108.曇天の闘諍六 - 今際の一

 退こうとする陣伍じんごに、吸い付くようにしてふでの体がすがっていく。

 そうして、ざじりと、ふでの右足が地面を踏みしめる音が陣伍じんごの耳へと伝わってきた。


 それが仮に右構えの剣筋であるならば二歩の手間があっただろう。

 しかし、左構えから刀を放つのは体を入れ替えるだけの一歩で終わる。


来る――

来る――――

来る――――――


 彼女の腕が刀を抜き去るまでの、ほんの僅かな一瞬の中で、陣伍じんごの心は恐怖で埋め尽くされていく。


こんなはずではなかった――

こんなはずでは――


 情けなく顔歪ませた陣伍じんごの視界の中で、ふでの腕がすっと消えた。


 否。消えたかように動いた。


あつっ……!」

 次の瞬間には、陣伍じんごは自らの腹部に、赤熱したすみを突っ込まれたかの如くに、酷く、刺すような、熱を感じていた。


 一寸いっすん前まで、鞘に収まっていたはずのふでの刀は、気が付いた時には虚空こくうを滑って、陣伍じんごの体を通り過ぎ、残りの空間を切り裂いていたところであった。鋭く振り切られた剣先は、そのほんの先端に、真っ赤な飛沫しぶきまとわらせ、斬り抜いた勢いと共に弾けるように鮮血せんけつほとばしらせていた。


 微かな間を置いて、途端、陣伍じんごの腹が裂けると、血と共にずるりと臓物ぞうもつが溢れだした。


 陣伍じんごは目を見開いき、瞳孔を開いてしまいながら、その臓物ぞうもつを見つめると、ややもしてがくりと崩れ落ちるかの如くに膝を地面につけた。


神楽かぐら流。二拍子にびょうし。」


 真っ赤な血のまとわりついた刀を何もない空へと二三度振るって、そのしずくを払うと、ふではぽつりと呟き、かちりと小さく金属の擦れる音を響かせながら刀身をさやの中へと納めていた。



* * *


二十二


 男にとって刀とは自らの意思を押し通すための道具であった。


 わらしの頃からも刀の腕さえ良ければ、周囲の者共は何でも言うことを聞いた。道場の者達はそれだけで持てはやしてくれていたし、近所の小坊主どころか大人であっても腕が立つと言う一事いちじだけで、誰も自分には逆らえなかった。仮に言うことを聞かぬ輩がいれば、それは木刀で打ち伏せて言うことを聞かせてきた。


 親の言うことだけは渋々しぶしぶと聞いていたが、男にとって言うままにならぬのはそれだけのことであった。

 ただ、元服げんぷくとしとなり、親に妻をめとれと見知らぬ女を宛がわれた時、実に腹が立った。


 望まぬ女と一緒に成れだなどと、人生を決めるようなことを己に対して命令をしてくるのが、親であろうとも許すことはできなかった。あまつさえ、親達は、女をめとれば落ち着くだろうなどと、己を縛りつけることを期待しているようなことを抜かしていて、一層に怒りが増した。


 そんなもの、冗談ではなかった。

 到底承諾の出来ることではなかった。


 そのまま行けば、自分の親と見知らぬ女の親と、親が二つとなる。つまりは実家と妻の家との両方に頭を下げることになり、それをいられるだろうと言うのが心底に気に食わなかった。

 だからこそ、祝言の日に家を出てしまおうと決心した。


 恐らくそれで家は散々に困るだろうが、それまで親や一族と言う生まれ持った関係性だけで自分に散々と言うことを聞かせてきた者達など、それで破滅してしまえば良い。実際、そこまではならぬだろうが、そうなっても自分としては嬉しいくらいの気持ちであったことは確かだ。


 ただ、それでも女房となるはずだった女に罪はなかった。


 そいつも自分の意思など関係なく、親にいられて俺などにあてがわれただけの可哀想な存在なのであろう。しかもそれで、夫に逃げられた女などと言われて生きて行くのは余りにも悲惨であると思えた。


 だから殺してやった。生き恥など味合わぬように、せめてもの情けで殺してやった。


 そう言えば、その時の女は斬られたというのに、何故だか嬉しそうな顔をしていた。

 何ともさっぱりとしていて、妙に綺麗な笑顔だったのを覚えている。

 当時は意にそぐわぬ人生から解放されたからだろうなどと得心とくしんしていたが、今となってみると、その心持が分からぬではなかった。




 腹を斬られて、地面に向かって仰向けに倒れ込んだ陣伍じんごは、空を眺め上げながら呆然としていた。

 陣伍じんごの視界いっぱいに広がった空は、既に分厚い雲に覆われて、夕暮れが過ぎたこともあってか、影すらほぼ見えないほどに真っ暗であった。それでも僅かに月影つきかげが透けているのか、雲の所々には折り重なる様な切れ目が現れては、無常むじょうに形を変えていき、それが何かが潜む魔窟まくつのようにすら感じられて、今の陣伍じんごには妙に愉快に感じられた。


 雑草すらもまばらにしか生えていない荒れくった丘であるせいか遮るものも殆どなくって、それが故に幾分と強く吹いてくる風が、寝転ぶ陣伍じんごの体を撫でてちりあくたごとに通り過ぎていき、随分と湿気った香りを漂わせていった。少しばかりに鼻を鳴らして、その湿り気のある空気に陣伍じんごはこれから雨の降るであろう気配を感じ取っていた。


 そうなって気が付いてみると、せみからすもいつの間にか鳴くのをやめて、ただひっそりと、世界はこれから訪れるだろう雷雨に備えているようにすら感じられた。

 それは今までに無いほど妙に晴れ渡った心もちで、何もかもが明瞭めいりょうと、そしてくっきりと感じ取ることが出来る。


 陣伍じんごは、自らの感覚が研ぎ澄まされていくのと同時に、いつも体から身を焦がすほどに感じられていた熱が次第と失われていく感覚を覚えていた。


「俺は……俺は死ぬのか?」

 ぽつりと陣伍じんごが呟いた。


 首だけを動かして、顔を持ち上げると、傍らに居るふでへと向かって視線を投げかける。彼女は杖のように刀を地面に突き立てて、肩を大きく揺らしながら息を整えているところで、陣伍じんごの問いに気が付くと、ほうっと大きく溜息を漏らして目を閉じたままに頷いた。


はらわたが飛び出て死なぬ人などりますまい。」

 疲れ切ったと言う身振りをして、呆れた口調で言ったふでの言葉はそのまま死の宣告ではあったが、それを陣伍じんご鷹揚おうように頷いて了解していた。


「そうか。死ぬのか。」

 何故だか、それが嬉しいことかのように、陣伍じんごは笑って曇天どんてんを見上げた。


 あの時の女も、こんな心持ちであったのだろうかと、陣伍じんごは心中で、そのことを考えていた。本当の心の内など分かりはしないが、それでも死に際に至って笑ってしまうのは、理解できるような気がしていた。


「ああ……死ぬというのは、存外にさっぱりとして心地よいものだな。」

 陣伍じんごがそういうと、ふでは僅かに眉を顰めて嫌そうな表情を浮かべていた。


「そうでございますか。私は死んだことがございませんので、なんとも言えやしませんがね。」

 あまりにも嫌そうな顔をして言うものだから、陣伍じんごはくくっと軽く笑おうとして腹部が斬れているために痛みで顔を引きつらせてしまう。



「そう嫌そうな顔をするな。良いぞ。あんたも死んでみると良い。」


「ええ、いつかそのうち死にますよ。」


 呆れた口調で言って、はあっとふではわざとらしく溜息を吐いた。



「なんともれんね。」


「そりゃあ、ね。れませんよ。」


 ふでは肩をすくめると、多少冷徹さをたたえた目でもって横たわる陣伍じんごを見下ろした。



「貴方様が今際いまわに至って、そうも気分が良いのは、手前様てまえさまが好き勝手生きてきて何の未練も残さなかったからでしょうね。」


「そうかもしれんな。」


 肩を揺らしながらも、笑うことのできない陣伍じんごは、ただ口角だけを上げて笑んでいるように見せた。

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