69.結城と石動三

「まあ、一応に私も寝てはいるのですよ。桔梗ききょうさんより、時間が短いだけです。」

 窓から見える名古屋の街を一望しながら、ふでは頭を軽く掻いていた。


 名古屋の街は、昨日の夜中に見た景色とは全くおもむきを変え、早朝の穏やかな日差しを受けた板張りの屋根屋根が一面に古く落ち着いた茶色の連なる景色を作り出していた。ある種に共通化された屋根群は独特に整ったような雰囲気がありながらも、どれも美意識などによって整えられたわけではない猥雑わいざつさが広がっているようであった。それがふでには、どこか美しく、そして愉快に見える。


 床に座っている桔梗ききょうからは何を見ているのか気になって、背筋を伸ばして窓の枠内へと視線を向けながらも、同時にふでに向かって視線を投げかける。


「本当ですかあ?本当に多少は寝てるんです?」

 桔梗ききょうが尋ねると、ふでは至極真面目に頷き返す。


「本当にございますよ。」

「へえ。一度、ふで殿の寝ているところを見てみたいものですね。」

 それは単純な興味であった。


 桔梗ききょうからしてみれば、いつも飄々ひょうひょうとして冗談めかしたような表情を見せているふでが、寝ている時にはどんな顔になるのか。穏やかなのか、無垢むくなのか、それとも寝ているときでさえ、今見えているような多少に小憎たらしい表情をしているのか。今想像する上では、一番最後の想像がしっくりときてしまうと思えてしまい、彼女であれば寝言にですら、からかわれてしまいそうな気がしてくる。


「そんなに私の寝顔など見たいものでしょうか?」

 ふでの言葉に、桔梗ききょうは素直に頷いた。


「こうも隠されると、見たくなるというのが人情と言うものじゃないですか?」

「隠してるわけではありませんがねえ。そうですね、桔梗ききょうさんが、私としとねを共にしてくださるのでしたら、自然とお見せできると思いますよ。いかがでえすか?」

 窓のさんに強く背中を凭れかけさせながら、ぎいと音を鳴らして背を伸ばしたふでは、空を見上げながら、緩く甘い笑みを浮かばせる。その物言いに、桔梗ききょう桔梗ききょうで眉根をしかめてしまう。出会ってばかりの風呂場ですらあれだけのことをされたのだから、一つの布団で寝るとなってにしてしまえば、何をされるか分かったものではない。


 ただ、それよりも混ぜっ返すような彼女の物言いの方に、桔梗ききょうはやはりと言う心持になって溜息をもらしてしまう。


「また、そう言うことを仰って……。」

 ふとそこで、桔梗ききょうは寝室へと振り返り、自分の寝ていた布団へと目を向ける。真っ白な布団が自分が寝ていた寝返りのせいなのだろう、随分としわをのたうちまくっている。その傍らには、対照的に綺麗なままの一組の布団が並べられている。ふでが居室の方で寝たというのならば、そのままの光景だろうが、仮に同じ布団にくるまっていたのならと、桔梗ききょうは一瞬に想像してしまう。


 ましてや、桔梗ききょうに取ってみれば寝る前後の記憶が全くなかった。何をされていたとしても、気の付くすべがなかった。


「あの、ふで殿?」

「はい。どうかいたしました?」

「私は昨夜の記憶があまりないのですが……、何か変な事をされたりはしておりませぬよね?例えば一緒の布団で寝たりとか……。」


 多少に聞きにくいことが故に、桔梗ききょうが畳の上へと指先を伸ばして、その藺草いぐさの筋目を弄りながらもじもじと尋ねてみると、ふでは空を見上げていた顔を下ろして一瞬不思議そうな表情を見せた。それは目だけで「こいつは何を言っているのか」とでも言いたげな、信じられないようなものを見る目であった。そうして、一瞬間があった後、ふでは途端にぷっと噴き出して、くすくすと笑みを浮かべると、余りにも面白いことを聞いたかのように、次第と胸を押させて大仰に肩を揺らして笑い声を上げはじめていく。


「ふふっふ……桔梗ききょうさん。貴女様ねえ……。ふふ。」

 余りに可笑おかしそうに笑われてしまうが、その笑いの意味が分からずに、桔梗ききょういぶかしんでふでを睨み付けてしまう。


「えっと……なんなんですか?そんな変な事を言いましたか?」

「いや、ねえ……だってそれは。」

 一層に可笑しそうに肩を揺らすと、それでふでは無理やりに息を一つ切って、どこかあどけのなくを首をかしげている桔梗ききょうへと視線を向けなおした。


桔梗ききょうさん。貴女様は酷いお方ですよ。こんな誠実な私に向かって。ねえ?」

 左手の指先を胸元へと当てて、ふではむしろ自らを誇るかのように背を反らせて胸を張っていた。


 そうして、もう片方の指先でふでは自分の唇をすっと撫でると、どこか覗き込むような視線で、桔梗ききょうの目を見つめる。

 その視線が余りにも意味ありげなために、桔梗ききょうはきょとんとしてしまいながらも、ふでの言うことの意味が分からずに首を傾げてしまう。


「それって、どう言う意味ですか……?」

 桔梗ききょうが尋ねると、ふでは唇に指をあてたままに、鼻先でふふっと小さな吐息を楽し気に漏らす。


「さあてね。どう言うことでしょうか。少しは悩んでくださいな。私は昨晩、大いに貴女様に悩まされました故に。」

「えっと……?」


 何を悩ませたというのか、記憶の無い桔梗ききょうは余計に困惑して眉尻を下げてしまう。


「私が何したっていうんです?」


「なんにせよ。」

 と、一言区切って前置きしてふでは、誤魔化すためなのか、面と向かって言いづらいのか、窓の外へと視線を向ける。


「とにもかくにも、私は桔梗ききょうさんに何もしておりませんよ。誓っても良うございます。」

「誓うって……ふで殿が一体何にですか?」


「さしあたって神にでも誓いましょうかねえ。」

ふで殿が何がしかの神様を信仰しているなどと、つゆほどとも信じられませんが。」


「何を言います。これでも信心深い方なのですよ。」

 窓のさんへと腰かけていたふでは、素知らぬ顔で言いながら眼下へと視線を向ける。庭に色づいていた木槿むくげの白い花を眺めながら、ふでは僅かに肺腑にため込んでいた吸気を一気に溢れださせた。


ふで殿の場合、神様に刀押し付けて無理やりにでも『そうだったこと』にする雰囲気ありますけれどね。」

「それはまた、随分と酷いものの言われように思えますが。」


 多少肩を揺らし澄ました表情で言いながら、ふでは眺めていた木槿むくげの花へ一匹の黄色い蝶々が飛んでくるのを見つけた。ふわふわと優雅に体を羽ばたかせながら、風に揺れて左右に惑いながらも、白く細長い花弁をした木槿へと飛んでいく。不意に木槿むくげの傍らを青い影が横切った。黄色い蝶が、ふっと姿を消したかと思うと、それは青いつばめくちばしの中に挟み込まれてしまっていた。藻掻もがくことも出来ずに、蝶々は次の瞬間、器用にくちばしを開いたつばめの口の中に一息に飲み込まれてしまっていた。



「全く……。」

 一連の出来事を眺めながら、ふでは大仰に溜息を漏らした。


 どうにも、ふらふらと不用心ではかない蝶々が、良いように肉食の鳥に食べられた様が、ふでに取ってみれば誰かの暗示のようにも見えてしまう。

 部屋の中で座っていた桔梗ききょうは、ふでが何を見ているかを知ることが出来ず、突然に嘆息たんそくを漏らした彼女の態度に、眉をしかめて、その顔を覗き込ませる。



「どうかしたんですか?」

「どうにも。ただね、桔梗ききょうさん。貴女様は、これからちゃんと気を張ってなければなりませんよ。色々なところが無防備でありますから。」

「はぁ……。」


 どうにもふでの言う言葉の真剣さが伝わらずに、桔梗ききょうは気の無い返事をしていた。むしろ、問い始めたのは自分であるにもかかわらず、むしろ説かれるようなことになってしまい、桔梗ききょうは戸惑いを隠せずに触れていた畳の筋を指先ではじきながら、首を傾げてしまう。ただ、記憶がないために自分が何をしでかしてしまったのかと思うと、深く尋ねるのに躊躇ためらわれて何も聴けずに口を閉じてしまう。


 そうこうしていると、窓から朝特有の妙にもやがかったような、冷たい空気が、部屋の中へとすうっと流れ込んできて、二人の体を撫ぜていった。


 夏だというのに、早朝の空気は涼しくて、桔梗ききょうは僅かにだけ身震いをしてしまうと、一方で、ふではその寒気に気分を取り換えたのか、はたと顔を上げて、桔梗ききょうの方へと視線を向けなおす。



「さあて、それでは、そろそろ出かけませんかね。いい加減に人を探さねばなりませんからね。」


 言われて、桔梗ききょうは「あっ」と声を上げた。


「そう言えば、そうですよ。唐傘からかさ陣伍じんごを探さなくっちゃいけないじゃないですか。こんな悠長ゆうちょうなことをしてる暇ではありませんよ。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る