134.緊縛の女囚十二 - 顛末一

「いやはや、生きておりますよ。そもそも死んでなぞ居りません。」

「生きて……生きていらっしゃるのですか……。本当に?」

「ええ、ええ。生きておりますよ。確かめましょうか?」


 言いながらふではしゃがみ込んで、手枷てかせに囚われている桔梗ききょうと視線の高さを合わせる。

 そうして、すうっと桔梗ききょうへと向けて手を伸ばした。


 酷いほどに血濡れている指先が、桔梗ききょうの顔へと触れる。

 そうして、そのままゆっくりと開いた掌が優しく頬へと沿わされた。

 触れた肌は仄かに温かく、僅かにトクトクと血管の跳ねて脈動みゃくどうしているのを桔梗ききょうは感じる。


「どうでしょうか?触れられるし、温かいでしょう?」

「あ……あぁ……ふで殿……。」


 声を震わした桔梗ききょうは目を瞑って、僅かに涙ぐむ。


「本当に生きていらっしゃるんですね……良かった。」

 余りにも感極まったように言う桔梗ききょうの様子に、おやとふでは僅かばかりに意外だと言う表情を見せる。


「まさか桔梗ききょうさん。私のことを心配してくれていたのですか?」

 冗談めかしたふでの言葉に、桔梗ききょうはむしろ鼻をぐずっとすすって、泣きそうになりながら首を振る。


「心配どころではありません……。ふで殿は死んだと思うて、絶望しておりました。」

「絶望などと、また大げさなことを言いますねえ。」

「大げさではありません。本当のことです。」

「まあ、捕えられて拷問されているときに、人の死なんて聴かされれば誰でもそう思うかもしれませんかねえ。」


 そう言ってふでが肩を竦めて見せると、はたと桔梗ききょうは顔を上げて、思い切りに首を振る。


「違います。違うんです……。ふで殿が死んだと思うと、何故だか悲しくて、苦しくて、胸が詰まるようで、ふで殿がもういないのだと思うことが辛かったのです。」

 泣きそうになって首を振りつづける桔梗ききょうに、ふでは恥ずかしそうに頬を掻きながら小さくはにかんだ。


「おやおや、それはまた。ふふっ。中々にれた冥利みょうりに尽きることを言ってくれるものですね。」

「こんな時に茶化さないでください。れたなどとまた冗談を言――ぅっ……。」


 不意に桔梗ききょうは体を強張らせて、左手を握りこむと、指の折れた右腕を震わせる。

 助かったと言う安堵からか、ふでの顔を見て気が緩んだのか、桔梗ききょうは半ば意識の外へと投げ出していた、折れた指の痛みを思い出して苦悶の表情を浮かべていた。


「痛みますか。」


 そっとふでが、桔梗ききょうの右手へと手を伸ばす。

 ゆっくりと無事な小指へと触れただけではあったが、それだけでも酷く痛む様に桔梗ききょうはびくりと体を震わせて顔をしかめていた。

 その表情を見て、ふでは苛立ちで奥歯を噛み鳴らした。


「すみません。桔梗ききょうさん。もう少し早く来れれれば、こんなことには為らずに済んだのかもしれませんでしたね……。」

「そんなことを言わないでください。こんなのは痛いだけです。ふで殿が居てくれるのなら、堪えきれぬものではありません。ふで殿が助けに来てくれただけで、私は嬉しいです。」


 痛みに顔を歪ませて脂汗を流しながらも、桔梗ききょうは口角を上げて無理やりに笑って見せる。


「だから、そんな顔をしないでください。」

 言われて、ふでは怒りに満ちていた表情を緩ませた。


「そうですか?」

「そうですよ。」

「わかりました……。桔梗ききょうさんが、そう言うのでした。」


 ふうっと大きな吐息を漏らして、仕方ないというようにふでが口角を緩める。


「それにしても、ふで殿は、どうやって剣華けんか組から逃げてきたのです?完全に包囲されてはいましたでしょう?まさか、全員斬ってきたなんて言いませんよね。」

 桔梗ききょうが尋ねると、ふでは一瞬きょとんっとした表情を見せた後、わざとらしく肩を竦めた。


「流石に、そこまでは致しませんよ。逃げてきたのです。」

「逃げたって、あれだけの人数からですか?」

「そこはそれ、先程ご老人が仰ってたでしょう、崖から飛び降りたって。」

「それじゃあ死んじゃうじゃないですか!」

「意外と死なないものですよ。」


 しれりとふでは言った。


「死にますよ。普通は。」

「まあ、細かいことは後で説明しましょう。とりあえず今は、この屋敷を出てしまいましょう。桔梗ききょうさんも、この手枷てかせから解き放たれたいでしょう?」


 納得いかないながらも、確かにその通りだと桔梗ききょうは頷く。

 それを見てふでは、桔梗ききょうの手首へとめられているかせを掴んだ。

 くっと力を籠めると、その分厚い板で出来た手枷を、ふでは無理やりに圧し折っていた。


* * *


二十八


 その男は微睡まどろみの中、ざわざわと周囲で人が騒がしく話しているのを漠然ばくぜんとした意識のままま聞いていた。耳に飛び込んでくる声の、殆どは男のようであったが、時折女らしき高い声が響き、そして少女らしき幼い声が混じった。意識が胡乱うろんとしているがために、一体何を話しているのかは判然としなかったが、耳に飛び込んでくる声はどれも騒然としていて、叫び声交じりのどこか喧嘩腰な響きがあったが、男にとっては、それがむしろ馴染みがあるようで気分が落ちつくようにすら感じられた。


 辺りには声だけでなく、人のひっきりなしに出入りする足音や、何か床や机に物を積んでいくような音が鳴り響いていて、兎にも角にも慌ただしく、そして五月蠅うるさいほどの活気があった。余りにけたたましい騒がしさに、ある種、心地の良く睡魔すいまの底を揺蕩たゆたっていた意識も、そこに留まることも出来なくなり、安穏とした棲み処から蹴り出されるようにして、男は深く暗い意識の水底から、ゆっくりと浮かび上がってくるような感触に襲われていく。


 男の意識は水中をふらふらと立ち上る気泡の如くに、睡魔と覚醒との狭間へと辿りつくと、ぷくりと浮き上がり、そうしてぽんっと表面を軽く爆ぜさせた。


「かはっ……!」

 不意に、男は目を見開いた。


 かひゅっと喉を鳴らせると、今の今まで呼吸を止めていたような胸の苦しさを覚えて、慌てて肺腑へと息を吸い込ませていく。


 浅く何度か呼吸を繰り返してくうちに頭に酸素が回ってきた男は、二三度瞬きを繰り返して、完全に目が覚めるのを感じた。


 寝起きで視界は薄ぼんやりとしていたが、焦点の定まっていくうちに、景色はくっきりとなっていき、そのうち男は目を向けている先に板張りの天井があることに気が付いた。


 それはどことなく見たことのある板目であって、それが何であったかを呆然とした意識の中で思い出していく。



 不意と、僅かに胸元へと辛さのようなものを感じて、男は大きく息を吸い込もうとすると、埃を一緒に吸い込んでしまったのか、やにわに喉が疼いて、こほっこほっと思わず咳を出てきた。


 途端、男の全身に激痛が走った。

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