116.嘆願三 - 滴る血一

 冷徹れいてつな視線を投げかけたままに、にたりと口元をゆがませて、成瀬は自らの唇を舌なめずりをさせた。

 その刹那、桔梗ききょうの頭へと向けて、虎丸とらまるの足がひゅっと風を斬って迫ってきた。


っ――。」

 悲鳴のように上げかけた言葉を口に出し切る前に、桔梗ききょうの頭は思い切りに蹴飛ばされていた。


「あっ……。」

 ぐわんと頭の中が強く揺れて、桔梗ききょうは歪んでいた視界が、一瞬で真っ暗になったのを感じた。


* * *


二十五


ぴちょっ――

 と、頬に冷たいものが当たる感触を覚えて、ふでうつろながらに薄く目を開いた。


「く……うっ……。」

 微かに喉からうめき声をあげながら、ふではずきずきと頭が痛むのを感じつつわずかに体を起す。揺らぐ意識に側頭部を抑えながら、何度か首を振るうと、一瞬ぐわんと頭の中が揺れる感覚がして、気持ち悪さからふでは微かに喉を鳴らした。


「あ……?なにが……。」

 自分の頭がどうして痛むのかが分からずに顔をしかめさせながら、ふではまるで眼前で火花が飛び散ったかのように目がちかちかとして、ぐるぐると視界の天地が回転していくのを感じていた。何とか体を起こせるだろうかと、地面へと手を伸ばし、くっと力を籠める。


 途端、再び頬へと冷たいものが落ちた。


「んぅっ……?」


 その冷たさに思わず右手で軽く頬を拭うと、指先には一塊の水滴がまとわりついていた。雨が降ってきたのかとふで顔を上げてみると、視線の先には大きな木の枝先があり、それが大きくたわんで先端を垂れさせていた。次第と枝はたわみを大きくしていき、次いですぐに跳ねるように先端を揺らすとそこからしずくが一つ落ちてきた。どうやら、その木の枝から水滴が垂れ落ちてきているようだった。


 顔に振りかかった木の葉の滴を拭いながら、妙に朦朧もうろうとする意識の中で、それでも気力を振り絞って周囲へと視線を差し向ける。そこは森の一角であるようだった。先ほど水滴を垂らしてきた木だけでなく、同じほどの太さをした木々が何本も立ち並び、そして鬱蒼うっそうと茂った葉先が幾重にも重なっていて、森の外へと通り抜ける隙間の一つも見当たらない程であった。地面に草こそ生えてはいなかったが、落ち葉が幾重にも積み重なっていて、枝の生い茂った周囲の雰囲気とも相まり、まるで魔窟の様に薄暗く、全く先が見えなかった。


 空からは、さあさあとこまやかな雨がすさび、しないだ幾つもの枝葉を何度も揺れさせては大きな滴を落ち葉の上へとしたたらせている。後ろへと振り返ってみると、そこには多少の傾斜の強い崖がそびえていて、顔を上げてみるといただきが霞むほどに高く遠く見えた。


「ああ……そう言えばそうでございましたね……。」

 小さく呟いて、頭の痛みと共に溜息を吐きこぼす。


 この崖を飛び降りたのだと、ようやくふでは自らのしたことを思い出していた。

 改めてふでが顔を上げてみると、崖と木々との狭間から雲のかかった空が覗き見えた。その暗さは飛び降りる前と然程さほども変わらないことから、時間があまり経過していないのだろうとふでは悟った。


 立ち上がろうと地面に手を立てて力を籠めた瞬間、ぴしっと関節に痛むものを感じてふでは眉を強くしかめさせる。


「つぅっ……。」


 小さな声を上げて目を細めつつ、慌ててふでは自らの体を見回わして、傷がないかを確認していく。あらかた体を確認したが、陣伍じんごに突かれた腹部以外には血の出るような傷はなく、関節も外れてはいないようではあった。ただ、どこかの筋を痛めたのか、左腕が動かすたびにじんじんと痺れるような痛みが走る。


 何度か左手をぐっと握り締めてみながら、ふでは腕に痛みが走るたび僅かに唇を噛んでしまう。腹部を刺されたことと言い、腕の痺れと言い、頭が痛むことを考えても、全くをもって全身ズタボロになってしまったものだとふでは溜息をついてしまう。それでも、崖から落ちたのだと言うことを考えれば、こんな程度で済んでいるのは圧倒的にましだろうと首を振るう。


 それもこれも、この男の御蔭おかげではあるが、とふでは傍らに倒れていた男へと目をやる。

 それは一緒に崖に落ちた男、黒鉄くろがねの体であった。


 結局の所、黒鉄くろがねの体を引っ張り込んで崖の端から飛び降りた後、空中で揉み合いにりながらも、体の上下を入れ替えることで相手の体を先に崖へとぶつけることに成功した。その結果として、ふでは怪我らしい怪我をすることもなく、崖の下に転がり落ちることが出来た。その代わりと言っては何であるが、傍らで倒れている黒鉄くろがねの服はズタボロに切り裂かれ、あらわになった肌からは血がにじみ、あざだらけになっているように見える。


 それでも未だ生きているのか、黒鉄くろがねは地面に打ち伏せながらも時折「うぅ……」と小さな呻き声を上げている。

 呆れかえるような生命力であった。


「いやはや、何ともまあ頑丈なことで。」

 溜息をつきながら、ふで黒鉄くろがねの腕を引っ張り上げると、その体の上半身だけを起こさせる。ぐったりとしたその体に力はなく、両腕はだらりと垂れ下がっていた。それを無理やりに引っ張って、ふで黒鉄くろがねの体を崖の斜面へともたれかけさせる。


 こうしておけば、少なくとも森の中で俯せているよりは、仲間から見つけ出して貰いやすくなるだろうと言う、多少の心遣いであった。


 刃先を切り交わらせた間柄ではあったが、なんともなしにふでは彼がこのまま死ぬのは惜しく感じていた。それは二度も斬り合ったのであるのだから、せめて死ぬのであれば、尋常な立ち合いで自分が斬ってしまいたいと言う心持であったのかもしれないが、細やかな自分の考えにふでは思いを巡らせるつもりがなかった。ただ何となくそうする気持ちになったと言うのが当人の内心であった。



「街に連れていくなんてことは出来かねますからね。これぐらいで勘弁してください。あの局長さんでしたら、貴方のことも探しに来るでしょうし……。」


 ただ、それが故に、黒鉄くろがねの仲間がやってくる前にふではこの場を立ち去らなければ危うかった。仮にこの状況で、剣華けんか組の面々と出会ったならば、今度こそ切り抜ける手立てがないだろう。


 立ち上がると、さっさと立ち去ろうと足を踏み出したところで、ふと思い出したようにふで黒鉄くろがねに向かってきびすを返す。



「ああ、そうでした。最後に一つだけ。」


 言いながらふで黒鉄くろがねの体に歩み寄ると、僅かに屈んで手を伸ばす。黒鉄くろがねの腰へと触れると、その帯に絡みついてた刀の鞘の紐を解きほぐして、そのままするりと外してしまった。そして近くに転がり落ちていた抜身の刀を手に取ると、泥を拭い落して鞘に納め直した。



「急に気を取り戻して、後ろから襲い掛かられたら困りますからね。これはいただいておきますよ。」


 聞こえてもいないだろう黒鉄くろがねにそう告げて、刀を握りながら立ち上がると、どうにも重く感じる体に無理やりにも力を籠めて歩き出した。

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