138.顛末五 - 逃避行一

「いや……だって……。」

 黒鉄くろがねは思わず結城ゆうきへと向かって世迷よまようたような声を上げた。


「あの寺で……夕時ごろにはもう十数人死んでたでしょうが……。そっから、まだ斬り殺したって言うんですか……?そんな、それじゃあ……。」

 まるっきり気狂いではないか。

 そんな軽々しく人など斬れてしまうものなのか。

 技術や体力の問題もあるだろうが、そこに心理的に葛藤がないのか。


 そんな溢れてきた疑問を、思わず結城ゆうきに問おうとして、すぐに黒鉄くろがねは、その問いに意味がないことに気が付いて口をつぐんだ。

 一方で、結城ゆうきは大仰に溜息を漏らしていた。



「そうですね……。どうやら、彼女は私が思っていたよりも、明らかに頭がおかしい人みたいです。そして……私たちが思っていたよりも、よっぽどに強い……。」


 それは初めてであったときの喧嘩を止めたことに、多少なりとも後悔を覚えていたからなのだろう、誰かに言うと言うよりは、自分自身を責めるように苦々しい表情で呟いて、結城ゆうきは口を真一文字に閉ざした。


 黒鉄くろがねは彼女の言葉に、顔を渋らせて、ただ息を飲むことしかできないでいた。


* * *


二十九


――同じ頃


 名古屋の街の外れ、濃尾平野を北東から南西にかけて断ち切るように流れていく枇杷島びわじま川を挟む土手には野良犬が二三匹、不規則に跳ねながら駆けていっていた。その上空には蒼く晴れた空が一面に広がり、僅かな欠片ほどに小さな雲の影から、一匹の鳥が現れるやくるりと宙を舞って山野辺へと向かって滑空していく。


 不意に、ぴーよろろろと甲高い鳥の鳴き声が周囲へと響き渡って、土手を走っていた犬がぴたりと足を留めると、顔を上げて円らな瞳を上空へと向けた。

 川から少し離れた田んぼの合間を走る街道で、同じように立ち止まった桔梗ききょうは日除けの笠の端を僅かに上げると、空を仰ぐや鳴いた鳥の行く末を目で追っていく。桔梗ききょうの右腕は肘から手首までを添え木が当てられて、ぐるぐるに布が巻かれて固定されていているようであった。そして手首から三本の指も動揺に布でしっかりと丸められているのが見える。


 視線の先で宙を舞っていた鳥は、長く幅広の翼を大きく広げ、曲がった短い嘴に茶色の体つきをしているため、一目に猛禽の類だろうとは桔梗ききょうにも見分けがついた。


「あれはたかですかね。」

 桔梗ききょうが呟くと、隣で同じように日笠を被っていたふでも顔を上げて空を眺めた。

 酷く色濃く青を呈した空の真ん中で、翼の端を上下にひるがし器用に空中でひらりと旋回していく鳥を見て、ふでは目を細めた。


「あれはとびでございましょうね。まずもって、先ほどの鳴き声がとびのものでございました。」

 鳥が舞うのを眺めたままに、へえっと桔梗ききょうは感心する。


「お詳しいんですね。そうですか、あれがとんびですか。」

「いえ、なに。大した事はありませぬよ。たかとびの違いぐらい誰にだってわかりましょう?とびの方がたかより大きうございますし、なにより顔つきも大層違いましょうよ。」

「……なんかその言い方だと、微妙に私が馬鹿にされている気がしますが……。私なんかとんびなんて初めて見たかもしれませんよ。」

「そんな。莫迦ばかになどしておりませんよ……。なにゆえ私が、桔梗ききょうさんを馬鹿になどしましょうか。」


 そう言いかけてふでは口に手を当てると、両眉を釣り上げた。


「ああでも、そう言えば、馬鹿と言う言葉は、馬と鹿の区別がつかいような人のことを言うらしいですね。昔誰かに聞いた覚えがございます。」

 何の気もなくふでがそう口にすると、桔梗ききょうは途端に眉を吊り上げて、顔をしかめさせた。


「やっぱり馬鹿にしてますよね。」


 不満げに口を拗ねらせると、桔梗ききょうは思わずに抗議の意味で彼女の体を叩こうと右手を伸ばそうとする。途端として腕を吊るしていた布に引っかかり、体が惹かれたことに気が付いて、あわやと手を止める。

 それで固定していた腕が擦れたのか、桔梗ききょうは僅かに顔を強張らせた。


「痛っ……。」

 軽く漏れた桔梗ききょうの声に、隣で愉快そうな表情を見せていたふでも笑いを止めて、心配そうに顔を覗き込む。


「腕の方は大丈夫ですか?」

 ふでの問いに桔梗ききょうは多少に眉を歪めながらも頷く。


「まだまだ、痛いですけれどね。お医者さんには、ちゃんと布をとらずに置いておけば治るだろうとは言われました。」

 言いながら桔梗ききょうは布に巻かれた自らの右腕を撫ぜる。布越しですら触れている感触が伝わってくるほどに腕は腫れていて、その触り心地に未だにそれが自分の腕ではないような感じがしてしまう。


 それでも、腕がくっついているだけしだとは思えた。


ふで殿に連れていってもらえた、あのお医者さんの腕が良くて助かりました。」

「もし治らないなどと口にしていたら、その場であの医者の腕を叩き切るつもりでしたけれどねえ。治るのでしたら良かったです。」


 桔梗ききょうはその言葉に頷きながらも、腕をぼうっと眺めながら、どこか捨て鉢な調子で口を開く。


「まあ、本当に治るのかは知りませんが。」

「治りましょうよ。あの医者は、そこらへんの当て推量は外したことはございませんから。」

「そうなんですか?」

「そうなのですよ。」


 肩をすくめながらふではしれりと言った。




 あの後、成瀬を斬り捨てて囚われていた家から逃げ出すと、二人はよたよたとしたもつれた足取りながらに夜の街を歩きつめ、そうして事件の宵口に至ってふでの腹の傷を縫った安井やすい療庵りょうあんへと、再び駆けこんでいたのであった。それは腕がひび割れて指の折れてしまった桔梗ききょうのためでもあったが、実のところふでも大立ち回りでったはずの糸が幾つか千切れてしまい、腹の皮が裂け掛けはじめていたためでもあった。


 療庵りょうあんを訪れたのが最早影すらも見えぬ深く暮れた夜の真っ盛りであったせいで、戸を叩いた時には酷く眠たそうな顔をして医者が出てきたが、それを何とかふでが頼み込み、無理やりに中へと入れてもらったのだった。ただそれも桔梗ききょうからしてみると、ふでが他人に対して頼むと言う初めて目にする光景で、指を折られて出た熱に浮かされていたのもあり、何か不思議なものを見せられているような気分すらあった。


 出てきた医者も医者で、無精ひげも生えて、皺枯れた声のぶっきら棒な喋り方するために、どうにも胡散臭く見えたが、存外に腕は良くらしく、桔梗ききょうの手を直ぐ様に骨接ぎしてしまうと、丁寧に腕を布で固定してくれたのだった。ただ、ったはずのふでの切り傷が開いてしまっていることには、何とも呆れた表情を浮かべて、うのを渋っていたが、なんだかんだと言いながら、それでも結局は手当をしてくれるあたりが、曲がりなりにも医者としての性分があるのだろうと感じさせた。


 そうして二人ともに傷の手当てをしてもらうと、夜の明けるのを待つこともせずに、すぐに療庵りょうあんを出ていくことにした。


 ひっそりと夜のとばりに覆われた名古屋の街を抜けると、明け方頃には町外れの街道までたどり着いて、そこから更に歩きに歩いて、真昼になる頃に至って、ようやくと大きな川にまで足を踏み入れた


 それははっきりと言って、大怪我を治した直後には無謀なほどの強引な移動だった。


 骨が折れていた桔梗ききょうにとっても辛いものではあったが、少なくとも彼女の怪我は腕の痛みが殆どであり、それを堪えれば歩くこと自体は可能だと言えた。


 一方で、ふでの傷は腹を裂かれたものであり、下手に動けばまた傷口が開いて、ともすれば更に傷口が広がればはらわたごと中身が跳びだすやもしれない。



 屋敷で暴れまわっておいて多少に傷が開いただけで済んだのが異常なだけであり、本来ならば歩くのやめて安静に過ごしているべきはずですらあった。

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