66.闖入者四

「言いたいことがあるならば、ご自由にどうぞ。お伺いいたしましょう」

 そう言ってみると、桔梗ききょうはふっと口元を緩めて、不意にすっとふでの方へと体を近づけてくる。


 短い桔梗ききょうの髪がふわりと揺れて、ふでの頬へと毛先を触れさせる。

 どこか酒精を含んだ甘い香りが鼻孔へと漂ってくる。

 余りにも近くへと彼女の顔が寄って来たことに、ふでは驚いて思わず背筋を僅かに逸らしてしまう。


「急に何を……。」

 戸惑って不意に開いたふでの口へと、桔梗ききょうの顔がさらに一層と近づいて、すっと二人の唇が重なった。ふにりと柔く弾力のある唇が、押し合って形を変える。窮屈そうな二人の狭間から逃れるように、唇は左右へとその肉を弾けさせた。


 それは酷く緩く柔い感触だった。


 一体どういうことなのか。

 気持ち良さを感じながらもふでは困惑して、目を瞬かせて、体を強張らせてしまう。


 ここ数日の中で、男たちと斬り合った、どんな瞬間よりもふでは驚いてしまっていた。

 そんなふでの態度も、意にも介さないように桔梗ききょうはより一層と唇を押し付け、僅かに開いた口の狭間から互いの粘膜を擦りつけあった。

 二人の口の中の唾液が絡み合って、唇の狭間で糸を引いた。


「ふぁむ……。」

 口の中に甘く梨のような仄かな香りが広がって、それが喉から鼻の奥まで漂っていき、鼻孔をくすぐっていく。その果実めいた粘っこい芳香ほうこうに、ふでは口内に僅かばかり唾液が溢れだしてくるのを感じていた。それが一層に、二人の触れあった肌が滑らかに擦れあう。


 一際に柔い下唇の端を桔梗ききょうついばんで、ちゅっと口の中へと吸い込ませると、ふるりと唇の肉は引き延ばされ、ふでの桜色をした粘膜を露わにしてしまう。そうして、幾分か口の中で、唇をんでいく。柔い感触を何度も口の端で挟み込み、その感触に満足したのか、桔梗ききょうは口を僅かに広げて、吸い込んでいた唇から口を離す。


 ふっと大きな吐息を漏らして、桔梗ききょうは緩くとろけたようにまぶたを細く、そして目尻を緩く垂れさせた。


 それは余りにもあどけなく、そして同時に酷く淫靡いんびな表情で、筆は息を呑み、そして喉を鳴らしてしまう。

 先ほどまで二人の肌が重なり合っていた、唇の端の濡れた部分へと指先を当てながら、桔梗ききょうはふふっと口元を緩ませて微笑んだ。


「前にしていただいた……確か『口吸い』ですか。あれは心地良かったです……。ほんに、良うございました。」


 小さな声で呟きながら、桔梗ききょうは体を揺らしたかと思うと、そのままふでの胸へと体躯を寄りかからせて、子供のような無垢な笑顔を見せた。ふでの胸の上で、何度も肩を揺らして、可笑しそうに笑うと、それで桔梗ききょうは大きく吐息を漏らして、ゆるりと目を閉じていく。


 あまりに突然のことに、ふでが僅かに呆然としてしまっていると、ふっと一瞬で気が抜けたように寄りかかってくる桔梗ききょうの体から力が抜けて、胸の上をずり落ちていき、そうして床の上へとしな垂れていった。 

 はたと気が付いてみれば、桔梗ききょうは床の上ですうすうと穏やかな吐息を漏らして横たわっている。


桔梗ききょうさん……?」

 ふでが尋ねた時には、すでに桔梗ききょうは眠り始めていた。


 頬から耳の端までも顔を赤くしながらも、目を瞑って心地良さそうに寝息を立てている。


「んぅ……。」

 軽く唸って身を捩りながら、くっと体を丸めると、桔梗ききょうは畳の上で寝返りを打つ。


 それは余りにも無防備で、まるで赤子のような寝姿勢であった。


 いきなり口を吸って来たかと思うと、そのまますぐに寝入ってしまった彼女の態度に、ふでは大仰に肩を下ろして溜息をついてしまう。


「まったく……、どういうつもりですか……。」

 やれやれと独り言ちたふでは、座らせていた足を崩して畳の上に膝を立てると、その上に頬肘をついて、一つ首を振るった。全くをもって心をかき乱されてしまい、非難の一つでも口にしたい所ではあったが、それをした当の本人は目の前で、くうくうと穏やかに寝息を立てている。


 ゆる桔梗ききょうの寝顔を眺めながら、ふでは目を細める。

 頬杖をついているのとは別の方の腕を伸ばして、ふで桔梗ききょうの前髪へと触れる。


 指先を当てるだけでくねりとしな垂れて、まとわりついてくるような柔くさらりとした髪であった。

 くすぐったくなるような感触を楽しみながらふでは、額の肌にうっすらと浮かんだ汗にへばり付いた髪を指先でかき上げて、彼女の頭をさらりと撫でる。


 指の動かした勢いで、ふわりと髪先が舞い立つと、空気抵抗に揺れながら髪は舞うようにして彼女の肌の上へと降りていく。

 絹糸を撫でるような、滑らかでさらりとした感触であった。


 無垢な寝顔を見せて目を瞑る桔梗ききょうを見つめて、ふでは唇を緩く口内へと吸い付けて、歯の先で噛みつける。


「こんな無防備な姿を見せて、押し倒すななどと、良く言えるものですよ。ほんに人を誘惑する割には、自覚に乏しいお方ですねえ……。」

 ふではふっと一つ呼気を短く切って、肺腑はいふの奥から思い切りに息を吐き出した。


「全く。恨みますよ……。こんなもやもやさせるだけさして、一人で寝るなどと……。」

 頬杖をつきながら、ふでは窓の外へと視線を向ける。


 夜空には先ほどまでと変わらない星屑が一面に広がって揺らぐように瞬きながら、その一角には仄かに紫色に染まる天の川を横切らせていたが、ただ今見つめていると、どこか一層に明るく、余計に輝いて見える。余りにもきらついて、星程度の明かりが眩しいと感じてしまうほどであった。


 恐らくそれは、自分自身が興奮していて、感覚が鋭敏になってしまっているせいだろうと、ふでは気持ちを落ち着けようと何度も首を振るう。


 ただ、それでも気持ちは落ち着かずに、心の奥底は逆立った毛が風に撫でられるかのごとくに揺らいで、騒がしく鼓動を跳ねさせていた。



「駄目ですねえ……。全く持って駄目です……。こんなことでは。」


 無理やりに目を閉じるとふでは、俯いてくっと口の中に溢れていた唾液を飲み込む。


 そして、目を開くと、再び桔梗ききょうへと視線を向ける。


 四肢を丸めて気持ちよさそうに眠る桔梗ききょうの姿に、ふでは「さて」と、手を伸ばした。


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