53.蕎麦喰い五 - 鉄銭一

 黒羽織の言葉には、どこか安穏とした言い回しながらも、向けられた目からは真剣さが感じられた。


 もし仮に、ふでがやると言えば、その瞬間にも刀を抜き放って、ここで斬り合うかのような雰囲気が漂っていたと言っても良い。

 ふではすぐには答えず、丼へと口をつけて残った汁を啜った後に、ふうっと吐息を漏らしながら緩い表情で首を振るって見せる。


「ちょっと前までなら、それも喜んで受けましたがね。やめておきましょう。」

「なんだ?怖気づいたか?」


「ええ、ちょいとね。」

 僅かに言葉を斬って、ふではちらりと桔梗ききょうの方へと視線を向ける。


 きょとんとした表情を桔梗ききょうが浮かべるや、ふでは小さく口元を緩めて、再び黒羽織へと顔を戻す。


「ちょいと大事な約束ができましてね。それを守るまでは今は死んでも死に切れんのですよ。貴方あなた様はお強いですから。斬り合ったら生きていられる自信がありません。」


 黒羽織の顔を見つめながら、何ともたわやかに目を細め、にっこりとふでが微笑んだ。


 その笑みに虚を突かれたのか、途端に男は頬を赤面させて動揺すると、視線を逸らして恥ずかしそうに鼻の頭を一つ掻いた。


「いやっ……なんつーか……なんだ……やらねえってんなら、俺は別に、それで良いけどよ……。」

 しどろもどろとなって黒羽織は何度も言葉を詰まらせている。


 余りにも初心うぶな反応に、ふで桔梗ききょうは少しだけ驚いてしまって二人して顔を見合わせるとくすりと小さく笑った。


 今まで荒っぽい態度をしか見せてこなかった黒羽織の男の、そんな姿を見せられて桔梗ききょうには、少しばかりに気を許せる心持ちが不意と湧いてくる感じがした。


 そんな気持ちが後押ししたのか、ふと桔梗ききょうはあることを思いついて恥ずかしがっている黒羽織へと声を掛けた。


「そう言えば、剣華組けんかぐみさんなら、市中のことをよく知ってらっしゃるんですよね?」

 急に問われて黒羽織はきょとんとしながらも、鷹揚に頷いて桔梗ききょうへ顔を向ける。


「まあ、知ってるっちゃあ知ってるな。大抵の奴らよりかは知ってるだろうが……。事情通ってわけじゃねえぞ。だが、まあ、何か聞きたいことでもあんのか?」


「実は名古屋に、唐傘陣伍からかさじんごと言う男が来ているらしいのですが。」

 唐傘陣伍と言う名前を口にした途端に、黒羽織の顔が険しくなった。


「ああん?唐傘陣伍だあ?てめえ、それ本当か。」

 急に再び威圧するような表情を見せる黒羽織に、桔梗ききょうは僅かに気圧されて少し怯えてしまいながらも、躊躇いがちに口を開く。


「あの……唐傘陣伍のことをご存じなんですか?」

「名前ぐらいはな……。俺らの間じゃ有名な奴だよ。有名だがな、正味、聞きたかない名前だ。そいつが名古屋に来てるってのは本当か?」


「えっと……はい。とあるお偉い方が仰ってたので、本当かと。」

「本当かよ?本当なら厄介な話だが……。」


「あのう……唐傘陣伍って、その人ってどういう人間なんですか?」

 ずいっと体を乗り出して桔梗ききょうが尋ねてみると、黒羽織の男は僅かに身を引いて、顔を赤らめながら気恥ずかしそうに頬を掻く。


「いや……なんつーかな……ちょっとまってくれ。」

 急に口ごもり始める黒羽織の男の態度は、どうにも女慣れしていない様子があった。


 赤くなった頬を掻きながら、黒羽織の男は「んんっ」と誤魔化す様に喉を鳴らすと、それでようやく口を再び開いた。


「俺も噂しか聞いたことがないがな。唐傘陣伍ってのは、西明せいめいりゅう流の免許皆伝者であり……。」

 一つ言葉を切って僅かな溜めを作ると、黒羽織の男は重々しく口を開く。


「名の通った殺し屋だよ。」

「殺し屋……ですか。」


 話を聞きながら、ちらりと桔梗ききょうふでへと視線を向ける。ふでは我関せずという様子で蕎麦の残り汁を啜っていた。

 二人の様子に多少訝しむ表情を見せながらも黒羽織は、そのまま言葉を続けていく。


「おうよ。その陣伍じんごって奴は、そもそも西明せいめい流の跡取りとして生まれた長男坊だったんだがな。親父の気性が虫も殺せねえほどに穏やかな所を、何をまかり間違って生まれたんだか知らねえが、とにかく素性が残忍でな。門徒を鍛えると言う名目で虐め抜いていたらしいのよ。時には殴り殺すこともあったって言うから、相当な根性悪だったんだろうが、ついに親の決めた武家の娘との婚姻した夜ってえ時に、その娘子を切り捨てて家を放逐したとか聞いたよ。それからは人斬りとして放浪して、斬った相手は十や二十じゃ足りねえ。頼まれりゃ、首の座らねえ赤子だって斬るって話だ。」


「それは……相当悪辣な人物ですね。」

「ああ。もし本当に唐傘陣伍が名古屋に来てるっていうんなら、俺らの組としちゃ、そんな奴は見過ごせねえな……。」

 呟くように言うと、渋い表情を見せて黒羽織は席を立った。


「そうとなったら、こんなのんびりしちゃいられねえな。おい、女。」

「え?あ、はい?」


「あんた、何て名前か知らねえが、情報ありがとよ。」

「あ、いえ。こちらこそ――」


 色々と教えてくださってありがとうございます、と桔梗ききょうが続けようとする言葉も振り切って、黒羽織の男は、すぐさまに顔をふでへと向けると、その真っすぐな瞳を彼女の顔へと睨み付けた。


「てめえとの決着は、またいずれな。」

「ええ、ええ。私の用事が終わりましたら、またお会い致しましょうか。その時には今日の昼の続きでも。」


「今度は局長の邪魔が入らねえような所でな。」

 そう言うや、黒羽織の男は纏っている衣を翻して、さっと店を去っていった。


「意外と爽やかな人でしたね……。とはいえ筆殿ふでどのとは、もう二度と出会ってほしくないですけど。」

 斬り合いになっては困るというつもりで桔梗ききょうは言ったが、ふでは妙に意味深な真面目な顔をして首を振るった。


「どうですかね。また直ぐに会いそうな気も致しますよ……。」

 ゆるりと言ってふでは頬杖を突きながら、男の出て行った店の入口へと視線を投げかけていた。 


* * *


十五


「ふう……それにしましても、ようようと食べましたねえ。」

 蕎麦屋から出ると、ふでは腹を重たそうに撫でながら満足げに吐息を漏らした。


 そのお腹はどことなく太鼓のように膨らんでさえ見えて、もし聞いている人が居れば、いったい如何ほどに食べたのかと疑問に感じるだろうと思わせるほどのなりをしてしまっていた。


 往来には相も変わらずに人が溢れ返っていたが、店に入る前と比べると逆の方向へと向かう人が多く見られた。


 西へと目を向けてみると、太陽は昼にあった中天からしてみれば既に三四割ほどの高さしか持ち合わせておらず、これからそのまま夕暮れに向かっていくのだろうと感じさせる。


「ようようと食べたのは、筆殿ふでどのだけでしょう?私はそれほど食べておりませんよ。」

 ふでの言葉に、多少呆れた心持ちで桔梗ききょうは言った。


 言いながら通りへと改めて目を向けてみると、道を歩く人々の足元には長い影が出来はじめ、立ち並ぶ家々の横脇は多少恐ろしく見えるほどに薄暗くひっそりとし始めていた。まだまだ人波は激しく、ざわざわと騒がしいことはこの上なかったが、どことなく寂寞さを感じて、桔梗ききょうは並び歩いていた体を一層にふでへと近づけていく。


 どこか突き放すように言った桔梗ききょうの言葉にも、ふでは鼻を一つ掻いてそっけなく頷いてみせる。


「ま、そうですがね。」

「何日も食べてなかったのに、良くあんなに食べれますよね。」


 普通、絶食が何日も続けば胃も小さくなる。

 お腹は空いていても、直ぐに腹が張って食べられなくなると言うのが道理であった。


 それを旅の空腹明けに十杯も天ぷら蕎麦を平らげてしまって、多少呆れた心持で桔梗ききょうがそう言ってしまうと、ふでは澄ました顔で僅かに肩眉をあげてみせる。



「これは秘密なのですが、私、胃だけは丈夫でございましてね。」


「何を戯言を……どこもかしこも丈夫じゃないですか。筆殿ふでどのは。」


「どうですかね。心ばかりは弱いと思いますが。」


 肩をすくめてふでがそう言うと、桔梗ききょうは呆れた心持で目をじとりと振り向けさせる。


筆殿ふでどのの心臓には毛が生えていると思いますよ。成瀬様の家で、どれだけ私がはらはらしたことか、分かりますか?」


「さあて。わかりませんねえ……。」


「でしょうね。」


 ため息をついて桔梗ききょうは小さく肩を下ろした。

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