60.酔いて三

 銚子ちょうしさかずきを手に携えて、ふらふらと気の向くままにふでは窓辺へと近づくと、そこのさんへと腰を下ろし、そこから体を伸ばして外に広がる夜空を眺めあげる。


 月が煌々と照っているがために、さほど細かい星屑こそ見えなかったが、それでも一面にぱっと広がる星影に、ふでは口角を緩める。

 そうして思いついたように彼女は口を開いた。


「私はねえ。桔梗ききょうさん。私は、かねと言うものにいささか飽いているのですよ。」

 ぽつりとふでは呟くように言った。


 言わんとする意味が分からずに桔梗ききょうはきょとんとして、その言葉を尋ね返す。


「金に……飽きる……ですか?」

「ええ。」

 緩い口調で頷くと、ふでは星を見上げて、つとつとと語り始めていく。


「金と言うのはですね。不思議なものですよ。」

「不思議……?」


「ええ。最初は生きるためにそれを欲していたはずなのですがね、ある一線を越えてしまいますと、その金と言うものが何故だか点数のようにしか思えなくなってくるのです。例えば囲碁で何目取ったか、将棋で駒を幾つ取ったか。そんなようなものです。」


「金をそんな遊び道具などと……。」


「そう感じていくものなのですよ。最初のうちは金を得るのも面白いのでしょう、点数と同じで取れるだけとってしまおうという心持になります。ですが、それを続けていくと手元に金だけが余るようになるのです。そうなってしまえばお終いなのですよ。桔梗ききょうさん。なにがお終いか分かりますか?」


「いえ、想像もつきません……。」


「金が余るようになりますとね、金さえ積めばどうとでもなる勘違いした輩が、更に金を積んできて何でも言うことを聞かせようとして来るのですよ。醜悪なものです。そんなものを見ていると、最後には飽いて飽いて、金と言うものがどうにも鬱陶て嫌になってくるものでございますよ。」


 語るふでの言葉に、それでも桔梗ききょうは首を傾げてしまう。

 彼女にとって金と言うものは明日生きるに大切なものであり、遊戯の点数の様に言われるのは、全くに想像がつかなかった。


「何と言いますか……仏の教えや禅の言葉みたいに聞こえきますね。」

 桔梗ききょうがそう言ってみると、ふではめをぱりくりとさせた後、不意にふふっと噴き出して肩を揺らして大仰に笑い始める。


「仏や禅などと、そんな御大層なものではございませんよ。なに。簡単なことでございます。金は懐に収まる程度あれば充分。足りなくなってしまえば、他人からお足を頂けば良い……余分はいらない。その程度の話ですよ。」


 そう言って、ふでは懐の中から袋を一つ取り出して見せる。

 それは道中に襲って来た男達から奪った金であった。

 指先で軽く揺らして見せるとちゃりちゃりと中で銭や銀貨の擦れる音がして、ふではにんまりと笑みを浮かべて見せる。


 ふでの言うことに多少なりとも感心していた桔梗ききょうは、彼女が道中で金を奪い取っていたことを思い出し、呆れて返ってしまって溜息をついた。


「そう言えば前の宿の代金も、斬った男の懐から出してましたね……。」

「ここの代金も結局はそう言う事ですよ。ただ過剰なのは入用にないと言うことです。」


 ふふっと微笑みながらふでは銭の入った袋を懐の中へと仕舞いなおす。そうして手に持っていた杯へと、酒を注ぎこんでいく。


「わざわざ金を奪いに誰かを襲ったりするわけではありませんがねえ。しかし桔梗ききょうさん。そんな金なんかの俗ばったお話しは止めになさいませんか?折角に美味しい酒を飲んでいるのですから、綺麗な景色でも見てないと損と言うものでございますよ。」


 言いながら杯を唇へと傾けると、ゆっくりと酒を口内に注ぎ込みながら、ふでは顔を上げて窓の外を眺めていく。目の前に広がる夜景を楽しみながら彼女は幾分か顔を綻ばせた。


「ほら、桔梗ききょうさん。貴女あなた様も見てみませんか?見頃の星空が広がっておりますよ。」


 くいくいっとふでは手先をこまねいて、桔梗ききょうに向かってこちらへ来ないかと誘ってみせる。そこには、わざわざ連れ合いが居るのにも拘らず、ただ風景だけを見ながら酒を飲むのも少々と人寂しい心持があった。


 言ってみると、軽く酔ってるのか座ったままにふわふわと体を揺らしていた桔梗ききょうは、その言葉に少しだけ興味を持ってふでの方へと顔を覗き込ませる。


「今だとどんな頃合いなのですか?」

「ふむ?頃合いとは?」

「どんな星が見えるかとか。」

「なるほど。そうですねえ……今日は丁度、てんの川が綺麗に見える頃合いですよ。」

あまの川ですか。」


 言われて桔梗ききょう猪口ちょこを手に持ったままに腰を上げた。

 飲んだのは二口程でしかなかったはずだが、それでも随分に酔っているのか、立ち上がった拍子に桔梗ききょうはふらふらとして姿勢を崩しそうになる。


「大丈夫ですか?」

 心配して思わずふでが問うと顔を赤らめながら桔梗ききょうは楽しそうな顔をして頷いてくる。


「ふふ、何言ってるんですか。大丈夫ですよ。そんな心配なさらないでください。ただ着物になれていないだけです。」


 そんな言葉とは裏腹に、桔梗ききょうは体を左右へと揺らしながら窓へと向かって歩いてくるが、途中、不意に桔梗ききょうは足がもつれそうになって、一瞬体をぐらりと傾かせた。


「おっとと……。」

 どこか緩い調子で姿勢を取り直そうと、足を延ばしたところで、着物の裾を踏んづけてしまい桔梗ききょうはつるっと足を滑らした。


「ひゃんっ!?」

 素っ頓狂な声を上げながら、つんのめるようにして前と向かって倒れ込んだ桔梗ききょうは、そのままふでに向かって体を飛び込ませていた。


 窓辺に座っていたふでは、思い切りに突っ込んでくる桔梗ききょうの体を慌てて手を伸ばして掴みとめる。

 そのままの勢いで窓の外へと転がり落ちそうになった桔梗ききょうを、ぐいっと首根っこを掴んで、ふでは抱え上げた。


 その拍子に二人の体がしたたかにぶつかって、肢体をするりと絡み合わせてしまう。


桔梗ききょうさん……貴女あなた様ねえ。」

 余りにも彼女が転んだのが唐突すぎて、ふでは思わずもそんな非難めいた声を上げてしまっていた。


「す、すみませんっ。あれ、おかしいなあ……。」

「可笑しくありませんよ。貴女あなた様。随分と酔っておりませんか?」

「えっと、私……酔っておりますか?」


「酔っておりますよ。」

 呆れてふでは言いながら、ふよりと柔い体を抱き留めて、桔梗ききょうの背中をするりとなでる。


「ふわっ?」

 からかい半分のつもりだったが、存外にその背中の曲線は柔らかくて、ふではもう一度だけ背筋を撫でさせる。


「ひぅっ!」

 びくりと桔梗ききょうは体を揺らすと、桔梗ききょうは非難めいた声を上げる。


筆殿ふでどのぉ……。」


 非難めいた声ではあったが、それはどれほも嫌そうには感じられず、むしろ余計に可愛らしくって、彼女の言葉も無視して、ふではその背中をさらさらとなでていく。


「やはり、桔梗ききょうさん。貴女あなた様、随分酔うておられますよ。何とも無防備な様子で……。飲めるなどと言うておいて、何ですか?この体たらくは。」

「確か飲めたと思うのですが……。ひな祭りの時にも、飲んだ酒で酔ったりなんかしませんでしたし。」


「それは白酒しらざけでございましょうに……。」

 白酒しらざけと言うのは、酒粕を湯に溶かして飲めるようにしたもので、甘酒とも言った。酒の残りかすであり、ほんの僅かに酒精はあっても余程酒に弱くなければ酔うような代物ではなかった。


「全く。桔梗ききょうさんは、本当に抜けておりますね。」

「そうですよ……。私は抜けております。筆殿ふでどのの言う通り。それでも本当に私なんかを連れていくのですか?」


「くどいですね。連れていきますよ。もう無理やりにでも。」

 ふでがそう言うと、安堵したように桔梗ききょうは口元を緩めて、ふふっと緩い笑みを零した。


 その笑みだけでふでからすれば充分であった。


 ふでに抱き留められた腕の中で、桔梗ききょうはするりと体を回すと、窓の外へと視線を向けて、そこに広がる星を見上げて、思わずほうっと僅かに溜息を漏らしていた。


 緩く薄い雲の棚引く空には、横一面に長く細く、まるで無造作に白銀しろがねでもばらまいたかのように、無数の星影が散らばっていて、そこに淡く綺麗な一つの川が出来ていた。


 空の端から端までに伸びた、天の川はその明るさ故なのか、僅かに紫に染まったように煌めいてさえ見える。


 目を細めて喜びながら、桔梗ききょうはより一層に窓の外へと体を乗り出そうとして、ふでは慌てて体躯を引き留めた。


 ややもすれば、真っ逆さまに落ちてしまいそうなほどに、桔梗ききょうは体を窓の外へと乗り出していた。


 ふわりと夜の涼しい風が二人の頬を撫でて、髪を揺らしながら桔梗ききょうは心地好さそうに笑みを浮かべていく。


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