117.滴る血二

 鬱蒼うっそうとした森の中をふでは崖伝いに歩き、そのまま樹木の途切れるところまで通り抜ける。すると丁度、街の外れへと辿たどり着いていた。外から眺める夜の街は、雨と言うこともあってか行燈あんどんあかりもまばらであったが、それでも幾つかの家には明かりがともっていた。家屋が見えたことにふでは幾分か安堵しつつも、その腹部の傷からは未だに血が流れ続け、次第と指先が冷えていくのを彼女は感じていた。酷く乾いて感じる喉を降り注ぐ雨で潤しながら、ふでは街の中へと入っていく。


 往来にはぽつりぽつりと人影が行きかっていたものの、その誰も彼もが、身の薄汚れて血を垂れ流すふでの姿を一瞥しては、関わっては面倒だと視線を逸らして、そそくさと足早に駆け去っていった。ふでからしてみればそれで良かった、下手に義侠心ぎきょうしんにでも駆り出されて手を出されなどして、無理やりにどこかへ連れていかれるよりかは、よっぽどに良かった。ふでには今から行かねばならぬところがあった。


 いつの間にか上がらなくなった足を引きずって、軽く息を乱しつつも、無理やりに街の往来を歩いて、ふでは立ち並ぶ建物の表札を眺めていく。ふと、ふでは往来の中で、一つの建物へと目を止める。


 それは見るからにみすぼらしい平屋建ての家屋であり、入り口の文字も殆ど見えないほどにすすけた表札には「安井やすい療庵りょうあん」と書かれていた。療庵りょうあんとは、怪我や病気の治療をするという意味であろう。この時代の町医者は誰でも名乗ろうと思えば医者と名乗れたがゆえに、このような貧相な家に住む医者も存在していて、そして街には療養所だの薬処だの、そのような思い思いの看板を張り付けた家が少なからずあった。


 もう仕事を終えたのか、その療庵りょうあんとやらには既に明かりがなく、ひっそりとした人気の感じられない雰囲気を漂わせていた。

 足を引きずりながら、その建物へと近づくと、ふでは玄関の戸へと体を寄りかからせて、そのまま拳で戸を叩いた。がんがんがんと高い音が、雨が途絶えたと感じるほどの大きさで鳴り響く。ただ、建物の中はしいんと静まり返って反応がなかった。ふうっと吐息を漏らして、一層に玄関の戸へと体重を寄せると、構わずにふでは何度も何度も戸を叩いていく。


「……なんだ?」

 不意に、戸を叩く音に割りこむように声がして、僅かに割れた戸の隙間からぎょろりとした目が覗いていた。


 それは大分しわれた男の声であった。

 問う声してきたのに反応してふでは戸を叩くのを止めると、一つ息を軽く吸い込んで、割れ目から覗き込んでくる瞳へと視線を返した。


「こんな夜中に、こうも戸を叩いているのですから分かりましょう?手当をしていただきたいのですよ。」

「ふん、嫌なもんだ。今日はもう全部仕舞しまいだよ。」

「そうでございますか。でも、まあ、そう言わずに。これでお願いいたしますよ。」


 そう言ってふでは自分の後頭部へと手を掛けると、その髪留めから一つの飾りをむしり取り、そうしてぽかりと開いた戸の穴へとその手をつっこんだ。手さぐりに戸の向こうに居る男の手へと触れると、その掌を握りしめて、手の内に掴んでいた物を無理やりに手渡す。


「ん……これは……?」

 男が割れた戸の隙間へと、手渡されたものを翳して、その外形を眺めると、それは、一枚の鉄銭のようであった。表には「上」に「少」と描かれて、裏には熊の図案が描かれていて、それはあの成瀬に貰った鉄銭てっせんと全く同じものであった。


 鉄銭てっせん描かれた文様もんようを目にした途端に、男はすっと目を細めて、すぐ様に戸の鍵釘かぎくぎを抜いて、閉じていた戸をがらりと開いた。


「入れ。」

 戸の向こう側から顔を出した男は、周囲をきょろきょろと見回して誰もいないことを確認すると、今にも倒れそうになっていたふでへと向かって手招きして見せる。よたよたと足を引きずりながらふでが戸をくぐって家屋の中へと入ると、直ぐ様に男は戸を閉めて鍵釘かぎくぎを差し込ませていた。


 割れた戸の隙間から、未だに注意深く往来を眺めている男を背に土間を進むと、僅かに高くなった床へと辿たどりつき、そこでそのまま板張りの床へと向かって倒れ込んだ。体と床がぶつかってどしんと音がするとともに、体重に張られた板がたわんでぎいいっとにぶい音を響かせる。


「おい……あまり大きな音を立てるな。隣人に怪しまれる。」

「すみませんねえ……。」


 床に伏せ込みながらふでは悪びれもしない声で返事をする。


「いやしかし、貴方様がこちらに移り住んでいることを憶えていて、本当に良かったですよ。」

「こちらとしては、忘れてほしかったがね。」


 覗き込んでいた割れ目から目を離すと、医者の男は床へと上がりそのまま近くにあった箱へと手を伸ばす。木製の箱の蓋をとると、その中には様々な医療道具が供えられているようであった。中の道具を改めながら、男はふでへと視線を向ける。


「それで?どこをやられた?」

「腹を。」


 言いながらふでは着物の上着をはだけさせると、そのまま上半身をさぱりと裸にしてしまう。首から下、筋肉で筋張すじばった肢体したいと僅かな胸の膨らみが男の眼前にあらわになるが、それを男は見慣れたとでもいうようにまるで構う様子もなく、全身をじろりと眺めていく。あらわになった肌は一面に白かったが、所々にり傷や青いあざが浮いていて、特に目をついたのが右の脇腹にあった大きな裂傷れっしょうであった。単に斬れているというのではなく、無理やりに動き回ったせいなのか、一部滑らか切れ目の端からいびつ蛇行だこうして裂けてしまっている有様であった。


 真っ赤な血でのっぺりと覆われた切れ目からは、薄紅色の腹膜が覗き込み、ふでが息をするたびに収縮と伸展を繰り返しているのが見えてさえしまっていて、それをじっくりと見つめて男がやれやれと首を振った。



「全く……お前が、また手酷くやられたものだな。引退して腕でも鈍っていたのか。」

 言いながら男は近くにあった水入りの桶を掴むと、手元へと引き寄せる。



「引退などしておりませんよ。ただ、しばらく気ままに旅をしていただけのことです。」


「どうでもよいがな……とりあえず傷を洗うぞ。」


 桶の中へと柄杓ひしゃくを突っ込んで男は水をみだすと、傷口を洗うようにそそぎ込んでいく。



「っ……。」


 傷口が痛んだか、ふでは顔を歪ませて全身を強張らせる。


 そんな様子にも全く頓着とんちゃくしないように男は水を注ぎ終えると、無造作に布きれで傷口の周りを拭っていく。



「中を開いて異物が入ってないか調べるぞ。」


「どうぞ……。」


 顔を顰めたままにふでが頷いて見せると、男は表情も変えずに傷口へと指をかけて、いきなり指先でぐっと押し開く。


 ぱくりと傷口は開いて、皮膚の奥にある腹膜が大きく露出すると、男は火のともった蝋燭ろうそくを近づけて中を照らすや顔を傾げて中を覗き込んでいく。


 じろりじろりと下から上と視線を動かしていく中、はっはっと細かく息を切らしつつ、ふでは僅かに痛みを止めようとする本能的な体のたかぶりで頬を紅潮こうちょうし始めていた。



 まぶたをぎゅっとつむらせてふでが、んくっと痛みで喉を鳴らすと、一頻ひとしきり傷口の中を覗き込んだ男が顔を引いた。

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