67.闖入者五 - 結城と石動一

「飯の後には風呂にでも入ろうかと思うておりましたが、こんな無防備な人を置いておくわけにもいきませぬでしょうね……。」

 先ほどの様に男たちが間違って入ってくるかもしれぬし、不逞の輩が押し入ってくるやもしれなかった。仮にそうなったならば、この状態の桔梗ききょうは逃げ出すことも出来ずに、為されるがままになってしまうだろうと、容易に想像がついてしまう。仮にでもそんなことは滅多に起こることではないだろうが、それでも今のふでにとっては、想像するだに不安になって落ち着かなくなってしまう。


 膝と首元とに手を伸ばすと、その裏側へと掌を添えて、ふで桔梗ききょうの体をよっと抱き上げた。

 柔らかい肢体の感触が指先へと伝わってきて、一層にふでは悩ましく、唇をゆがませてしまう。


「このまま本当に押し倒してしまいたいのですがねえ。一応には約束をいたしましたし。この方には嫌われたくもありませぬしね。しかし、何とも軽いお体をしておりますよね。このお方は。」

 黒松の上から落ちてきた時にもかかえたことがあったが、それにしても軽すぎる体であると思ってしまう。体躯が小さいのは、さておいても、それなりに肉付きがあるにもかかわらず、随分と軽く感じられる。体の中身が貧相なのだろうか、そんなことを思いながら、ふで桔梗ききょうの体を抱え上げて、隣にある寝室へと運んでいく。

 部屋に敷かれた真新しい布団の、その掛布団を足先で払いのけると、ふんわりとした敷布団の上へと桔梗ききょうを横たわらせた。


「んぅ……。」

 ふでの腕から離れると、布団の軟らかさになのか桔梗ききょうは心地良さげな吐息を漏らして、もぞりと寝返りを打った。


「さあ、お休みくださいな。数日駆けて、お疲れしましたでしょうし。今日ぐらいはゆっくりと御眠りください。」

 言いながらふでは、桔梗ききょうの無防備な体の上へと布団をかけた。


 すうすうと桔梗ききょうは穏やかな寝息を立て始めていく。

 しばらくしても目を覚ますことなく、ちゃんと寝ている桔梗ききょうの様子を見届けるとふでは、腰を上げて元居た部屋へと戻る。


 再び窓の桟へと腰を下ろすと、小さく首を振って、溜息をつきながら夜空を見上げた。

 丁度、薄くにじんだ雲が僅かに揺蕩たゆたって、夜空に浮かぶ月を隠そうとしていたところであった。



* * *


十八


 うつらうつらとぼんやりとした意識の中で、その半ば虚ろとした感覚に桔梗ききょうは自分が眠っていることを自覚し始めていた。未だ明晰めいせきと至らない感覚に意識を揺蕩たゆたえさせながら、桔梗ききょうは体を包み込んでくる柔らかい布団の心地よさに身を包めて、あふっと小さく吐息を漏らす。目端がむずがゆく、まぶたに何度も力を籠めて目尻に皺を作りながら、身を丸める。くしゅりと布団がれて、布地に長く大きな皺が出来た。


 昨日まで歩き詰めだったせいか全身を気だるさが襲い、もう幾許か目を閉じていたいという怠惰な感情が溢れてくるが、まぶたの向こうから差し込んでくる朝日に、桔梗ききょうは眩しさを感じて、体が習慣的に目を覚まそうとしているのか、深い眠りの中に沈み込んでいた意識が浮かび上がっていく。


「んぅ……。」

 赤子がむずがるような声が小さく溢れ出た。


 そんな喉から出た自分の声に僅かばかり驚いて、桔梗ききょうはぱちりと一度目を開いた。そうして、頭の中で靄をかけてくる眠たさに、ボンヤリとしてしまって、再び目を閉じると、すうすうと二度三度息を吸って、それから虚ろに瞬きを繰り返す。呆然とした意識のまま、ようやくに桔梗ききょうは薄っすらと目を開くと、一つ大きく息を吸い込んだ。真新しいたたみ藺草いぐさの香りとともに、早朝そうちょう特有の澄んで冷たい空気が肺腑の中へと入り込んでくる。そうして桔梗ききょうはしばらく布団に横たわったまま、うとうととほうけて体の姿勢を固まらせて動こうとしなかった。白く濁っていた視界は、次第とはっきりし始めて、桔梗ききょうは自分が部屋の壁を見つめていることに気が付いた。じいっと見つめているうち、壁の板に浮かぶ木目の模様が波立っているのが、妙に気になって、その線を追って壁から天井へと向かって視線を動かしていく。そこで桔梗ききょうは自分が幾らか目を覚ましているのを感じた。


 ふらふらと頭を揺らしながら桔梗ききょうは体を起こすと、寝ていて硬くなった体をほぐすために、腕を天井へと向かって思い切り伸ばし肩の筋を軋ませる。微かな痛みとともに、凝りがほぐれていく気持ち良さを感じて、はぁっと肺腑から大きく吐息を漏らした。いまだに薄ぼんやりと白く濁って見える視界を左右へと巡らせて、何度も瞬きをさせながら周囲の様子を確認していく。


 寝室部屋の中には、布団以外には明かりをつける行燈あんどんしか置いてなく、それ以外には壁に備えられた障子戸の窓が見えるぐらいであった。壁を切り取った窓からは、早朝の薄明かりが障子戸の紙によって散乱し、部屋の中をくまなくあからめていて、周囲に溢れる光の中で桔梗ききょうは次第と意識が覚めていくのを感じた。


「ふぁむ……。」

 大きく開いた口を細長い掌で抑えながら、桔梗ききょうは一つ欠伸をすると、目端に涙を滲ませて、くるりと首を回す。それを区切りとするように、桔梗ききょうは自分の置かれている状況を思い出していく。


 どうして自分がこんな綺麗な布団の上で寝ているのか。


 そのこと自体は桔梗ききょうにも何となく理解できてはいた。昨日、ふでとともに、名古屋の宿に泊まったことまでは記憶にあって、その部屋の一つが、自分の今いる寝室であることは目覚めた時から分かっていた。ただ、この部屋へと足を踏み入れて布団の中に入った覚えがなくて、桔梗ききょうは首を傾げてしまう。ご飯を食べていたことは何となく記憶にあるが、それ以降のことがぼんやりとして思い出せない。


 ただ、少なくともふでが一緒に居たはずで、彼女はどうしているのだろうかと部屋の中へと視線を巡らして、その姿を探していく。部屋には自分が寝ている布団とは別に、もう一組の布団が敷かれているのは見えたが、使われた様子がなくって、四方の布地の隅まで綺麗に整えられたままだった。仮に布団を使って寝ていたとして、ふでがそんな綺麗に敷きなおすとは思えずに、桔梗ききょうは彼女がここで寝ていないのだろうと思えた。


 もう一つの部屋の方に居るのだろうか、それとも外に出てしまっているのだろうか。


 前者であれば探す手間がなくて嬉しかったが、何となく彼女なら外に出てしまっていても不思議ではない気がしていた。名古屋は少なくとも街であり、遊ぶ店もあれば、食事をする店もある。ましてや、ごろつきに喧嘩を売るにも困らない。


 ふでが誰彼かに構わず喧嘩を売って斬り合うのを想像するや、桔梗ききょうは不安を感じて溜息をついてしまう。


 布団をめくり上げて、桔梗ききょうは腰を上げた。


 僅かに着衣が乱れていることに気が付いて、帯を整えながら、裾の布を引っ張って、身前の重ねを整えていく。


 結局、自分は昨夜着付けた黄色地の着物を身につけたままに眠ってしまっていたようで、あちらこちらが皺になってしまっていること見つけて、折角買った服が台無しになってしまっていることに、起きたばかりだというのに、どこか気持ちが暗澹あんさんたるものになってしまう。衣紋掛けにでもかけて置けば、皺は取れるだろうかと思いながら、何となく袖を引っ張って、皺を伸ばそうとしてみるが、手を離すと直ぐに皺に戻ってしまって、はあっと桔梗ききょうは顔を俯かせる。


 とはいえ、もう起きたことにどうこうも仕方のなしと、頭を一つ掻いて、桔梗ききょうはもう一つの部屋の扉へと向かって歩き出した。

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