65.闖入者三

 やはりもう随分と酔いが回っているのか、桔梗ききょうぼうっとした表情を浮かべて間延びする声を上げた。そのまま、のっそりとした動きで小男の体の上から立ち上がろうとして、桔梗は平衡を失い雪崩落ちるように床へと倒れ込んでいく。それで立ち上がる気もなくしたのか畳の上へと寝そべりながら、何が愉しいのか桔梗ききょうは真っ赤な顔を、ふにゃふにゃとだらしのない緩い顔を見せて、小さく「ふふふ」と笑った。

 その姿は安全に酔っ払いのものであった。


 なんとも警戒心もなく間の抜けた、そして随分と稚気のある彼女の表情に、思わずもふでは可愛らしく感じてしまって、そうして無垢な様子にすら情動を感じてしまう自分の節操のなさに溜息を漏らしてしまう。出来れば、そのまま掴み上げて胸の内にでも抱えてしまいたいぐらいであったが、まずは男どもが視界に映るのを排除しなければ気分が悪いと筆は、そちらへと視線を向ける。

 床に投げ出されて小男の腕へと触れると、その肩の付け根へと視線を向けながら、僅かに動かして見せる。彼の腕が関節の根元から動くのを確認して、ふでは一つ頷く。


「まあ、折れてはいませんね。外れただけですか。」

 そう言うや、失神している小男の体を引き起こし、上半身を畳の上へと座りこませると、腕を掴んでにじりと指を食いこませるほどに力を籠めた。

 みしりと男の腕の骨が軋む。

 瞬くほどの間だけ息を止めると、ふでは小男の腕を強く引っ張り上げた。強張って骨をあらぬ方向へと縛り上げていた筋肉を無理やりに引き延ばし、膝を使ってふでは、元の関節の位置へと腕の骨を押し込んでいく。


ゴキリ――

 深く鈍い音が響いて、小男の骨が関節へとはまった。

 筋肉を無理やりに引き延ばされ、骨と骨とを強引にぶつけられた痛みのせいからか、泡を吹いて失神していた男は、意識の無いままに二三度体を強く痙攣させる。意識が戻ったら恐らくは随分と痛むだろうが、それでも関節が外れたままよりはマシだろうと、ふでは小男の腕を掴んでいた掌をぱんぱんと打ち払う。


「さて……と。」

 ふでは倒れ込んでいる小男を脇に掴んで抱え上げると、近くで同じように意識を失っている太った男の体を肩へと担ぎ上げる。男二人分の体重を持ち上げながらも、ふでは軽々とした足取りで部屋の入口へと向かって行く。足先で入り口の襖を開けると、廊下へと足を踏み込んで、その壁へと向かって男二人の体を放り投げた。

 どしんっと宿の建物ごと揺れるかのように、大きな音が響いて、板張りの廊下の上を二人の男の体が転がっていく。


 床の上に倒れ込んで、「うぅっ」と呻く二人を、筆は足で更に少し転がして、なるべく部屋から遠ざけていった。


「まあ、明日の朝までは目を覚まさないでしょうけれど。」

 このまま放置しておいて何かあったとすれば寝ざめは悪いが、今いる宿はそれなりに名の通った宿ではあるから、どうせ従業員の誰かしらが見つけて面倒を見るだろう。これが安宿であれば、身に着けている物は全て剥がされ、素寒貧で風邪をひきながら目覚めればまだ増しと言うような目に遭うはずだった。

 ふうっと溜息をついて倒れている男達から視線を外すと、彼らに触れていたところを、まるで汚物が付いたようにふではパンパンと手で払いながら、部屋の方へと足を戻らせる。


 部屋へと入り襖をきっちりと閉じて視線を中へと向けてみると、窓辺の畳の上で寝転がっていたはずの桔梗ききょうが、いつの間にか上半身を起こしていて、どうにも視線の定まらないようなぼうっとした様子で体をふらふらと左右に揺らしていた。そうしてふわりと右に体を傾けると、ぺたりと右手の手のひらを畳の上に押し付けては何とか体を支え、そうして今度は左へと体を傾けるや、もう片方の腕で倒れそうになる体を支える。まるで弥次郎兵衛やじろべえのように、ゆらゆらと体を揺らがしていた。


「ひっく……。」

 不意に桔梗ききょうは小さなしゃっくりをして背を揺らす。

 どうにも頬を真っ赤に赤らめて、目を半開きに虚ろな表情を見せているあたり、酔いは全く醒めてはいないようだった。


「まったく。酒は飲めるだのと言っておいて、こんなありさまですか。」

 頭を掻きながら、桔梗ききょうの元へと近寄ると、ふでは彼女の傍らへと腰を下ろす。左右に体を揺らしている桔梗ききょうの目の前に掌をかざして上下に振って見せる。清明せいめいとした意識があるのかを確認するつもりだったが、まるで指先の動きが面白いかの様に、桔梗ききょうはくすりと笑みを浮かべて、ふわふわとした緩い動きのままにふでへと向かって顔を上げた。


「どうちたんですか?ふで殿。そんな掌をふらふらさせて。」

「ふらふらしているのは貴女様ですよ。そんな調子で大丈夫ですか、と尋ねたいぐらいなのですがね。桔梗ききょうさん。」

「ええっとぉ……何がです?」


「酔いですよ。貴女様、手酷てひどく酔っぱらっていらっしゃるでしょう?」

 桔梗ききょうの顔先で上下させていた手の動きを止めると、ふではそのまま掌を彼女の頬へと触れさせる。真っ赤だった顔は案の定に熱くなっていて、触れただけでも蕩けそうなほど肌が柔らかくなっている。

 頬へと触れたふでの掌の感触に気持ちよさそうに頬を擦った桔梗ききょうは、無垢な笑みを浮かべて幼けなく頷いた。



「そうですね……。はい。酔っていますよ。……多分。きっと。酔っているんだと思います。」

 くすくすと、そしてすうっと目を細めて面白そうに桔梗ききょうは微笑んだ。


「でも、大丈夫ですよ……。意識はしっかりしておりますから。」


「大丈夫そうに見えぬから、尋ねておるのですがねえ。」


 他人からどう見えているのか自覚が全くないのだろう、桔梗ききょうは不思議そうな表情を浮かべて首を傾げる。ただ、それも一瞬のことで、すぐに注意が別のものに向かったのか、視線をふでから外して近くの床へと顔を向ける。ふと桔梗ききょうは転がっている御猪口を見つけると、それを手に取った。僅かに底へと残った滴を見て取ると、口元に運んでくっと猪口を傾ける。透明な液体がするりと猪口の壁面を流れて、桔梗ききょうの口の中へと滑り込んでいく。


 仄かな紅色をした唇の狭間から、舌先を伝って、喉の奥へと滴が流れ落ちていくと、桔梗ききょうは「かふっ」と熱っぽそうな吐息を漏らした。



「ひっく……。」


 喉元をコクリと鳴らして、再び桔梗ききょうはしゃっくりで体を跳ねさせる。

 ふふっと、自分のしゃっくりを面白がって、桔梗ききょうは軽く笑みを浮かべると、そのまま猪口を見つめながら口を開く。


 くねりと身を捩らせて笑む姿は、幼さを残す顔立ちながらにも、妙な色艶いろつやが感じられた。



「そういえばふで殿……。ちょっと言いたかったことがあるのですが、良いですか?」


「はい?何でしょうか。」


 酔った勢いで心の内へと溜めていたものでも言い立てられるのだろうかと、思わずふでは肩を竦めてしまう。今までなんのかんのと彼女を揶揄い続けてきたものだから、何を非難されても仕方はなく、黙って聞いてみるかと覚悟を決めた。

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