133.緊縛の女囚十一

 仮に成瀬が一寸ちょっとでも腕を引けば、それだけで桔梗ききょうの首からは血飛沫ちしぶきが噴き上がり、瞬く間にその体を冷たく変じさせるだろう。


「良いから近寄るな!お主などそもそも儂と顔を合わせることなども出来ぬような下賤げせん者であろう!それ以上近づけば、この者がどうなるか!」


 そう叫ぶように言った成瀬の指先はぷるぷると震え、今にも桔梗ききょうの肌を切り裂いてしまいそうなほどな有様となっていた。

 ただそんな状況も、成瀬の言葉も、全くをもって無視するように、ふでは目を見開きながら強く足を踏み込ませた。


「そんなことをして――」

「お、おい!!近づくなと言っただろう!」


 慌てて成瀬は震えた声を上げる。

 その言葉には、どこか懇願するような響きすらも感じられるほどであった。

 ただ、そんな言葉も殊更にも意に介せず、更に一歩近づきながらふでは冷徹な声を響かせる。


「もし、貴様が、その子を死なしたのなら。死なしたのならだ――」


 その声は、普段のふでとは似ても似つかぬ、まるで朽ち果てた大木のうろからでも湧き出たような、深く皺枯しわかれたものであった。地獄の砂が擦れたように低く鈍く、そして亡者もうじゃうめき声の如くに仄暗い響きがあった。一瞬言葉を途切れさせた、ふでの顔は入り口から差し込む光が逆光となって、細部が陰り表情が分からなくなっていたが、ただ瞳孔の開いた眼球だけが爛々らんらんと輝いて、それは一種の妖怪めいて見えた。ぞくりとして、桔梗ききょうは背筋が震えるのを感じながら、なぜふで妃妖ひようなどと呼ばれるのか、微かにながら理解できるような気がしていた。


 余りの声の恐ろしさに、成瀬は思わず体を膠着こうちゃくさせる。

 ほんの僅かに指先を動かすだけで、捕えている女の首筋程度、すぐに切り裂けると言うのに、腕は振るえるばかりで、そこから一寸いっすんも動かせるように思えなかった。

 そんな成瀬のおののきを見透かしているのか、ふでは無造作にまた一歩と足を近づけていく。


「もし、その子を死なしたのなら、毎晩、貴様の枕元に家人の首を斬って届けてやろう。」


 床の上に足の裏を擦らせて、ずずりと音を立てながら更に一歩ふでは足を近づける。

 血に濡れた裾がぐちゃりと粘り気のある湿った音を鳴らして、気味の悪さを一層に助長していた。


「これから毎夜、貴様の寝ている間、指先も足先も、その体の先を一寸ずつに刻んでいってやる。」


 低く唸る声で呟きながらふでは成瀬へと向かって、どんどんと近づいていく。


 その様子には、正気の欠片の一切も感じられず、視点の定まらない彼女の眼球は虚ろで、狂気を纏っているようにすら見えた。


「貴様の一族に子が生まれたなら、三つになる時に、その首を跳ねてしまおう。」

 そうそこまでの言葉を一息に、訥々とつとつと言いきった後、ふでは目を見開いたままに成瀬の顔を、じろりと睨みつける。


「街に出た時には、背中に気をつけろ。」

 ふでが一つ歩み寄る。


「どれだけ護衛が居ようと安心できると思うな。」

 ふでは刀の切っ先をひるがえして成瀬へと向けた。


「これから、少しずつ少しずつ、永遠に貴様へと苦しみを与え続けてやる。」


 成瀬はふでの言葉に喉を鳴らして、体を震わせた。

 かたかたと奥歯を鳴らして、最早匕首を握った指先に力が籠められないほどにおののいていた。


 既にふでは腕をのばせば、その切っ先をすぐにでも成瀬の体に触れさせられるほどの距離にまで近づいていた。


 部屋を明らめる行燈の油がぱちぱちと不純物を燃やして音を立てる中、薄暗い部屋の片隅へとむかってそびえ立つふでの顔は、影に隠れ、その瞳孔の中はうろの様にどこまでも暗く、その表情には生気の一切が無いように見えた。

 まるで何かが憑りついているようで、その言う言葉には、全て本当に実現するだろうと感じさせる凄みがあった。


「良いか――」

 低く言いながら、ふでは怯える成瀬の顔へと向かって、ぐいと顔を近づける。その見開いた目で、成瀬の瞳を覗き込んだ。


「これから永劫に苦しむか、それとも、今死ぬか。どちらか選べ。」

 それは酷く低く余りにも濁った、およそ人の口から溢れたとは思えない、地の底から這い出たような声であった。


「ひぃっ……。」


 悲鳴を上げて、かたかたと成瀬は手を震わせたかと思うと、その掌から短刀をこぼれ落とした。からんからんと軽い音を鳴らして短刀は床へとぶつかると、成瀬の足元から部屋の隅へと向かって転がっていく。

 桔梗ききょうの喉へと突きつけられていた短刀がなくなったことに、その途端、ふっとふでの顔は緩まり、奇妙なほどに打って変わって穏やかな笑顔を見せた。


「おや、良い子でございますね。」

「あっ……。」


 不意に見せられた笑みに、成瀬が僅かばかりに安堵してしまい、体の力を抜いた瞬間、ふでの手がその頭をがしりと掴んだ。

 果物を片手で掴むような形で、ふでの掌が強く成瀬の頭を握りしめる。


「今、死にたいと言うことですか。分かりました。」

「えっ……?」


 意味が分からずに驚いた成瀬の言葉が漏れると同時に、その頭がぎりっと捩じられて半回転する。


ゴキリ――

 と、深く鈍い音が大きく響いた。


 次の瞬間には、ふでの方へと向いていたはずの成瀬の顔は背中へと向いて項垂うなだれていた。


「あぶ……。」

 成瀬の口から奇妙な声が漏れるとともに、その瞳と唇から、粘り気のある赤い液体が溢れだして、だらりと垂れる。


 ふでの腕が成瀬の頭を掴み、無理やりに反対方向へと捩じり折っていたのだった。


 力を抜いたふでの掌の中から、ずるりと成瀬の頭が滑り落ちて、その体は支えを失ったようにふら付いて、床の上へと倒れ込んだ。

 どしりと音を立てて床へとぶつかると、成瀬の体は、力を亡くしてぴくりとも動かなくなる。


 そこにあったのは、最早息をして活動する生物などではなく、ただの物質でしかなかった。


 倒れ込んだ成瀬の体を見下しながら、ふうっと大きなため息を漏らすと、ふでは先まで成瀬の頭を掴んでいた掌をひらひらと振るって、顔を澄ませる。



「一息に殺してあげましたよ。永遠に苦しむよりはマシでしょう?」 


 死体へと向かい、どこかとぼけたような調子で軽くふではそう告げた。


 言っていることは残忍ながらも、そのお道化おどけたような物言いは、いつものふでに戻ったようであり、先刻までの真剣で恐ろしい声は聞き間違えていたのではないかと桔梗ききょうは耳を疑ってしまうほどであった。


 呆然として見上げている桔梗ききょうの視線の先で、ふでは刀を床に差し込むと、汚いものでも触ったかのように、成瀬の頭へと触れた掌をわざわざ血塗れの服で執拗しつように拭っていく。


 今目の前に居る人間が本当にここ数日を共にしたふでなのか、多少信じられぬ心持で、躊躇いながら桔梗ききょうは問いかける。



「あ……あの……?」


「はいな。どうなされました?」


 桔梗ききょうが声を掛けた途端に、ふっと口元を緩めてふでは首を傾げて見せる。


 その余りに現在の惨憺さんたんたる格好と似つかわしくない笑みに、桔梗ききょうは余計に戸惑ってしまう。



「え、えっと……あの。ふで殿……ですか?」


「ええ、私でございますよ。」


「本当に……化けて出てきたのですか?」


 桔梗ききょうの問いに、ふっと思わずふでは吹き出してしまった。


 何を言い出すのかと言った調子で視線を向けるが、桔梗ききょうが真剣な眼差しを見せていることに気が付いて、ふでは笑いそうになっていた口元を締める。

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