59.酔いて二

 酒は嗜めるかと問われて、桔梗ききょうは少し虚を突かれたような表情を見せた後、目をぱちくりとさせながら、口の中で噛みしめていた小魚の欠片をこくりと飲み込んだ。


「お酒は……飲めないこともないのですが、えっと、そのう……。」

 言い淀んで桔梗ききょうはちらりとふでへと視線を向けると、その顔を上目遣いに覗き込む。


「どうか致しましたか?」

 ふでが首を傾げて見せると、言いづらそうにしながら桔梗ききょうはおずおずと口を開く。


「あの。私が酔ったところを、その……無理やりに押し倒そうとか考えたりしてませんよね?」

 随分と信用されていないことと、何ともずれたことを言われるのがどこか面白くて、思わずふではふっと鼻から吐息を漏らし、軽く笑ってしまう。


「そんなこと致しませぬよ。」

ふで殿っ、今鼻で笑いませんでした?」


「ああ、いえね。余りに可愛らしいことを言うものですから、思わず。」

 ふでがそう言ってみると、可愛らしいなどと言われたのが恥ずかしかったのか、咄嗟に桔梗ききょうは顔を赤らめている。


 多少なりに皮肉にも聞こえそうな言葉だったが、可愛らしいと言う言葉にだけ反応して頬を染めるあたりが初心うぶらしく、それもまたふでからしてみれば可愛らしく感じてしまうところであった。


「また筆殿ふでどのはそう言うことを平然と言って……。私のような醜女しこめを余りからかわないでください。」

「なにを仰いますか。桔梗ききょうさんはまっことに可愛らしうございますよ。」


 言われて桔梗ききょうは一層に顔を赤らめる。頬は辰砂しんしゃの紅でも塗ったかのように淡く赤く色づいて、目は何度の瞬いてはしどろもどろに瞳が左右に移ろっていた。

 ふではそんな桔梗ききょうの表情を眺めつつにさかずきを呷って、何とも美味しそうに目尻を緩ませる。


「ふふ、そうやって恥ずかしがる桔梗ききょうさんを眺めて飲むお酒は美味しうございますね。」

 ふでがそう言うなり、桔梗ききょうはむくれたように唇を突き出して見せる。


「やっぱりからかってるんじゃないですか。もう……冗談はやめてください。言われてちょっとだけ嬉しくなるのが余計恥ずかしくなります。」

「嬉しいのですか?」

「そりゃ私も人間ですから、可愛らしいなんて言われれば、多少は嬉しくなりますよ。」

「そうですか。まあ、桔梗ききょうさんが可愛らしいのは冗談ではございませんよ。何とも愛くるしい。」


 軽い口調でふでそう言ってみると、今度は桔梗ききょうもじとりと目を睨ませて、不機嫌そうな表情を見せる。


「何度もそう騙されませんよ。どうせ私なんて、そんな可愛らしくありませんから。」

 そうやって意地でも認めようとしない桔梗ききょうに、やれやれとふでは肩を竦めてしまう。


「本心なのですがねえ。」

 本心ではあった。本心ではあったが、多少にからかう心持もあるにはあった。


 だからこそだろう、

筆殿ふでどのの言うことは、もう何も信じられません。」

 と、ぴしゃりと言いかえされてしまい、ふでは「そうですか」と目を閉じると澄ました顔を見せて、肩身を狭めて頷いた。


「まあ、それはともかくも、飲めるのでありましたら桔梗ききょうさんも一献いっこんいかがですか?」


 そう言ってふでは酒の入った銚子を手に取って、桔梗ききょうへと向かって揺らして見せる。ちゃぽちゃぽと中に入っていた酒が波を立てて、心地好い音が小さく響いた。


「一杯だけでしたら……。」

「ええ、それでようございます。」


 僅かに躊躇った後、桔梗ききょうは自分の膳に置かれていた御猪口を手に取って、ふでのもつ銚子へと差し出した。頷いてふでが銚子を傾けると、その口から、とくとくっと小気味の良い音がして、透明な液体が御猪口の中へと注ぎ込まれていく。


 小さな御猪口の中になみなみと酒が注がれていき、最終的には口から溢れそうなほどになった。


「わっ……とと、入れすぎですよ。」

「一杯だけと仰りましたので、せめてこれぐらいはさせていただきたく。」

 にやっと口角を上げてそう言うとふでは銚子の口をすっと持ち上げて、ようやく注ぐのをやめた。


「もう……。」

 多少非難がましく声を上げ乍ら、こんもりと御猪口に注がれた酒を眺め、桔梗ききょうには、こんなにも飲めるのだろうかと、僅かに尻込みしてしまう気持ちが湧いてきていた。


 少しばかりは酒も飲んだことはあったが、本格的に酔ったことはなく、ここまで酒を盛られてしまったことに、多少なり不安な心持となって桔梗ききょうは唇を僅かに食んだ。


 今にも中身が零れてしまいそうな御猪口を掌の中に抱えると、桔梗ききょうはそれを恐る恐ると口元へと運んで、中へと注がれた酒に僅かばかり唇を触れさせる。


 ちゅっと小さな音がして、桔梗ききょうは酒を口の中へと含ませると、そのまま御猪口を傾けて唇の狭間へと酒を流し込む。薄紅色をした唇が僅かに濡れて、つややかに光沢を見せた。


 二割ほどが、口の中へと納まったかと思うと、ゆるりと御猪口を唇から離して、桔梗ききょうはほうっと吐息を漏らす。


 途端に彼女の瞳はとろんと虚ろになり、血色が増したのか頬から耳先にかけて顔の赤らみが一層に増した。そうして少しだけ辛そうに「んくっ……」と喉を鳴らしていた。


 その吐息に、なんともなまめかしい吐息だとふでは感じてしまう。


「何と言うか……これは、きついお酒ですね……。」

「そうですか?」

「飲んだところから喉が焼けるような感じがしてます……。」


 再びくっと喉を鳴らすと、何か気になるのか、桔梗ききょうは右手で何度か喉元を撫でていた。


「まあ、澄酒すみざけでございますからね。濁り酒の倍ほどには酒精も強いでしょうか。」

 言いながらも、ふでは自らのはいを呷って空にしてしまうと、そこに再び銚子から酒を注ぎこんで、また口元へと運んでいく。


「こんな酒精のきついお酒を、良く筆殿ふでどのは平然と飲んでいられますね……。そんなに飲んで大丈夫なのですか?」

「なに、限度はわきまえておりますよ。」

「そうなのですか……。」


 どこか目をうつろとさせながらほうけた調子で桔梗ききょうは呟くと、猪口の中の透明なお酒をじいっと見つめる。そうして何か意を決したように彼女は猪口に口をつけると、もう一口だけくいっと中身を飲み込んだ。


 最初の一口だけでも随分と酔った見えるのにも拘らず、そんな一気に飲んで大丈夫なのかとふでは思うたが、案の定というように途端と桔梗ききょうは耳の端まで顔を真っ赤にして眉根を顰めさせている。


 ただ、それで景気をつけたかのように目を据わらせて、彼女は不意と口を開いた。


筆殿ふでどの、一つ聞きたかったことがあるのですが……。」

「なんでしょうか?」


「いまさらなのですが、本当に筆殿ふでどのは、こたびの依頼の報酬が私なんかで良かったのですか?」

 問われてふでは飲みかけていたさかずきをすっと足元へと下ろした。


「どうしてそんなことを問うのです?何か嫌でしたでしょうか?」

「えっ?いえ、そう言うわけでは……。むしろ勿体ないぐらいで……。」

 ぶんぶんと音が鳴る勢いで桔梗ききょうは首を振るっていた。


筆殿ふでどのには、あの時も述べ申しましたが嫌と言うことなど一切もありません。ただ報酬としては私なんか、あまりにも不釣り合いではないかと。」

 言いながら桔梗ききょうは自らの体躯へと視線を向けて、その貧相さに溜息を漏らしてしまっていた。


 胸ばかりは不格好に大きいが、全体的に肉付きは良くなくて、背も低い。何とはなしに顔へとも触れてみるが、唇は薄く眉も細くて、髪も長くない。何もめぼしいところがないと、彼女自身はそう思っていた。


 だからと言って、何かしら役に立つようなことが出来るとも思えない。


 旅の最中も、ふでからは「抜けている」などと言われてしまう始末で、ずっと足を引っ張っていたのは理解している。だからこそ桔梗ききょうには、自分が報酬などと言うのが桔梗ききょうには理解できなかった。


「先の越後屋えちごやさんで見ましたが、あれだけ武器の支度を出来る資金を考えれば、もしも報酬を金子きんすで貰っていたなら多分私などには想像もつかないような額になるんじゃないですか?だから、私がそんな大金の代わりになるようには全く思えないんです。例え、私をどこかに売り払ったとしても、一度ぐらい白米が食べられるかどうか、そんな程度じゃありませんか。」


 酒に酔った勢いに任せて桔梗ききょうが抱えていた疑問を訥々とつとつと吐き出してしまうと、その言葉を聞いてふではふむっと顎を撫でる。


 桔梗ききょうの言うことは、ふでからすれば言い分だけなら理解はできた。ただ、それはあくまでも桔梗ききょうの中の尺度の話でしかないとふでは澄ました顔で首を振った。


桔梗ききょうさん。そう自分を卑下されるものじゃありませんよ。」


「ですが、実際そうではありませんか?貰えるはずだったのは大金なのでしょう。」


「どうですかねえ……。」


 継ぐ言葉に悩んでしまい、ふでは頭を一つ二つ指先で掻くと畳から腰を上げた。

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