58.鉄銭六 - 酔いて一

「これは、とある者達が作った硬貨の証です。これを出されれば、それが何かを知る者達は、そこで出来うる限り最大限の便宜を図るのが習わし。その代わり、言うては何ですが、同じようにこの硬貨を扱うことで多大な利益を得ることができる。そう言う仕組みとなっております。」


「とある者達って……何ですか?」

「それは、知らぬなら知らぬままの方が良いことです。」


「そう言う類のものなのですか……?」

 僅かに桔梗ききょうは言葉を詰まらせてしまう。


 他人の手足となって働くだけの桔梗ききょうの身分であってさえ、隠密と言う闇に関わる家業であればこそ、知らねば良い物、聞かぬ方が良い噂などと言うのは色々と見知りはしていた。


 そう言った類のものは、本当に知らねば良かったと思うことが多々あって、ならばそれ以上は決して好奇心程度のことで聞かぬ方が良い物と言うことであった。


「そう言う類のものです。そうですね便宜上に呼ぶにあたって言えば、ただ『機構きこう』とだけ教えておきましょう。」


 慇懃に言いながらも、言外にそれ以上問わぬようにと言う雰囲気を出す番頭に対して、桔梗ききょうもそれ以上何も尋ねることが出来なかった。


* * *


十六


 日のとっぷりと落ち暮れて、月も顔を覗かせるような深い夜の頃、二人はとある宿の部屋の中に居た。


 青く新鮮な藺草畳いぐさだたみの敷き詰められた部屋の、その中心で、ふでは膳を前にしながら、部屋の南に備えられた窓へと視線を流す。大きく開かれた窓からは、名古屋の街を形作る家々の屋根が幾つも並んでいるのが目に映り、更にその上空にはぽっかりと穴の開いたように暗くなった空が浮かんで見えた。


 空には半分に割れた、上限の月が幾分か傾きを深くさせながら煌々と照っていて、それを眺めながら、どこか上機嫌にふでは酒の入った杯をくっと口元へと呷った。


 喉の管を焼くような濃い酒精が流れていって、こくりと喉を鳴らすと、続いてふわっと大きな一塊の吐息をふでは口の中から溢れさせた。


 その傍らで桔梗ききょうは膳に載せられた五寸ほどの川魚を、指先で摘まんでは幾つも口へと運びポリポリと音をたてながら小気味よく食べているところであった。

 皮も焦げるほどに香ばしく焼かれたその魚は、身程も硬く引き締まっていて、桔梗ききょうが噛みしめえるたびに気持ちの良い音を響かせている。


「良い宿がとれまして良かったですね。景色も綺麗ですし、ご飯も美味しいですし。」

 小魚の頭を齧りながらどこか嬉しそうに桔梗ききょうが言うと、杯を持った手をゆるりと舞わせながらふでも鷹揚に頷いた。


 そこは名古屋にある有名な宿の一室であった。建てられた古さで言えば中堅程度のものではあったが、建物の大きさと部屋の簡素な上質さで言えば、街の中でも有数の宿ではあった。


 それを裏付けるように、二人が泊まる部屋は飾り物こそ床の間の掛け軸ぐらいではあったが、畳は真新しい色を呈し、部屋に置かれた机も風合いの良い欅の木材で仕立てられている。


 なにより二人泊まりだと言うのに、居室と寝室の二部屋も用立てられているのが、桔梗ききょうにとっては驚きではあった。


「それもまあ、越後屋えちごやさんのお蔭ですがねえ。」

 宿代ばかりは自分達で払わなくてはならなかったが、宿をとるための手配は万事において越後屋がしてくれていた。


 その御蔭で、日も暮れかけていたような時間に、しかも身元も定かではないふで桔梗ききょうのような者達が、こんな宿に泊まることが出来た言っても良い。


 とはいえ、越後屋に言わせれば、そこまでも便宜を図るのが、あの鉄銭を頂戴するための仕事であるらしく、それはそれで有り難くはあったが、桔梗ききょうにしてみれば、やはりあの鉄銭てっせんの価値が余りにも大きすぎてどこか恐ろしい気持ちになってしまう。


「本当にあんな鉄銭一つだけで、こんなにしてもらって良いんですかねえ。どうにも、なんだか狐狗狸こっくりにでも騙されているような気がしてきてしまうんですが。」

御伽噺おとぎばなしのように、明日起きたら木の葉の中で寝ているとでも?」


「そうなっても不思議ではない気がします。そもそも筆殿ふでどのと出会った時からこっち、ずっと夢を見ているのだと言われても、私は多分納得してしまいますよ。」


 半ば本気で桔梗ききょうはそう思っていた。とてもではないが、今思い返しても大半のことが現実でないように感じられていた。

 首を捻りながら話す桔梗ききょうの言葉を、片耳で聞き流しながら窓の外を眺めて、ふではふふっふっと何とも彼女らしい笑い方をして見せる。


「まあ、それならばそうとして、良いじゃないですか。楽しいのならば。どうせもう桔梗ききょうさんには如何いかがのしようもないのですから、諦めて泡沫ほうまつの夢であろうが何であろうが、楽しんでおけば良いのではないでしょうかねえ。なにしろそんな綺麗な着物もいただいたことですし。」


「それは……。」

 言い淀んで桔梗ききょうは自らの纏った衣服へと目を向ける。


 桔梗ききょうが今着ている服は、いつも身に着けていた袖丈の短い動きやすい服ではなく、ちゃんと手首や足首まで長さを持った着物であった。


 結局のところ、刀やら槍やらを整えた後に、ついでにだからとふでに勧められるのを断り切れずに、常で売っている越後屋の着物を一着頂くことになってしまっていた。


 それは黄色地の鮮やかな布で仕立てられ、足先の方に小ぶりな紅梅の枝が幾つも刺繍された着物で、何となしに綺麗だとは思っていたから、何度か断ろうとしてみたのとは裏腹に、少なからず桔梗ききょうは嬉しく感じてはいた。


 ただ宿の部屋に泊まってから、ふでが五月蠅く着てほしいと言うのを断り切れずに、その日の内に着替えることになったのは、多少想定外ではあった。


 人生で着慣れることなど一切もなかった「着物」と言う衣服に、動きづらさを感じつつも桔梗ききょうもこんな良い物が着れるなどと想像だにしていなかったために、はにかみながらふでの言葉に渋々と頷いて見せる。


「確かに、こんな綺麗な服着れたのは嬉しいんですけれど。」

「なら、それで宜しいでしょう。夢だって起きた後でも思い返せば楽しいものです。たとい明日の朝に山の中で目覚めたとしても、今感じている楽しさがなくなるわけではありますまい。」


「楽しい夢が覚めてしまい、気が付いた現実が厳しいものであったら、余計に辛くないですか?」

「さあて、そこら辺は考え方次第でしょうかね。ま、少なくとも、今の桔梗ききょうさんの格好は綺麗で、私はそれだけで夢だったとしても嬉しうございます。」


「綺麗なのは着物だけで。私が綺麗なわけではないでしょうけれどね。」

 いつもの様に桔梗ききょうは自分を卑下してそんなことを言う。


 その言葉を否定するでもなく、ふでは小さく肩を竦めながらも軽く笑みを見せていた。

 そうしていると、桔梗ききょうは自分の身に着けている着物を指先で撫でながら、物惜しそうな表情を見せた。


「まあ、この着物を着れるのも今日ぐらいですし。」

「おや、どうしてですかえ。」


「だって動きにくいですから、綺麗ですけど窮屈ですよこれ。」

 言いながら桔梗ききょうは再び膳に載せられた小魚を口へと運んでいく。


 その仕草は見た目よりも実の方が大事だと言わんばかりであって、それはまた桔梗ききょうの今までの生活を何とはなしに感じさせた。


「それは何とも、実直な言葉でございますねえ。」

 ちょっとだけ寂しそうにそう言って、僅かに肩を揺らしながら、窓から見える月を眺めてふでは目を細めた。


 別段、ふでにとって普段の桔梗ききょうの姿も好ましくは思っていた。ただ着物を身にまとった彼女の姿は華やかで、肢体が隠れているが故に一層に華奢きゃしゃに感じられて、それが見れなくなるのが残念ではあっただけだった。


 夜景やけいにじむ薄っすらとした雲が上空の風に流されて、見る間に形を変えていくと、その切れ端が上弦の月の一片へと覆い掛かり、街にかかる闇が一層に深くなっていく。


 日の暮れたこともあってか、窓から流れ込んでくる空気は冷涼さを抱えていて、日中に歩き回って火照った体を気持ち良く撫でていった。


 ふるりと肌を震わせながら、夜の空気の心地よさにふでは楽し気に肩を竦めて、酒の入った杯へと口をつける。


 透明な滴を唇の中へと注ぎ込むと、ふではくっと喉を鳴らして仄かに頬を赤く染めると、緩い目端を桔梗ききょうの方へと差し向けて、


「そう言えば、桔梗ききょうさんは酒を飲まれないのですか?宜しければ一献付き合ってほしいのですが。」


 と、僅かばかり一人で飲むのも口寂しくて、ふではそんなことを口にしていた。

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