。」

「私が?そう見えますか?そうですか、そういうものでしょうか……。そんなこともないのですがねえ。」


 ふむっと嘆息をつく様に小さく声を漏らして、ふでは不意と口元を撫でると、不思議そうに首を捻った。


「ま……それでも私はいつも通りのことでしょうが、でも桔梗ききょうさんは違いましょう?」

 言われて桔梗ききょうは、ふでと同じようにして「ふむっ」と一つ頷いて見せた。

 それを見咎めてふでは目を細める。


「なんですかそれは?」

「なにがですか?」

「その、ふむと言うのですよ。そんなことしたことなかったでしょう。」

ふで殿の真似ですよ。同じことをしてみれば、気持ちが分かるかと思いまして。」

わたくしそんなことしております?」

「しておりますよ。」


 くすりと桔梗ききょうは小さく笑みを浮かべると、肩を揺らしながら口を開く。


「今あまり不安でないのは、何と言いましょうか。どうせ一度は死ぬと覚悟したばかりだからですかね、妙に命が惜しくないのですよ。後は、それと――。」

「それと?」

「例え何が起きたとしても、きっとふで殿が助けてくれるだろうって、そう信じてしまいましたから。」

「信じるだなんて、そんなご勝手な。」

「そう、勝手な自分の思い込みですけれどね。でも、捕えられて腕を折られそうになって、どうしても駄目だと思った時、ふで殿に助けに来てほしいと願っておりましたら、本当に来てくれましたから。もう信じてしまっておるのですね、いつだってふで殿が救ってくれるだろうって期待して、なんだか嬉しくなっておるのです。」

「嬉しく、ですか?」

「はい。嬉しいんです。人の心とは不可思議なものですね。心と言う器の中を大きく占める誰かが、自分を助けてくれるって思えるだけで、なんだか嬉しくなるみたいです。」


 左手で胸元を抑えると、桔梗ききょうはきゅっと肩を窄めて嬉しそうにはにかむ。そんな彼女の表情を眺めながら、ふでは顔を傾げて不思議そうに、そして同時に可憐なものを目にしたように頬を緩めていた。ただ、それでもふでは、すぐに瞼を閉じて、愉快そうに冗談めかした雰囲気で肩を揺らす。


「それは、なんともまあ、まるで恋する乙女のようなことを仰いますね。」

 どこかお道化どける口調で言ったふでだったが、それを桔梗ききょうは気にも留めず顔を向ける。


「恋する乙女と言うのは、そういうものなのですか?」

「さあ?言うてはみましたが、そもそも、私はそう言う経験がありませんのでね、分かりかねます。」

「そりゃ、ふで殿はそうでしょうね。」


 仕方なさそうに眉を顰めると、桔梗ききょうは可笑しそうに一つだけくすりと笑って言った。

 ふでは空へと視線を移ろわせながら頭を掻く。


生娘おぼこ桔梗ききょうさんが笑うことでもありますまい。」

 肩を竦めていったふでに、桔梗ききょうは分かりやすく眉尻を下げてみせる。


「その返しは酷くないですか。」

「怒りました?」

「まさか、こんなので怒ってたら、ふで殿と一緒に旅は出来ないですよ。」

「それはご重畳ちょうじょう。」


 言いながら、不意にふでは振り返って一瞬だけ後方へと視線を向ける。視線の先には後方の道を横切る農夫の姿があり、それを見てとって、すぐにふでは視線を戻す。と、その顔を覗き込むように桔梗ききょうが身を屈めていた。


「誰かいらっしゃいました?」

「居ませんですがね。ですが――」


 そう言ってふでは、話の流れに一拍の間を持たせた。それは、これから言うことの重要性を強調しようと言う意図があるのだろう。



「まあ、警戒してし過ぎることはありますまい。何しろ、それほどのことをしでかしましたからね。誰かつけまわしてきていても不思議ではありません。」


 そうは言いながらも、ふではどこか屈託も感じてないように笑って、何とも気楽な調子で歩き始めた。


 桔梗ききょうからすれば、その何の一切の不安も持っていないかのような足取りには呆れを感じなくもなかった。ただ、以前は全く分からなかった彼女の余裕を持った態度の意味が、今では何とはなしに理解できるようになった気がして、彼女のことを信じて後ろをついて歩き始めていた。



ふで殿。これから私達はどこに行くんですか?」


「まあ、差しあたっては街から出て遠くまで行きましょうか。せめて追手の来ない所まで。」


 逃げる時と言うのは、大抵の場合で、道一つ、川一つ、峠一つと、何かの境を越えるごとに見つかる可能性が低くなっていく。


 しかも、越えるのにかかる労力が大きい程に逃げやすくなる。 例えば海を越えれば、ほぼ見つかることはなくなるだろう。


 逆に、越えるのが難しいほどに、通過する場所が限られてしまうために、その直前で待ち伏せしやすく、捕えられやすくもなってしまうものだった。


 海を越えるとなれば、船を見つけるのが難しくなるし、人の目につきやすくなるために、むしろそこで捕まる可能性も高くなる。


 そのために、二人はこのまま陸路で進めるだけ進むつもりであった。



「長旅になりましょうが、桔梗ききょうさんは大丈夫ですか?」

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