88.襲撃直前二

 汗の滴る顎を拭い一つ息をついたふでは、再び木刀を握り直すと、そのまま軽く数度にわたって縦に振るう。軽く振るってはいたが、刀身の動くたびに空気をつんざく音が鳴り、剣先は振りかぶられた上段でぴたりと止まってから、虚空を滑る刹那に、その切っ先がふっと消えたようにすら感じられた。長着をはだけて、上半身を裸にしていたがゆえに、ふでが動くたび彼女の乳房がふるりと揺れ動いてはほとばしらせた汗が跳ねるように飛んでいく。宿に泊まっている男からしてみれば、それが多少なりとも目の眼福になるのか、部屋の中から窓に手を掛けて覗き込んでいる者もいるにはいたが、それを彼女は全く気にもしていない様子であった。


 幾度か刀を振り切った後に、ふではふうっと息を一つ切ると、木刀を構え直し足先をにじりと踏みしめて、すうっと目を閉じた。

 途端、彼女を取り巻く雰囲気が幾分か変わったかのように見えた。


 瞼を閉じたふでは、自分の眼前から僅か先に、一人の男が立っているのを思い浮かべていく。

 想像上のその男はふで自身よりも幾分にも背が高く、筋骨隆々として荒くれた髪を一本に後頭部で結いでいた。なによりもその男の特徴的だったのは、両手に大小の刀を持っていることであり、彼は左手に持つ脇差をすっとふでへと向かって突き出してくると、右手に携えた打ち刀を肩に担ぐように構えてきた。


 ふでちまたで噂に聞いた、とある二刀を構える兵法家のことを夢想して、そのような想像上の剣士を虚空の中に思い描いていた。姿形は、全くにふでの想像の産物であったが、そのかまえは立ち寄った街の講談師が得意げに語っていた物であり、幾つかの噂話を聞くに戦うに際してこうしていたのだろうと大凡に理解していた。


 閉じた眼の中ではっきりと男の幻を作り上げたふでは、改めてまぶたひらける。

 昼下がりの日射に明らいだ庭には、近くに立つ木以外には何もなかったが、ふでははっきりと二刀をもって佇む男の姿を幻視していた。

 そうして相手の構えを想像上に眺めながら、ふでは内心で「厄介なものだな」と何となく感心をもって頷いてしまう。


 男が前へと大きく突き出した脇差は、刀を振るって向かうには大きな邪魔に感じられる。


 試しにとそろりと足を延ばして、木刀を思い切りに横薙ぎに腕を振るう。ふでの幻視の中で男の脇差が弾かれて、横へと逸れるのを確かに感じた。その瞬間、男が足を踏み込ませると、右手で担いでいた刀を鋭く振り下ろして、ふでの体は袈裟切りに両断されていた。


 切り裂かれた肌から血が噴き出して、腹からは臓物が溢れだして、腸の一部が地面へと零れ落ちていく。

 はっと、そこでふでは意識を取り直し、自らの体へと視線を向けると、その体躯に傷がなく無事であることを思い出す。


 無論、先にふでが感じた一切は全て想像の中での出来事ではあったが、彼女は僅かばかり頬へと一塊の汗を垂らしてしまっていた。ふっふっ、と浅く息を吸い込み、思わずも乱れそうになる呼吸を整えていくと、最後にごくりと生唾を飲んでふでは喉を鳴らした。


 立ち会う相手の姿と、その一挙手一投足を完全に想像していくがために、相手に斬られたことも確かな実感として想像してしまう。それは完全に空想の域ではあったが、彼女にとって確かな実感を伴うものであり、そして、そうでなくては話にならなかった。


 大きく胸を反らしながら息を吸い込んで、軽く吐き切ると、再びふでは目の前に二刀を持った男の姿を幻視していく。

 先ほどと一切の変わらない男の格好、そして変わらぬ二刀の構えに、ふでは攻め手を思案していく。


 今度は、と、思い切りに後ろ脚を跳ね伸ばすと、一気に相手の懐まで踏み込んで、上段から鋭く縦に木刀を振り下ろした。途端、男の右に構えていた打刀がするりとその太刀筋の間に滑り込み、ふでの振り下ろさんとしていた木刀を宙空で受け止める。片手で握った刀など振り弾くつもりで力を籠めていたが、ふでの木刀は、万力のように込められた太い腕の力に阻まれて、そこでぴたりと動きを止めてしまう。ついで全くの無防備になった体へと、男の脇差が伸びて、ふでの細い喉元にするりと刃先が滑り込んでいく。


 こっぷと喉の奥から血が溢れだし、口の中へと錆鉄が広がっていく感覚に襲われてしまう。思わず呼吸が止まりそうになるのを、これは幻覚だと思いなおして、やにわにひゅぅっと息を吸い込む。不意に唾液を一緒に息道へと吸い込んでしまい、背を丸めてけふっけふっとふでせ返ってしまう。そうして、自分の無様な有様に苦笑いをすると、再びに木刀を構え直して幻想の中の男への攻め手を考えていく。


 それからふでは幾度も男へと斬りかかり、その度に無様に斬り捨てられた。

 斬られるたびに、ふでは痛みと口惜しさを感じながらも、それで良かった。


 武術の類、特に殺すことを前提とした古からの武術においては、想像する力と言うものが最も重要な才能の一つと言えた。殺す技能を高めていく必要があったが、練習の中で実際に真剣を使った本気の斬り合いなどは望むべくもなく、仮に木刀を使おうが、拳を使って見せようが殺す業などというものは、人に当てて試すなど軽々に出来るはずのないものであった。


 仮に当てててしまえば、その場で仲間を打ち殺すこととなる。そのための殺人技であるのだから当然なのだが、それで人が死んでいては全ての鍛錬を終えるまでに死にすぎてしまう。

 だからこそ、そうであるならば、武術の訓練においては、想像の中で殺し合うしか本質的な修練の術はないと言って良く、敵を想像も出来ない人間に武術の適性が無いとも言えた。


 どう切り込めば相手を殺せるのか、どう踏み込めば自らが殺されるのか、最大限に想像を駆使することで、一つしかない命の中で無限に試行し、そして自らの手管を幾つにも増やしていく。そう言う試みを経て初めて、偶々たまたま当たっただけ、運よく避けれただけといった偶然による勝利ではなく、鍛錬の結果として人を殺せるようになる。


 ただ刀を振り上げて、そのまま振り下ろす等と言うことを続けていても、刀を振る筋肉はこうが人を斬ることはできない。自らが振り下ろした刀が、動く相手を捉え、切っ先が肌を切り裂き、刀身が骨を立つところまでを想像できない者は武術に向いていない。


 その意味で言えばふでは全くにおいて適性な人間であったと言って良い。



 たとい、想像の中で何度斬られようが、ふでに取ってみれば何の問題もなく、その数多の試行の中で一つだけでも相手を殺す手段が見つかりさえすれば、それが実際に果たし合いをした時の結果となる。想像の中で百回死のうが、斬れた一度が現実となれば、それで良い。


 想像の中で切り裂かれた喉を一つ撫でて、「ん」っと確かめるように小さく声を上げたふでは額の汗を拭ってから木刀を構え直す。庭に響き渡る熊蝉くまぜみの声は一層にけたたましく音量を上げ、一瞬吹き抜けた風は、どこか湿り気を帯びた匂いを漂わせていた。そんな周囲から纏わりついてくる感覚も置き去りにして、ふでは目の前の幻影へと意識を集中させていく。


 瞬間、ふでが足を強く踏み込ませる。


 宿にある全ての部屋へと響き渡るほどに炸裂するような大きな音が響いた。僅かにみしりと木造の宿の壁が揺らぐ。そうしてふでの手に持った木刀は、真っすぐに伸びて目に見えぬほどの早さで切っ先を空の中に突き通していく。


 その瞬間、周囲にどこか気の抜けた調子の声が響いてきた。



「ふでどのぉー?」


 それは桔梗ききょうの声であった。


 全身の力を絞り上げて、足を踏み込ませていたふでは、その間の抜けた声にはすぐに反応して、途端にピタリと腕の動きを止めた。


 木刀を手元へと戻しながら、ふでは視線を巡らせて声の出元を探してみると、丁度、ふで達が宿泊している二階の部屋の窓から桔梗ききょうが顔を出して、きょろきょろと見回しているのが目に映った。

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