130.緊縛の女囚八

 そこで気が付いたように、急いで虎丸とらまるは近くにある刀へと手を伸ばすと、そのを指の半分なくなった右手で握りしめる。自らの指先を見つめて、ちぃっと忌々しそうに虎丸とらまるは舌打ちを重ねた。正味の話、虎丸とらまるにとっては自分の指が二本だろうが、そこらの生半可なまはんかな者共に劣るつもりはなかったが、唐突に現れた得体のしれない相手を迎えての状況としては多少の心許こころもとなさを感じないではいなかった。


 虎丸とらまるが、成瀬が、そして桔梗ききょうが見つめる部屋の入口からは、先ほど覗いた足先がすっと現れると、血溜まりの出来た床を踏みしめるや、粘り気のある音を立てて赤い飛沫しぶきを跳ね上げた。そのくるぶしからの上部を覆っていたはかまは、裾の先まで一面に、波打ち紋様の如く濃淡をまばらにした深紅の色で染められていて、更には酷く水気を帯びてことに折り目もなくなってしまっているがために、恐らくは布地を染めている赤色の全てが血によって染められたのだろうと察せさせた。


 血溜まりの中で床を踏みしめ、ぐちゃりと音を立てながら、部屋の外に佇む人影は更に一歩入口へと近づいてくる。戸の端からは体の一部があらわになって、そして、部屋の外から差し込む光にすっと細長い影が差し込んだかと思うと、唐突に戸を揺らしてその端を掴む指先が見えた。


 そのまま体を傾けた人影は、部屋の中へと顔を向けると、にいっと口角を上げた。


「ああ、こちらに居らっしゃいましたか……。お探しいたしましたよ。」


 そう妙に親し気に言って、部屋の中を覗き込んできた顔に成瀬は見覚えがあった。見覚えはあったが、そこに見えたのは、居てはいけないはずの人間であった。顔を合わせたのは一度だけであったが、その妙に妖艶で自信に満ちた顔を忘れたことはなかった。部屋の外から顔を覗かせたのは、紛うことなく、死んだはずの女、ふでであった。

 ともにあらわになった衣服は左の胸から肩にかけてまでのみが綺麗なままで、それ以外の箇所はことごとくが血で濡れきっていた。


 頬にすらも鉄錆び臭い紅を纏わせたふでは、口元を一層に笑ませると、真っ赤になった指先で乱れた髪をかき上げる。油脂の混じって粘り気を帯びた血糊がふでの毛を頭皮へと繋ぎとめて雑に形を固めた。ふでが体を反転させ、部屋の中へと正面を向けると、血の滴って重くなったはかまが遠心力でふわりと浮かび、弧を描いてすそが舞うや、放射状に飛沫ひまつを飛ばしていく。


 垂れたふでの目筋に見竦みすくめられて、成瀬は額から冷や汗を流して数歩後退あとずさっていあ。それは単に眼前の女が姿が異様だったからと言うものではなく、彼女が居るそのこと自体が信じられなかったからだった。成瀬からすれば悪夢を見せられている心持であったと言ってもいい。


「お、お主は……。」


 僅かに成瀬は言葉を詰まらせた。

 考えていることを言葉に出してしまえば、今見ているものが夢幻の類ではなく事実として確定してしまいそうで、成瀬は恐る恐るながらに口を開く。


「お主は崖から飛び降りて死んだはずでは……。」

 どこか怯えた調子の成瀬の言葉に、ふでは垂れた目を一層に細めて頷く。


「ええ。ええ。そうでございますとも。ですから化けて出てきた次第ですよ。」

 口元を手の甲で隠しながらふではくすくすと小さく笑って言葉をつづけた。


「何しろ、貴方様がたが飛び降りざるを得なくさせたのでしょう?恨んで呪い殺しにくるには十分な理由じゃあありませんか?」

「な、なにを馬鹿なっ……!!」


 その言葉は、飛び降りざるを得なくしたことを否定しているのか、それとも化けて出たのだと言うことを戯言として罵っているのか、どちらかは判然としなかった。

 ただ成瀬は酷く狼狽ろうばいしていて、続ける言葉を失うと、落ち着きなく視線を右へ左へと移ろわせていく。

 その傍らに、別の意味で自分の目が信じられぬと息を呑んでいる者がもう一人存在していた。


ふで殿……?ふで殿なのですか……?」

 部屋の入口へと現れたふでの姿に目を釘付けにしながら、桔梗ききょうは震えた声ですがるように彼女の名前を呼んだ。


桔梗ききょうさん。ご無事でございましたか。」

 ふで桔梗ききょうの姿を認めると、ふうっと安堵の吐息を漏らす。

 その発した声は先までとは打って変わって、酷く穏やかで風のいだような声だった。


「本当に。本当にふで殿なのですか?」

「ええ。わたくしでございますよ。他に誰だと言うのです?」

ふで殿ぉ~~~……。」


 情けない声を上げながら、その瞳からぽろぽろと桔梗ききょうは涙を流した。

 骨を折られた時に出し切ったとも思っていた涙であったが、それでも次から次へと桔梗ききょうの目からは涙が溢れて床へと滴り落ちていく。

 それはただひたすらに、彼女が無事でいてくれたことへの安堵と喜びからくるものであった。


桔梗ききょうさん。そうも泣くことですか。」

「でも……だって……。」

「私を出迎えてくれるときは、笑顔が良いのですがねえ。」


 しれりとふでは軽い口調で、そんなことを言う。

 それでも桔梗ききょうは、ぐすぐすと泣くばかりであった。


 嗚咽おえつを上げる度、手首に填められたかせをぎしぎしと鳴らしながら、身を揺らす桔梗ききょうの様子に、ふっとふでは目を細めるが、それでも彼女の顔が腫れあがり、その手首は血に染まって、なによりも指先が根元から圧し折れてあり得ぬ方へと向いていることを見て取ると、はあっと、分かりやすいほど大仰に溜息をつき、そして、すぐに眼光鋭く成瀬の顔へ視線を向けた。



「全くね。全くですよ。ご老人。貴方様は随分とやってくれましたものですよ。私を裏切っておいて更にこんな……。裏切ったのは、まあ置いておきましょうか。鐚一銭びたいっせん分も許しは致しませんがね。ただ、私を陥れたのに加えて、桔梗ききょうさんに対して、こんなね、こんなことをしてしまって、ただで済むとは思わないことです。」


 じろりと成瀬に向かって睨み付けると、老人は僅かに「ひっ」と喉奥から怯えた声を上げて腰を引かした。そこに今までの大物ぶった威厳は何もなかった。


 ただ、その傍らから、ずいっと虎丸とらまるが身を乗り出すと、成瀬と桔梗ききょうの視線の間を遮った。成瀬に向けられていた視線を受け取って、虎丸とらまるふでへと睨み返すと、そのまま彼はにやりと口角を上げる。どこか恐怖を感じている成瀬とは対照的に、虎丸とらまるはむしろ喜んでいるようですらあった。



「本当に化けて出てきたんでも、本当は生きてたんでも、どっちだろうが、お前が来てくれたって言うなら、俺にっては嬉しい限りだよ。これで、この指の恨みを本当に晴らせるってもんだ。」


 そう言って虎丸とらまるは右手を伸ばすと、ふでの視界の中心へと指の掛けた掌を差し出して見せる。


 それは親指と小指のみが掌に繋がっていて、他の三本の指は各々に根元や第二関節から先が途絶えていた。


 断面が露出せずに肌が丸まっているあたり、中の骨を切って肉を寄せ、そして縫い付けたのだろう。


 それは大凡おおよそ、想像を絶する痛みを伴うのに違いなく、指を差し出して見せた虎丸とらまるの顔はどこか気をたがえたのか視線の定まらぬところがあった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る