106.曇天の闘諍四

 ふでの腹部から抜けた陣伍じんごの刀の切っ先には、鮮血せんけつ幾分いくぶんかの塊となって水滴を作っていた。

 それは、しばらくもしない内に自重じじゅうで刃先を滑って切っ先から一つの大きなしずくとなってぽたりと地面へと垂れていった。

 後ろへと退いたふでは痛みに唇をんで顔をしかめさせながら、腹部を片手で抑え、忌々しそうに目を細めていた。


「いやはや……。」

 口を開くとそれだけで腹筋がつられて動いてしまい、傷口が開いてふでは刺すような痛みが走るのを感じた。

 「全く」と小さく呟いて、ふで大仰おおぎょうに溜息をついた。それは自分への侮蔑ぶべつを含んだ自嘲じちょう気味ぎみの吐息であった。


「これはまた、なんともまあ……無様なものです。」

 多少軽口めきながらも、腹を抑えてそう口にしたふでの表情は全くをもって硬いものであった。


 ふでの硬い表情とは対照的に、それを眺める陣伍じんごの顔は随分と気楽そうで、そして勝利を確信したかの如くにゆるかった。

 そうして陣伍じんご悠長ゆうちょうな雰囲気を醸し出しつつ、彼女の自嘲に答えるようにして首を振るった。


「無様なんてことはないさ。これだけの人を斬ったんだ、大したもんだろうよ。まあ、それもここで御終おしまいだけどなあ。」

 にいいっと随分と口角を大きく上げた陣伍じんごの顔を見つめて、ふでは痛みでふっふっと浅くなっていた呼吸を、無理やりに大きく吸い込んで、改めて一つ強く吐息を吐いた。


「いやはや、まったく……困ったものです。自分の腕のにぶさも……この程度で勝ったと思われるのも……。」

「強がらんほうが良い。そんなではまともに戦えんだろうし、もはやあんたの剣筋じゃ俺には届かん。」

「そこですよ。あの程度で、そう思われてるのが、なんとも困ったものです。」


 苦み走った顔でふでは言って抑えていた腹からてのひらを外すと、その腕を胸元へと運び、服のすそから懐へと手をつっこんだ。

 一瞬、陣伍じんごは男達との斬り合いで見せた小刀の投擲とうてきを見せるのかと身構えるが、視線の先でふでが取り出ししたのは一枚の四角い薄汚れた紙であった。よくよく見るに、それは懐紙かいしであるようであった。


 そんな紙きれ一枚で何をするのかと陣伍じんごが眺めていると、見つめる先でふでは自らの刀へと懐紙かいしを当てて、刃先についた血糊をすうっと拭い取った。そうして刃先の綺麗になった刀を、ふでは腰のさやへとおさめてしまう。


 その仕草を見た拍子に、陣伍じんごは僅かばかりに「諦めたか」と心の中で感じてしまっていた。ただそれでは、先ほど彼女が口にしたことと間尺まじゃくが合わぬために、不可思議に感じながら見つめ続けていると、その目の前で、ふでは近くに倒れていた男の手に握られた刀へと手を伸ばし、それを無理やりに奪い取った。


 そうして彼女は再びにその刀を陣伍じんごへと向ける。


「さて、続きと行きましょうか。」

「なんだ?まさか今までのは刀が悪かったから斬られたんだとでもいうつもりか?」

「まさかまさか、そんな。ただ、貴方様なら何をしようというのか、直ぐに分かりますよ。」


 どこか意味ありげなことを言って、ふではにたりと笑みを浮かべると、一歩陣伍じんごへと足を寄せる。

 ふでの言葉にいぶかしみがりながらも、陣伍じんごは応じて刀を構え直そうとして、そこで、はたと妙な違和感を覚えた。


 何かがおかしかった。

 その違和感は明確なものではなく、ただ漠然ばくぜんとながらに、それでも今までと何かが違うと感じずにはいられず、思わず陣伍じんごは周囲へと視線を巡らせる。


 周囲には何もない。

 人影もなければ、誰かが近づいてくる気配もない。


 鼻をくんと鳴らせるが妙な匂いがするでもなく、音に耳をそばだてようとも特別な音が聞こえているわけでもない。ただそれでも、何か異質な感覚を陣伍じんごは感じて、僅かばかりに足を後退あとずらせてしまう。周囲に異常がないのであれば、その異様さの元は目の前のふでにあるはずであり、陣伍じんごは目を凝らせていく。


なんだ、なにがおかしい――


 欠片ほどに、そう思考が奪われた瞬間、ふでが地面を駆け蹴り、一足に陣伍じんごへと襲い掛かった。


「くそっ!」

 違和感に意識をとられて、思わずも反応が遅れてしまった陣伍じんごは、それでも見破った相手の癖から、剣筋を防ごうと刀を振り上げようとする。

 と、そこで再び目にしたものに陣伍じんごは焦りで息を飲んだ。


「なんっ……!」

 ふでの腕から繰り出された剣筋は、先ほどまで見ていたはずの物とは全く異質の太刀筋で、陣伍じんごは慌てふためくと取り乱しながら必死で体をそらした。そんな陣伍じんごの体のほんの寸先すんさきを、ふでの振り抜く刀の切っ先が通り抜けて、空をさぱりと斬ってとった。


「な、なんだぁ……?」

 反らした体の姿勢を取り戻し、そのまま後退こうたいして間を開かせた陣伍じんご狼狽ろうばいしながらふでを見つめる。


 やはりそこには何か妙な違和感があった。

 一瞥に何の変哲も無いように見えて、ただ確かに何かが奇怪であり異質であった。


 先ほどの立ち筋は何も蛇のようにうねっていたと言うわけでもなければ、空間が歪んで見えたと言うわけでもなかった。刀の構えられた場所から、弧を描いて振られただけであるはずだった。ただ、それでも今までに体感したことのない太刀筋と感じられてしまった。


 それが何か判然とせずに、陣伍じんごは思わず喉が渇くのを感じて、こくりと音を立てながら、口に溜まった血ごとに唾液を喉へと流し込んだ。

 眼前では刀をかわされたふでは、前に出した右足を地面の上を滑らせて、じりっとした音を鳴らしながら、再び陣伍じんごへとにじり寄り始めていく。


右足を前に出して――


 そこで、はたと陣伍じんごは自らの感じていた違和感の正体に気が付いた。

 ふでの体の開きが、全くの真逆であった。


 普通、刀を握り、相手に向かって構えれば左足を前にして、残した右足を軸とすべきものであった、それが目の前の女は体の右半身をむしろ前にしている。そうしてよくよく見てみれば、刀の握りも全くの逆であり、左手の指が柄の上部を握り、右手の指が柄の下方へと添えられている。


 それは常人の握りとは正反対の構えであった。



「あんた、まさか左義長さぎっちょか……?」


 右手よりも左の方が力が強く器用な人間が居る。そう言うものを左義長さぎっちょと呼ぶことは、陣伍じんごも心得てはいた。ただ呼び名は知っていたが、現実に見たのは初めてであった。


 尋常であれば、左が器用であっても、刀を覚える時に右の使いに直されるものである。それは左脇に刀を差さねばならぬという規則があるのであるから、右で扱えるようになっておかねば刀を抜くのにすらもたついて後れを取るからであったが、そうでなくても飯を食うにしても、道具を扱うにしても礼節からして右手を主手として扱えるようにならねば、一生の恥であったからだ。



 だからこそ、刀を真逆に構える人間など、ほぼ居るものではなかった。


 途端と冷や汗を流し初めていた陣伍じんごの、その狼狽うろたえたような問いに、ふでは口角を上げて歪な笑みを見せる。



「おやおや、お気づきになられましたか。流石流石、お目がよろしいことです。ですが、私が左器用ひだりきようかは、さあて、どうでしょうね。」


 惚けたことを言うふでに、陣伍じんごは額から汗を流しながら口を歪ませる。


 それは陣伍じんごからすれば完全に慮外りょがいの事であった。

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