53.蕎麦喰い五 - 鉄銭一
黒羽織の言葉には、どこか安穏とした言い回しながらも、向けられた目からは真剣さが感じられた。
もし仮に、
「ちょっと前までなら、それも喜んで受けましたがね。やめておきましょう。」
「なんだ?怖気づいたか?」
「ええ、ちょいとね。」
僅かに言葉を斬って、
きょとんとした表情を
「ちょいと大事な約束ができましてね。それを守るまでは今は死んでも死に切れんのですよ。
黒羽織の顔を見つめながら、何とも
その笑みに虚を突かれたのか、途端に男は頬を赤面させて動揺すると、視線を逸らして恥ずかしそうに鼻の頭を一つ掻いた。
「いやっ……なんつーか……なんだ……やらねえってんなら、俺は別に、それで良いけどよ……。」
しどろもどろとなって黒羽織は何度も言葉を詰まらせている。
余りにも
今まで荒っぽい態度をしか見せてこなかった黒羽織の男の、そんな姿を見せられて
そんな気持ちが後押ししたのか、ふと
「そう言えば、
急に問われて黒羽織はきょとんとしながらも、鷹揚に頷いて
「まあ、知ってるっちゃあ知ってるな。大抵の奴らよりかは知ってるだろうが……。事情通ってわけじゃねえぞ。だが、まあ、何か聞きたいことでもあんのか?」
「実は名古屋に、
唐傘陣伍と言う名前を口にした途端に、黒羽織の顔が険しくなった。
「ああん?唐傘陣伍だあ?てめえ、それ本当か。」
急に再び威圧するような表情を見せる黒羽織に、
「あの……唐傘陣伍のことをご存じなんですか?」
「名前ぐらいはな……。俺らの間じゃ有名な奴だよ。有名だがな、正味、聞きたかない名前だ。そいつが名古屋に来てるってのは本当か?」
「えっと……はい。とあるお偉い方が仰ってたので、本当かと。」
「本当かよ?本当なら厄介な話だが……。」
「あのう……唐傘陣伍って、その人ってどういう人間なんですか?」
ずいっと体を乗り出して
「いや……なんつーかな……ちょっとまってくれ。」
急に口ごもり始める黒羽織の男の態度は、どうにも女慣れしていない様子があった。
赤くなった頬を掻きながら、黒羽織の男は「んんっ」と誤魔化す様に喉を鳴らすと、それでようやく口を再び開いた。
「俺も噂しか聞いたことがないがな。唐傘陣伍ってのは、
一つ言葉を切って僅かな溜めを作ると、黒羽織の男は重々しく口を開く。
「名の通った殺し屋だよ。」
「殺し屋……ですか。」
話を聞きながら、ちらりと
二人の様子に多少訝しむ表情を見せながらも黒羽織は、そのまま言葉を続けていく。
「おうよ。その
「それは……相当悪辣な人物ですね。」
「ああ。もし本当に唐傘陣伍が名古屋に来てるっていうんなら、俺らの組としちゃ、そんな奴は見過ごせねえな……。」
呟くように言うと、渋い表情を見せて黒羽織は席を立った。
「そうとなったら、こんなのんびりしちゃいられねえな。おい、女。」
「え?あ、はい?」
「あんた、何て名前か知らねえが、情報ありがとよ。」
「あ、いえ。こちらこそ――」
色々と教えてくださってありがとうございます、と
「てめえとの決着は、またいずれな。」
「ええ、ええ。私の用事が終わりましたら、またお会い致しましょうか。その時には今日の昼の続きでも。」
「今度は局長の邪魔が入らねえような所でな。」
そう言うや、黒羽織の男は纏っている衣を翻して、さっと店を去っていった。
「意外と爽やかな人でしたね……。とはいえ
斬り合いになっては困るというつもりで
「どうですかね。また直ぐに会いそうな気も致しますよ……。」
ゆるりと言って
* * *
十五
「ふう……それにしましても、ようようと食べましたねえ。」
蕎麦屋から出ると、
そのお腹はどことなく太鼓のように膨らんでさえ見えて、もし聞いている人が居れば、いったい如何ほどに食べたのかと疑問に感じるだろうと思わせるほどの
往来には相も変わらずに人が溢れ返っていたが、店に入る前と比べると逆の方向へと向かう人が多く見られた。
西へと目を向けてみると、太陽は昼にあった中天からしてみれば既に三四割ほどの高さしか持ち合わせておらず、これからそのまま夕暮れに向かっていくのだろうと感じさせる。
「ようようと食べたのは、
言いながら通りへと改めて目を向けてみると、道を歩く人々の足元には長い影が出来はじめ、立ち並ぶ家々の横脇は多少恐ろしく見えるほどに薄暗くひっそりとし始めていた。まだまだ人波は激しく、ざわざわと騒がしいことはこの上なかったが、どことなく寂寞さを感じて、
どこか突き放すように言った
「ま、そうですがね。」
「何日も食べてなかったのに、良くあんなに食べれますよね。」
普通、絶食が何日も続けば胃も小さくなる。
お腹は空いていても、直ぐに腹が張って食べられなくなると言うのが道理であった。
それを旅の空腹明けに十杯も天ぷら蕎麦を平らげてしまって、多少呆れた心持で
「これは秘密なのですが、私、胃だけは丈夫でございましてね。」
「何を戯言を……どこもかしこも丈夫じゃないですか。
「どうですかね。心ばかりは弱いと思いますが。」
肩をすくめて
「
「さあて。わかりませんねえ……。」
「でしょうね。」
ため息をついて
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