50.蕎麦喰い二

「どうかしましたか?」

 顔を上げて空を見上げていることが気になって桔梗ききょうが尋ねてみると、渋そうにふでは顔を悩ませていた。


「いえね。食事のことを決めましたら、そう言えば依頼のことを思い出しまして。」

「今更ですね。」

「今更ですよ。どう致しましょうか。」


 大仰に悩んだ表情を見せるふでに、桔梗ききょうはふふっと軽く微笑んで、傍らからその顔を覗き込む。


「あの……筆殿ふでどのが問題なければ、その暗殺者達の居場所は私が調べましょうか?」

 桔梗ききょうがそう言ってみると、途端にふでは酷く眉をひそめて信じられないとでも言い出しそうな表情を浮かべた。


桔梗ききょうさんが……?あの失礼ですが、それは……大丈夫なのですか?」

「えっと、どういう意味ですか?」

 ちょっとだけムッとして桔梗ききょうが尋ねると、ふでは肩を竦めて首を捻る。


「いえ、そのままの意味です。だって桔梗ききょうさん、貴女あなた様ですよ?私からすれば、間の抜けた印象しかないのですが……。」

 さぱりと言われてしまい、桔梗ききょうは思わずうっと言葉を詰まらせて、僅かばかり目を反らしてしまう。


「えっと……確かに今までは筆殿ふでどのの前では間の抜けたことが多かったかもしれませんが……でも、これでも情報を扱うことに関しては得意なんですよ。任せてみてください。」

 荒事ならともかくとして、伝達や人探しと言った情報に関わることならば、桔梗ききょうも多少の自負があるつもりだった。


「いやしかし……。危なくはありませんか?」

「そりゃ、なくはないでしょうけれど。大切な文書を運ぶなんてのとは違って、ただ人探しをするだけですから、何とかなると思いますし……。筆殿ふでどのに探す当てがないなら、やらせてみてください。」


 多少なりとも、桔梗ききょうにとって、役に立ってみたいという気持ちがないではなかった。

 ただそれでも、当ても自信もなく言いだしたのではなく、自分でできると思えるからこそ言い出したことであった。


 軽く提案する心持で桔梗ききょうは言ってみたつもりであったが、それでもふでは口を捻って不満そうな表情を浮かべている。


「確かに当てはないですがね……いやはや、桔梗ききょうさん。それでも言うておきますがね。貴女あなた様ね。危ないことはしてはいけませんよ。」

「はあ、えっと……?」

 あまりにも念を押すように言われて、桔梗ききょうは少しばかり困惑してしまう。


「良いですか?貴女あなた様が居なくなってしまったら、そもそも、この依頼を受ける理由もなくなってしまうと言うものなのですよ。そこら辺を貴女あなた様は分かっておられますか?」

「いや……まあ……それは、重々承知しておりますし。危なくないようには気をつけますから。」

 そう桔梗ききょうが言うてみても、ふではまだ心配そうに口を開く。


桔梗ききょうさん。無茶はしてはいけませんよ。」

「分かってますって。」

「分かってても、なにしろ桔梗ききょうさんですからねえ。」


「私ってそんなに信用無いんでしょうか……。」

 流石に言われすぎて、桔梗ききょうがちょっとだけ拗ねたように呟くと、ふでは軽くだけ笑って、何も言わぬまま再び歩き始めていた。


 二人が歩く道なりには、脇を占める武家屋敷が立ち並んでいて、それはどこにも背より高い塀が建てられているせいなのか、進んでいるうち、まるで長い牢獄に囲われているかのような心持にすらなってしまう。


 塀の少し上からは、黒塗りの立派な瓦屋根が顔を覗かせるが、後は時折松やら楓やらの枝葉が見えるぐらいで、目移りに乏しくどこもかしこも同じような風景が続いていく。


 ただ、貧乏な武家なのか穴が開いているような塀に出くわすこともあり、その穴を桔梗ききょうが覗き込んでみると、案の定のように壁のあばらが浮き出しになったような家が中に立っているのが見えた。


 そうして、しばらくを道を進んでみると、一層大きな屋敷の壁を境とした丁字路に出くわして、その角を二人で右へと曲がる。


 不意にわいわいと人並みの話しながら往来する騒がしさが伝わってきて、どうやら商店の立ち並ぶ道へと近づいていることがわかる。屋敷を一つ分歩いてみると、その曲がり角からは塀もなく大きく道並みへと入り口を開く店が幾つも並んでいるのが見えた。


 ひっそりとして閑静だった武家屋敷の通りとは全く雰囲気が変わって、一気に往来を行く人波が激しくなりにわかに活気づいて見える。同じ町にも拘らず、区域が変わるだけで本当に違う街かのように彩を異にしている。


 ひっきりなしに人の行きかう間を二人で掻い潜って、その動きの波へと入り込むと、往来を北から南へと向かって歩いていく。


「いやはや、ご老人の家に居て忘れていましたが、本当に騒がしい街ですね。」

 ため息交じりにふでが言うのを、桔梗ききょうはどこか楽しんで頷く。


「でも。江戸よりかはましではないですか?」

「どうでしょうかねえ。声の騒がしさは兎も角も、少なくとも見た目の煩わしさは江戸よりも上でしょうよ。」


 道を歩く人たちの着物が青やら黄色やら桜やらと色とりどりに現れては消えていくことに、軽く眩暈を憶えたのかふでまぶたを軽く擦って顔をしかめてしまっていた。


「それは――確かに、そうかもですが……。」

 苦笑してしまいながら桔梗ききょうが頷くと、ふでは「そうでしょう?」と愉しそうに更に言った。


 そこでふいと、ふでは鼻をすんっと鳴らすや、途端に、きょろきょろと左右に視線を巡らせる。どうかしたのかと思っていると、すぐに桔梗ききょうも周囲に漂ってくるとある匂いに気が付いて顔を上げる。


 行き交う人の風に乗って、煮返しの香ばしく甘ったるい匂いが漂ってきていた。

 それで桔梗ききょうも顔を上げてふでの顔を覗き込む。


「これって、もしかして蕎麦の匂いですか?」

「近くにあるんでしょうか?」


 ふでに倣って桔梗ききょうも周囲を見渡してみると、道の反対側に、遠く二つ程も店を過ぎた先の建物に『生蕎麦』と書かれた看板があるのを見つけた。


「あ、ありましたよ筆殿ふでどの。あそこです。」

 くいくいっとふでの袖を引っ張って指を伸ばしてみると、ふではひょいっと背を伸ばして視線を高くするや、掌で日よけを作ってその方向へと視線を向けた。


「おや、確かにありますねえ。」

「あそこが蕎麦屋みたいですね、入ってみますか?」

 桔梗ききょうが尋ねると、一にも二にもなくふでは頷く。


「入りましょう入りましょう。」

 そう言った時にはもう、ふでの足取りは軽く、まるで浮き立つように歩きながら店の方へと向かっていた。


 そう言う姿を眺めていると、先ほど表情も変えずに男の指を三本弾き飛ばした人間のようには全く感じられず、桔梗ききょうは本当にふでと言うの人間が良く分からなくなっていく。


 大通りを伝って北へ向かう人や、南へ向かう者の間をすり抜けて、ふでは誰一人ともぶつからずに見事な足取りで、するすると蕎麦屋の店へと向かっていく。そ

 の後を桔梗ききょうは慌てて追いかけようとするが、道行く人に衝突しては揉みくちゃにされて、店の入り口に辿りつくころには髪が幾分か乱れてしまう有様だった。


 入り口で桔梗ききょうが辿りつくのを待っていたふでは、その乱れた頭を見るや「おやまあ」と目を見開いていた。

 少し呆れた表情で笑いながらふでは、桔梗ききょうの乱れた頭を軽く撫でつける。



「やめてください。」


 そう言って、少しばかり桔梗ききょうが嫌がると、ふでは「はいはい」と軽く言いながら、それでも手を止めずにぱっぱっと逆立った髪の一房を払った。 

 それがくすぐったくて、桔梗ききょうは思わず肩を竦めてしまう。


 そうして、ふでは、そんなことは何でもないと言うように顔を店へと向けると、さっさと暖簾をくぐって中へと足を踏み入れていた。

 続いて桔梗ききょうも敷居を跨いでみると、途端に鼻先に蕎麦の爽やかな匂いと、煮返しを沸騰させた甘みの強い香りが漂ってくるのを感じる。


 食べてみないと味など分からないが、それでも、この香りだけで入って良かったと思えてしまうほどに、旨そうな匂いであった。



「ほう。」


 と、傍らでふでも満足げな表情を浮かべている。


 店の中へと視線を向けてみると、中は土間が大きく広がり、入り口から左手に三脚、右手に一脚の長椅子が備えられ、幾人もの男が座っていた。


 この手の店となると、机のようなものはないため客はみんな丼を椅子の上に載せるか、手の中に抱えて熱くなる前に急いでずるずると啜っている。


 右手側には調理場なのだろう、衝立越し、もうもうと立ち込める湯気の奥に菜箸を握った男の姿が僅かに覗いていた。


 更に左手側の奥には畳を敷いた座敷があって、そこでゆったりと食事をしている男達の姿がちらほらと見つけられた。



「おや、いらっしゃい。」


 店の給仕をする花番の女性が、とたたたっ、と軽く足音を立てて近寄ってきた。


 花番とは蕎麦屋で給仕をする女性の総称である。


 店の花であることから、そう呼ばれる。


 そんな花番が歩み寄ってきて、二人へと顔を覗かせた。

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