118.滴る血三 - 武家屋敷の惨劇一

臓物ぞうもつは無事だな。悪運が良いもんだ。」

「最近は人助けなどもしておりましたからねえ。」


 軽口を叩きながらもふでは顔を顰めたままに、胸を小刻みに上下させて荒く息を吸い込んでいく。


「憎まれっ子世に憚るともいうがな。」

 半ば呆れたとでも言うような口調で言いながら、男は医療道具の入った箱の中へと手を伸ばすと、その中から糸の垂れ下がる針を一つ取り出した。


うぞ。」

「どうぞ。」


 さぱりと言ったふでの言葉に頷いて、男は腹部の傷へと針先を向けると、そのまま肌の表面へと針先を触れさせる。この時代、痛みを緩和させる薬などなかった。酒を飲ませて感覚をにぶくさせることで傷を縫ったなどと言う記録もあったが、基本的には治療を受ける側が、歯を食いしばって痛みに耐えるよりほかはなかった。そしてそれはふでであろうと同じことであった。


 覚悟するようにふでは指先ではかまを握り絞めると、奥歯が割れんほどの力で噛みしめていた。

 柔く白い肌にぷつりと針先が沈み込み、じわりと赤い血がにじみ出した。


「ぐっ……!」

 僅かにふでの喉奥からうめき声が漏れた。


 それも構わずに男が指先に力を籠めると、柔く真白い肌の奥深くへと針が入り込み、そのまま肌の中を突き進んで傷口の谷間から針先が跳びだした。そうして、そのまま裂けた傷で隔てられた向かいの肌へと再び針が突き立てられる。


 二つの肌に糸が渡らせられ、男がぐっと針を引っ張ると、傷の一部が閉じていく。

 それを都合つごう、六度も繰り返すと、ようやく全部の傷が縫い付けられて、裂けていた肌がぴたりとくっついた。


「閉じたぞ。」

 玉止めにして肌から飛び出した糸をぱちんとはさみで切り離しながら男が言うと、それを合図にしてふでは強張らせていた体の力ふっと抜いた。


 途端、床にくたりと横たわったふでへと、男が手を伸ばし、その体へとさらしを巻き始めていく。傷を覆うように幾重いくえにも巻いてぎゅっと縛り上げると、ふでは再び「ぐっ……」と小さな声を漏らす。それでも構わずに思い切りに布地を引き絞ると、男はさらしの端を結びつけて、わざとらしく腹の上をポンポンと叩いた。

 その衝撃だけでふではびくっと反応して顔を顰めてしまう。


「ぐっ……痛うございますが……。」

「お前に斬られた奴らは、痛いどころではなかったろうよ。」

「そりゃ、そうでございますがね。」


 苦言めいて発したふでの言葉に、男は興味もないように目を離すと、使った道具を桶の水で洗い箱の中へと仕舞しまい込んでいく。


「それで、どうする?」

 男の言葉にふでは首を傾げる。


「どうするとは、どういうことです?」

「そんな体じゃ動けもしまい。寝ていくか?今お前が横になっている床の部分だけなら、一晩ぐらい貸してやっても良い。」


 そう男が言ったのを、ふでは首を振るって、はだけていた服を羽織はおり直した。土間へと向かって投げ出していた足に力を籠めると、ふでは多少ふらつきながらも体を立ち上がらせる。


「いりませんよ。急ぎで行かねばならぬ所がありますのでね。」

「その体で動いても、すぐに傷口が開いて動けなくなるぞ。」

「私といたしましてはね。今日一晩動ければそれで良いのですよ。傷口が開いた時には……まあ、明日改めて頼みに参ります故に。」


 ふでの言葉に、男は「はん」と鼻を鳴らして返事を。


「緊急じゃないんだったら、他の奴に頼め。俺はもう御免ごめんだ。」

「それは……そうですね。まあ、考えておきましょう。」

「頼むからそうしてくれ。しかし、大体だな、そんな体で向かおうなんて何の用なんだ?」


 微かにふでは目を反らして、一瞬黙り込むと、躊躇ためらいがちに口を開く。


「……何と言いますか。旅の連れ合いが危険でしてね。」

「旅の連れ?そんな者のために命を張ろうっていうのか?やめとけやめとけ。お前のがらじゃないだろう。」


 呆れたように言う男の言葉に、「そうなんですがね」とふでは困ったように頭を掻いた。ふで自身も口にした理由が理解されるとも思っておらず、もう一つの方の理由を口にする。


「後は……そうですね。実は依頼人が私を裏切りましてねえ。」

 ふでの言葉に、ほうっと男は感心したように息を漏らして、くっくっくっと小さく笑った。


「それはまたなんとも。いやはや、度胸のある人間がいたもんだな。そうかい、なるほどなるほど。そりゃ仕方ないな。」

 小さく言葉を区切って、男は笑いを止めると、改まるように次の言葉を続ける。


「裏切者には報復しなくてはな。」

 そう言った男に、ふでも微かに笑みながら首を縦に振った。


「ええ、それは絶対ですからね。」

「ああ、それは絶対だ。」


 くすくすとふでは笑いながら、玄関に向かって歩き出そうとして、


「ああ、そうです。」

 と、立ち止まって男へと向かって踵を返した。


 箱を片付けようとしていた手を止めて男はいぶかしそうに眉をひそめる。


「なんだ?まだ何か用か?」

「いえね。何か食べられるものがあったらいただけませんでしょうか?何分、血が足りませんので。」


 そう問われて男は少し額をかくと、近くにあったたらいの中へと手を突っ込んだ。その中にあった、拳大ほどの一つの固まりを掴み取ると、そのままほいっとふでの方へと放り投げる。


 飛んできた塊を片手で受け取ると、ふではそれをしげしげと見つめる。それは分厚い生肉の固まりであった。鮮度がいいのか表面は血色の良い薄紅色をしていて、握った指から血の混じった汁が垂れ落ちていく。


「まさかとは思いますが、人の肉ではありませんよね。」

 生半なまなか、冗談半分、疑心半分で言ったふでの言葉に、男は眉を吊り上げて嫌そうに顔を顰める。


「人の肉を置いてるように見えるか?」

「貴方様でしたら、怪我人から切り取った肉ぐらい置いていても不思議ではありませんからね。それで、どうなのです?」

「治療費代わりに貰った馬の肉だよ。これから焼いて食おうかと思っていたところだ。」

「そうでございますか。」


 軽く頷いて、ふでは生肉へと口をつけると、そのまま奥歯で噛みついて一口大に引き千切った。口の中へと入った欠片を何度も噛みしめると、引き裂いた断面から溢れるばかりに肉汁が染み出してきて、その汁ごとにふでは肉を飲み込んだ。ごくりと喉が大きく鳴らしながら、ふでは片眉を引き上げる。


「まあまあ食べれるものですね。有り難く頂いておきます。」

 そう言って、もう一口噛み切りながら、ふでは玄関の戸を開く。


 外に一歩踏み出して空を眺めてみると、もうすでに雨は止んでいるようだったが、その代わりにとっぷりと暗くなり、夕影も月影も一切見えず真っ黒な雲が延々と辺り一面を覆い尽くしていた。空気は湿り気を帯びたままで、どこかさびや土に似た微かな匂いが漂っているようであった。


 少し休んだ御蔭おかげか掌を握りしめてみると、ふではぐっと指先に力が籠められるのを感じる。これならば刀を振るえるだろうと、生肉をかじりながらふでは、闇夜の中、道を一直線に駆け始めていた。


* * *


二十六


 往来へと漏れ光る屋内の明かりも殆ど無くっていき、すっかりと燈火のなくなった夜の街を走り抜け、ふでは武家屋敷の立ち並ぶ道へと足を踏み入れていた。


 暗くはあったが、雨の上がった空からは、一面を覆っていた雲が風に流されて、僅かにできた隙間から仄かに紫へ色づいた星々と月の端が覗き込み、斜光があたりへと差し込んでむしろ幾分か視界がはっきりとし始めていた。


 一度訪れきりの記憶と当て推量の方角を頼りに走ったせいで、少々迷ってしまいながらも、それでもふでは見覚えのある道を探しだして、すぐに成瀬の邸宅へと辿りつく。


 往来を作るために仕立てられた壁かの如くに長い塀が周囲につらねられ、見上げるほどに大きな成瀬の家屋は、ある種目印の様に分かりやすく、見つけられたのは、それが幸いしたと言っても良い。


 ただ訪れて改めて見る成瀬家の大きな門は桔梗ききょうと共に訪れて眺めていた時よりも妙に印象的で、暗闇の中であるせいか、その大きさと厳つさは、まるで人を拒絶し威圧するかのような雰囲気すら感じられるようだった。



 門の前でふでは息を一つ短く強く吸って、駆けまわって乱れかけていていた呼気を無理やりに整える。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る