124.緊縛の女囚二

 そこに佇んでいた人影は二つだった。


 目を凝らしてみると、薄ぼんやりとながらに、その外形が判然としていく。

 一つの人影は、屈強な男であったが、右手の指が欠けていて、その傷を守るように布を巻きつけている。

 もう一つの人影は、背丈の低く、顔に皺の入った老人であった。


 その二人のことを桔梗ききょうは良く知っていたはずだったが、朦朧とした頭の中では誰であったか、咄嗟とっさに名前が出てこずに眉をしかめる。そうして誰であろうかと思いだそうと視線を上にあげたところで、ずきりと深く頭が痛むのを感じた。


 意識は未だに濁ったままで、桔梗ききょうは自分がなぜこんなところに居るのか分からずに小さく唸ってしまう。意識がなくなる前のことを思い出そうとするが、そうすると途端に腹部へとせり上がる様な鈍痛を覚えて、更に深く「ぐうっ……」と声を漏らしてしまう。

 ただ、その桔梗ききょうの呻き声に気が付いたのか、目の前の人影が僅かに揺らいだ。


「ほう。ようやく起きたか。」


 老人の方の人影が皺枯しゃがれた声で呟いた。その声には、どこか侮蔑するような、そして愉悦ゆえつの混じったような、そんな響きがあった。

 声のした方へと目を移ろわせて、桔梗ききょうは声の主が誰であったか、そんなことを頭によぎらせながら、思いの付くままに口を開く。


「成瀬様……。」


 そう言葉にして、ようやく桔梗ききょうは相手が誰であったかを自覚した。目の前に居るのは間違いなく、自分の雇い主である尾張藩家老の成瀬であった。余りにも重要な相手であり、むしろ何故そこまで相手の名前が出てこなかったのか桔梗ききょうは、自分自身で不思議なほどであった。


 そうして改めて成瀬へと視線を向けた所で、桔梗ききょうは何故自分が相手の名前が咄嗟とっさに出てこなかったのかを少なからず理解してしまう。見上げて目に映った成瀬の顔は、いつも見るような柔和な表情ではなくって、どこか厭らしさをのっぺりと顔の全面に張り付けたかのような、酷く影が深く教悦きょうえつに満ちた表情を浮かべていて、それが甚だに普段と違うために、まるで別人であるかのようにすら見えたからだった。


 何ともおぞまし気に笑みを見せる成瀬の顔に、どことなく恐ろしさを覚えて、思わず桔梗ききょうは逃げ出してしまおうと、足を藻掻もがかせて、そして後退あとずさろうとしたところで、不意に、みしっと肩に痛みが走った。驚いて肩へと手を伸ばそうとしたが、くっと腕が上に引っ張られるのを感じて、慌てて桔梗ききょうは顔を上げてみると、そこで自らの腕が釣られていることに気が付いた。


 見上げてみれば罪人や奴婢ぬひを捕えておくために付ける、木製の板に二つ穴の付いた手枷てかせ桔梗ききょうの両手首へとはめめられていて、更に太い縄で括られて天井へと吊るされていた。そして丁度、腕は、万歳しているかのような姿勢になる位置にまで無理やりに引き上げられていた。


「なっ……これは……?」

 手枷てかせが外れないかと桔梗ききょうは腕を引いて藻掻もがこうとするが、両手首は太い木板にがっちりと挟まれていて、動かすたびにただただ肌が擦れ、むしろ腕が赤くなり痛んでいく。その痛みに桔梗ききょうは「ぐぅ」と唇をかみしめる。


「無駄だ。」

 不意と目の間に佇んでいた成瀬が口を開いた。


「その手枷てかせはきっちりと絞めておる。お主が忍びであろうと抜けぬし、獣でもなければ力づくでは外せん。言うてみれば今のお主は籠の中に入った虫と同じよ。だからもう諦めて無駄に足掻あがくな。」

 言われて顔をしかめながら、桔梗ききょうはそれでも何故自分がこんな目に合っているのかが理解できずに、成瀬の顔を覗き込む。


「成瀬様。何故。一体どうしてこのようなことを?」

「何故?何故、お主をこのように捕えておるか、か? 家の外でお主を始末して、血を残しては誰に何を気取られるか分からんからな。差しあたって家の中に運ばせてもろうた。それと後は、幾分か儂の趣味もあるが……。」


 けひっと喉の奥を鳴らして、成瀬は何ともいびつに口角を上げて嬉しそうに顎を撫でる。

 ただ桔梗ききょうは意味が分からずにむしろ混乱して目を白黒とさせた。


「私を始末……?なにを?」

「ふむ?お主覚えておらぬのか?頭を蹴られて、記憶を失ったか?それや混乱しておるのか?」

「頭を……蹴られ?」


 そこまで口にしたところで、桔梗ききょうはずきりと刺すような痛みが頭に走るのを感じた。

 刹那、桔梗ききょうの脳裏には気を失う直前の記憶が洪水の様に流れ込んできて溢れかえっていく。


 剣華組に襲われたふでを助けて貰うために、成瀬の家へと駆けこんだこと。ただその顛末はそもそもが成瀬の仕組んだことであるのだと明かされたこと。そして隣に控えている虎丸とらまると言う男に腹と頭を蹴りつけられて意識を無くしたこと。そのすべてを思い出した。そして思い出したが故に、ふつふつと桔梗ききょうの中には酷い怒りの感情が湧いて現れ、途端に瞼を細めて成瀬を睨み付ける。


 その態度で、成瀬は桔梗ききょうが事の次第を思い出したことを悟り、むしろ一層愉快そうに口元を緩めた。


「思い出したか?思い出したなら良い。そちらの方が儂としては断然にたのしいからな。」

「なにをっ……。」


 思わずも桔梗ききょうは跳びかかろうと足に力を籠め体を屈めようとしたところで、腕が手枷に留められてがんっと壁にぶつかったように体を跳ね戻させる。その勢いで肩を痛めてしまい、桔梗ききょうは唇をかみしめると、それでも怒りが収まらぬと言った様子で成瀬をより強く睨み付けていく。


「無駄だと言うたであろうが。」

 呆れたとでもいうように、成瀬は肩を竦めた。


「なにゆえ……。」

「ふむ?」

「なにゆえふで殿を襲ったのですか?どうして私を始末しようなどと……。」

「どうして、か。別段、答えてやる理由もないが……まあ、教えてやっても良い。そもそもな、桔梗ききょうよ。どうして儂があの唐傘からかさ陣伍じんごなどの輩に命を狙われることになったのか考えたことがあるか?」

「は……?」


 逆に問い返されて、その問いの意味が分からず桔梗ききょうは眉尻を下げて困惑した顔を見せる。桔梗ききょうからすれば、どうして成瀬が命を狙われたのかなどと考えたこともなかった。その理由や妥当性など一切も考えず、ただひたすらと命じられるままに任務をこなすのが、彼女の仕事であった。そう求められてきた。そうしていれば生きていけたからだった。


「理由など、知るはずがありません。」

 困惑したままに桔梗ききょうが首を振るうと、知らぬと言ったことが、むしろ気分を良くさせたのか、成瀬はにたにたと余計に気持ちの悪い笑みを顔にこびりつける。



「知らぬか。と言うか、だ。お主程度では考えが及ばぬよな。」

 自慢げに言う成瀬に、桔梗ききょうは焦れたくって声を上げる。


「だから、何が理由だと言うのです。」

 くっくっくと成瀬は肩を揺らした。



「儂が不逞の輩どもに命を狙われておったのはな。儂が大樹公の子倅……尾張の藩主を亡き者にしようとしておるからよ。」


「は?え?藩主の……?」


 直前まで怒りに満ちて成瀬を睨み付けていた桔梗ききょうは、予期もしていなかった言葉に絶句して、きょとんと目を丸くさせる。


 それほどに成瀬の言ったことは桔梗ききょうにとって予想外のものであった。


 主人を裏切るなどと言うことをすれば自らが危ういだけでなく、藩主を狙うなどと大それたことをすれば、親族や係累までもが皆殺しになることもままある話であった。少なくとも軽々にできるものではない。


 類縁の存在しないと言って良い桔梗ききょうですらも、曲がり成りに育ての親へ迷惑が掛かるのを恐れて、そんなことはできようもなかった。


 だからこそ、大きな一族を為している成瀬が主人の、しかも藩主などと言う巨大な存在に叛意はんいを持っているなどと言うのが理解できなかった。



「な……何故。そんなことを……。」

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