52.蕎麦喰い四

「なんでなぞとは、随分なお言葉ですねえ。私達はたまさか蕎麦を食べに来ていただけでございますよ。貴方あなた様がこんな所に居るなどとは、よもやよもや露にも思っていませんでした。」


「そりゃ本当か?」

 つらつらとまるで考えてきたかのように淀みのない口上をたてまふでに対して、一切に視線も反らさずに黒羽織の男は眉根を顰めて睨み付けると、徐に刀の柄へと手を添えていた。


 不意と、かちゃりと鞘の中で刀が揺れて鍔のぶつかる音が鳴った。

 途端、ふっとふでは吐息を漏らすと、緩い目じりを一層に細めた。


 じりっと、どちらからとも取れぬ地面を足裏が擦る音が微かに周囲へと響く。


 はす向かいに座っている御蔭で二人の体は互いに正反対の方へと正面を向けていた。

 それが多少の心理的な障壁となっているのか、直ぐ様に斬りかかる様な事態にはならなかったが、それでも二人の間の空気は徐々に緊張感を増していく。


 一瞬にして空気が乾いていき、桔梗ききょうはどこか喉が張り付くのを感じていく。その感覚に、桔梗ききょうは何とはなしに、二人が本気でやり合おうとしているのだと悟っていく。

 流石に、こんな所で暴れては周囲の迷惑になると慌てて桔梗ききょうは二人を止めようと、ふでと黒羽織との間へと手を伸ばした。


「ちょ、ちょっと――」


「はいお待ちー、天ぷら蕎麦でございます。」

 桔梗ききょうが声を上げかけた瞬間、三人の間に漂う雰囲気を全くに無視して、花番がずいっと丼をふでへと差し出した。


 きょとんっと、ふでが顔を上げると、花番は「おやっ?」と不思議そうな顔を浮かべる。


「あら?注文間違えましたかね。お客さん、天ぷら蕎麦って言いませんでしたっけ?」

「あー……いえ、確かに天ぷら蕎麦を頼みましたよ。」


「そりゃ良かった。はい、じゃあ受け取って。」

 更にずいっと差し出された丼に、ふでは仕方なさそうに眉尻を下げて手を伸ばす。


「ありがとうございます。」

 礼を言ってふでがどんぶりを受け取ると、花番は盆に乗っていた丼をもう一つ手に取って、黒羽織の男へも差し出した。


「はい、剣華組けんかぐみの旦那も。天ぷら蕎麦のお代わりでしたよね。」


「お、おう……。」

 花番の女の強引さに黒羽織の男も戸惑いながら丼を受け取った。

 二人の見つめる間に湯気が立ち上って、醤油の良い香りが漂ってくる。


 なんとも格好がつかない状態ではあったが、丼を抱えたままに黒羽織の男は、それでもふでへと睨みをつけている。

 多少、気の反れたふでは興味をなくしたのか肩を竦めて吐息を漏らす。


貴方あなた様も、天ぷら蕎麦でしたか。」

「確かに俺は天ぷら蕎麦を頼んだがよ。それがどうした?」

「いえ、奇遇だなと思いまして。ではいただきますね。」


「え、お、おい!」

 僅かに肩を竦めると、ふでは男の言葉を殊更に無視して蕎麦の中へと箸を突っ込んでいた。


「おい!てめえ、聞いてんのか!?」

 ふでの態度が気に食わなかったのか、厳つい表情で黒羽織の男が声を上げる。

 そんな声にふでは素知らぬ顔で、首を僅かに左右に傾げてみせる。


貴方あなた様は食べないんですか?冷めてしまいますよ。折角の蕎麦が勿体なうございませんか?」


 蕎麦を箸先で持ち上げながら平素な声ぶりでふでがそう言うと、黒羽織の男は「ああん?」と一層に眉根を顰めた後に、丼の中身を見つめて悩んだ表情を見せた。


 ぽりぽりと額を一つ掻いた後、ふっと大きく鼻を鳴らして黒羽織も蕎麦へと箸を突っ込む。


「おい、いいか?食った後にもっかい話の続きだ。」

 不承不承というように黒羽織が言うと、ふでは素直に頷く。


「おすきになさってください。」

 そう言うや、次の瞬間には二人して大きな音を立てながら蕎麦を一斉に啜り上げていた。


 ふでは丼の中の蕎麦を、一気に口の中へと飲み込ませる。

 続いて天ぷらをバリバリと親の仇を食うかのように齧った。

 途端、瞬く間に空へとなった丼を、先ほど食べ終えた一杯目の丼の上へと重ねた。


 と、同時に。


 再び、がちゃんと丼の積まれる音が二つ重なって響いた。

 ふでが振り返って目をやってみると、黒羽織も自分の蕎麦を一瞬で食べ終えて、ふんっと鼻を鳴らしみせる。


「おや、俺よりも先に食べ始めたのに、食い終わるのは俺と一緒か……。」

 それは黒羽織からの明らかな挑発だった。


 じいっと、ふでは男の顔を見つめ返すと、僅かばかりに愉しそうな笑みを浮かべた。

 丁度そこに花番が再び通りかかるや、二人同時に声を掛ける。


「天ぷら蕎麦をもう一杯くれ。」

「こちらも、もう一杯。」


 言うとすぐにお代わりの丼が二杯運ばれてきた。

 これはもう、花番は分かっていたとでもいうような速さであった。


 二人は受け取るや否やに一気に蕎麦を啜り上げる。

 その勢いたるや、たった一口で蕎麦も汁も掻き揚げまでも、一緒くたに口の中へと放りこんで、塊のまま一気に胃の中へと流し込むかのようにすら見えてくる。


 またすぐにガチャン!と丼が二つ重なる音が響く。


 途端と、二人は花番へと、

「もう一杯!」

 と、注文の声を上げた。


 傍らで桔梗ききょうは自分の丼の中から蕎麦を一二本を箸で掬いあげたまま、その妙ないさかいを唖然とした表情で眺めていた。


 半ば呆れた心持で桔梗ききょうが目をぱちくりとしてしているうち、すぐに次の丼は運ばれてきていた。

 口の中を火傷でもしないかと心配するほどの勢いながらも、ふでと黒羽織は構わずに口の中へと全てを詰め込んでいく。


 あれでは味も香りも分かったものではないだろう。


 多少なりに呆れかえってしまうが、それでも斬り合うよりはマシかと桔梗ききょうは何も言わずに、二人の忙しない食事風景を横目に自分の蕎麦を啜っていくことにする。


 汁の染みた掻き揚げを裂いて、その一欠けらを桔梗ききょうは口へと運ぶ。


 さくさくとした天ぷらも美味しいが、汁の染みた衣は噛みしめるごとに油と出汁の混じった旨みが染み出てきて、それはそれで口の中が幸せな感覚にあふれていくものだった。


「ゆっくり食べれば、こんなおいしいのに……。」

 言いながら美味しさに桔梗ききょうが目を細めていると、その傍らではふでと黒羽織が四杯目の蕎麦を食べ始めている所だった。


 呆れながら眺めていると、二人とも額から汗をかきながらも、多少は美味しそうな顔はしていて、味わっているのだろうと見えることだけが、せめて店の人に申し訳が立つ気がした。


「おい。ちょっとあっち見てみろよ。」

「ん?どうした?」

 周囲に居た客も二人のことに気が付いたのか、席に座りながら首を伸ばして物珍しそうに早食いを眺めて声を上げていた。


 中には、どちらが勝つか、賭けをし始めている客達も出てくるような始末で、椅子の上には代金でもないだろう小銭が重ねられていく。

 ただそれも厄介なことに首を突っ込むのは御免と、桔梗ききょうはそれらを強いて気にしないようにして自分の蕎麦を啜っていく。


 掬いあげた二三本をちゅるっと啜り上げると、甘い煮返しの味が口の中へと広がってくる。

 久しぶりの食事と言うこともあって、桔梗ききょうは口の中が味で満たされて、お腹が膨れていく感触にしみじみと目を細めてしまう。


 そうやってゆっくりと蕎麦を啜っていき、ようやく桔梗ききょうが自分の丼を食べ終える頃、ふでは丁度十杯目の蕎麦を平らげ終えたところで、酷く満足そうな笑みを浮かべて緩い吐息を漏らしていた。


 その傍らでは黒羽織の男が九杯目の蕎麦を見つめたまま、今にも吐き出しそうな顔で口元を歪めている。


「いやはや、美味しうございましたねえ。」

 不敵な笑い方をしてふでが視線を差し向けると、黒羽織は忌々しそうに食べかけの蕎麦を長椅子の上へと置いて、ぎりっと歯を噛み鳴らす。


 格好をつけたつもりだったのかもしれないが、黒羽織の男は、その拍子に吐き出しそうになって慌てて口元を抑えてしまっていた。


「うっぷ……畜生が……。もう入んねえ……。」

「無理してはいけませんよ。折角の蕎麦なのですから、美味しく頂かなくては。」


 あんな食べ方では味も何もあったものではないだろうと桔梗ききょうは心の中で口をはさみながらも、強いて藪蛇を突っつく気にもならず何も言わずに丼に残った汁を啜った。


 他の客達はふでが十杯を食べきったのを見て感心したり、賭けをしていた者達が喜んだり悔しがったりと、騒がしく声を上げていた。



「くそ……。でも、仕方ねえ……。蕎麦を食う勝負はお前の勝ちだよ。」


 苦悶の表情を見せながら黒羽織は腹をさすると、そのまま言葉をつづける。



「それで……だ。どうする?」


「どうするとは……なんのことでしょう?」


「てめえは昼に俺に向かって『この続きは』なんて言ってやがっただろ。」


「ああ。そう言えば、言いましたねえ。ええ、言いました。」


「これから、この続きをやるかい?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る