88.襲撃直前二
汗の滴る顎を拭い一つ息をついた
幾度か刀を振り切った後に、
途端、彼女を取り巻く雰囲気が幾分か変わったかのように見えた。
瞼を閉じた
想像上のその男は
閉じた眼の中ではっきりと男の幻を作り上げた
昼下がりの日射に明らいだ庭には、近くに立つ木以外には何もなかったが、
そうして相手の構えを想像上に眺めながら、
男が前へと大きく突き出した脇差は、刀を振るって向かうには大きな邪魔に感じられる。
試しにとそろりと足を延ばして、木刀を思い切りに横薙ぎに腕を振るう。
切り裂かれた肌から血が噴き出して、腹からは臓物が溢れだして、腸の一部が地面へと零れ落ちていく。
はっと、そこで
無論、先に
立ち会う相手の姿と、その一挙手一投足を完全に想像していくがために、相手に斬られたことも確かな実感として想像してしまう。それは完全に空想の域ではあったが、彼女にとって確かな実感を伴うものであり、そして、そうでなくては話にならなかった。
大きく胸を反らしながら息を吸い込んで、軽く吐き切ると、再び
先ほどと一切の変わらない男の格好、そして変わらぬ二刀の構えに、
今度は、と、思い切りに後ろ脚を跳ね伸ばすと、一気に相手の懐まで踏み込んで、上段から鋭く縦に木刀を振り下ろした。途端、男の右に構えていた打刀がするりとその太刀筋の間に滑り込み、
こっぷと喉の奥から血が溢れだし、口の中へと錆鉄が広がっていく感覚に襲われてしまう。思わず呼吸が止まりそうになるのを、これは幻覚だと思いなおして、やにわにひゅぅっと息を吸い込む。不意に唾液を一緒に息道へと吸い込んでしまい、背を丸めてけふっけふっと
それから
斬られるたびに、
武術の類、特に殺すことを前提とした古からの武術においては、想像する力と言うものが最も重要な才能の一つと言えた。殺す技能を高めていく必要があったが、練習の中で実際に真剣を使った本気の斬り合いなどは望むべくもなく、仮に木刀を使おうが、拳を使って見せようが殺す業などというものは、人に当てて試すなど軽々に出来るはずのないものであった。
仮に当てててしまえば、その場で仲間を打ち殺すこととなる。そのための殺人技であるのだから当然なのだが、それで人が死んでいては全ての鍛錬を終えるまでに死にすぎてしまう。
だからこそ、そうであるならば、武術の訓練においては、想像の中で殺し合うしか本質的な修練の術はないと言って良く、敵を想像も出来ない人間に武術の適性が無いとも言えた。
どう切り込めば相手を殺せるのか、どう踏み込めば自らが殺されるのか、最大限に想像を駆使することで、一つしかない命の中で無限に試行し、そして自らの手管を幾つにも増やしていく。そう言う試みを経て初めて、
ただ刀を振り上げて、そのまま振り下ろす等と言うことを続けていても、刀を振る筋肉は
その意味で言えば
たとい、想像の中で何度斬られようが、
想像の中で切り裂かれた喉を一つ撫でて、「ん」っと確かめるように小さく声を上げた
瞬間、
宿にある全ての部屋へと響き渡るほどに炸裂するような大きな音が響いた。僅かにみしりと木造の宿の壁が揺らぐ。そうして
その瞬間、周囲にどこか気の抜けた調子の声が響いてきた。
「ふでどのぉー?」
それは
全身の力を絞り上げて、足を踏み込ませていた
木刀を手元へと戻しながら、
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