114.驟雨の乱闘六 - 嘆願一

「全くねえ……。本当に貴方は厄介な方ですよ。ああ、嫌ですねえ。何とも嫌です。」

 そう言いながらも、不意とふではふっと口元を緩ませた。その笑みが余りにも唐突で黒鉄くろがねは目を見開いてしまう。


「なにを……?」

「男と抱きしめ合う趣味はないんですがねえ。」


 そういった瞬間、刀から片手を離したふでは、やにわに黒鉄くろがねへと手を伸ばした。そうして、くっと黒鉄くろがねの服を掴みかかった。


一体何を――

 と、黒鉄くろがねが考えた次の瞬間、その体は思い切りにふでの胸元へと引きずりこまれた。


 そして、大きく倒れ込むように傾いたふでの体が向かう先は、ほど高い崖の向こう側。

 黒鉄くろがねは目を見開いて、ふでへと視線を向けると、彼女は大きくにやりと心底楽しそうな笑みを浮かべて黒鉄くろがねの体へとぎゅっと抱き着こうとしているところだった。


「ばっ!馬鹿かっ!?てめえっっ!!」


 肺腑の奥から臓物の総てを吐き出すかの如くに黒鉄くろがねが叫んだ時には、二人の体は地面から離れ、崖の下へと向かって宙に浮いた後であった。


* * *


二十四


 濡れてぬかるんだ地面の上へと更に勢いを増した雨粒が強く打ちつけていく。立ち並ぶ家の間を縫うようにして伸びていく道には、大きな水たまりが出来はじめ、往来を行く人たちは皆めいめいに家へと逃げ込んで、夜になったことも合わせてか人っ子と一人といないひっそりとした雰囲気を漂わせていた。ただ、建物の屋根に打ちつける雨の音が、ざざざと印象的に鳴り響いていく。


 その最中を、桔梗ききょうは大きく息を乱しながら足を駆けさせていた。


 じゃりじゃりと水交じりとなった地面の砂で足先を鳴らし、草鞋わらじからはみ出た指先へと泥が纏わりついてくるのも構わず、両手を大きく振るいながら肺が潰れるかと思うほどの勢いで桔梗ききょうは足をらせて、名古屋の道を走っていく。


 息は既に切れてしまい、大きく開いて息を吸い込んでいく口へと雨が飛び込んでくるのも構わず、往来を駆け抜けて、武家屋敷の立ち並ぶ区域まで辿たどりつくと、その十字路の一つで立ち止まり左右を見渡す。人の気配がなくなって、日も落ちて薄暗くなった往来は、どちらを向いても同じような道なりに見えてしまい、頭の中を慌てさせ桔梗ききょうは泣きそうになりながら視線を巡らせる。


「えっと……。」

 何度か左右の往来の先へと目を向けて、ふでと共に歩いた時のことを景色を思い出していく。


「たしかこっちっ……。」

 何とか成瀬の家の方向を思い出すや、桔梗ききょうは再び足を踏み込ませて一直線に往来を進む。


 駆けて、駆けて、駆けて、そうして、吹き荒んでいた雨が止み始める頃に、ようやく桔梗ききょうは成瀬の家の門へと辿り着いた。往来から見上げる成瀬家の門は、数日前にふでと共に訪れた時から何一つ変わらず、周囲の家々と比べても抜きんでて大きく、ひっそりと静かで、そしてどこか空寒そらさむくさえ感じられた。


 辿たどりつくや、桔梗ききょう躊躇とまどうこともなく、門を思いきりに拳の底で叩きつけた。


「成瀬様!桔梗ききょうにございます!火急の!火急の御用がございます!!」

 小さな雨音に紛れながらも、門を叩く、低く鈍い音が何度も周囲に響き渡る。


「成瀬様っ!!」

「なんだなんだ。誰だこんな夜中に。」


 何度も桔梗ききょうが門を叩いていると、脇にある戸口から男が一人顔を出すと、煩わしそうな声を上げて誰の仕業かを確かめるように顔を左右に巡らした。それは数日前に門の前に立って取り次ぎをしてくれた門番の男であった。すぐに門をたたいている桔梗ききょうに気が付いて、険しい顔で睨み付けようとしたところで、ふいとその顔に見覚えを感じたのか、おおっとどこか親しげな声を上げた。


「なんだ、お主か。確か先日も来ておった奴だな。どうかしたか?」

「あっ……。」

 小さく声を上げると門から手を離して、慌てて桔梗ききょうは開いた戸へと駆け寄った。


「あ、あのっ……あのっ……。」

 やにわに口を開こうとするが、慌てすぎて何を言えばいいのか分からなくなって、桔梗ききょうは言葉に詰まる。そんな様子に門番は呆れたように眉を顰めて、小さく手を振って見せる。


「おいおい、落ち着け。どうかしたのか?」

 言われてくっと喉を鳴らして一息をつくと、桔梗ききょうは改めて口を開いた。


「成瀬様に火急の用がございます。お目通しはなりませぬでしょうか?」

「おいおい、今が何時なんどきか分かっているのか?」

「はい……それでも、どうか……どうかお願いできませぬか?」


 桔梗ききょうすがりつくように手を伸ばして頼み込むと、門番の男はふむっと一瞬考え込むような顔をするが、すぐ弱ったとでも言うように首をひねって、がりがりと頭を掻き始める。


「いや、そう頼み込まれてもなあ……。今、成瀬様はお出かけになられておる。どうもこうもできんぞ。」

「そんな……。」


 思わず桔梗ききょうは小さな呻き声を上げると、その場へとへたりと座りこんでしまっていた。

 そんな彼女の様子に慌てて門番の男もしゃがみ込み、その顔を覗き込む。


「おいおい。大丈夫か?」

「だ……大丈夫……です……。」


 そう言いながらも、桔梗ききょうは全身から血の気が引くのを感じていた。指先が妙に冷たくて、四肢に全く力が入らずにむしろ震えてしまうのが分かってしまう。はっはっと、どんどんと浅くなっていく呼吸を繰り返しつつ、桔梗ききょうは揺れる意識の中で、どうするべきかを思考を巡らせていく。成瀬様が来るのを待つべきかと、すぐに考えはしたが、それから助けに行ったのではどう考えてもふでが助かるようには思えない。


 今ですら、彼女が無事であるのかと言えば、危ういぐらいだと理解はしていた。そんな状況でいつ来るとも分からぬ相手を待って、じっとしているべきとは全く思えなかった。

 欠片の見込みはなくとも、せめてこの目の前にいる番兵の男に助力を頼めないだろうか、動転した心でそう思いついて、口を開こうとした瞬間、不意に桔梗ききょうの後ろから声が掛けられた。



「おお、そこにいるのは桔梗ききょうではないか、どうかしたのか?」


 聞き馴染みのある声に気が付いて、桔梗ききょうが慌てて顔を振り返らせると、そこには見覚えのある男が二人、佇んでいた。手前に一人、そしてその男に守られるように奥に一人の男が居た。


 手前の方に佇んでいた男は随分とひょろりと細身の若年の男であり、その身の何よりも目についたのは、右手の先に布を巻きつけていて指が三本ほど根元から先が無いように見えることであった。その特徴的な外見で直ぐに桔梗ききょうはその名を思い出す。確か名前は虎丸とらまると言ったか、数日前にふでと立ち会って指先を弾き飛ばされた男のはずだ。


 ただ、先ほど聞こえてきた声は、こんな若い男の声ではなく、もっと年季のいった老人の皺枯しゃがれた声でああった。半ば期待を抱きながら桔梗ききょうが奥に居るもう一人へと視線を移ろわせると、そこには屋敷の主である成瀬の姿が目に映った。


 成瀬は穏やかな笑みを浮かべながら、僅かに腰をかがめて顔を覗き込むように首を傾げさせる。



「どうしたのだ、桔梗ききょうよ。このようなよいの入りに、そんな泥まみれになって。何か急ぎの用でもあるのか?」


 思わず桔梗ききょうは「あっ」と声を上げるや、はたはたと掌で地面を叩き、膝をついたままに成瀬へと向かい這いずりそうにすらなってしまっていた。


「な……成瀬様っ!」

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