49.試し七 - 蕎麦喰い一

筆殿ふでどの……。」

 桔梗ききょうは呟くように言って、ふでへと視線を向けた。


「なんでしょうか。」

「心が決まりました。私は筆殿ふでどのと一緒に参ります。」

「……そうですか、それは……嬉しうございます。」


 ふでは今までに見たことのないような屈託のない笑顔を浮かべた。

 何とも分かりやすく、満面に嬉し気な笑みを見せた彼女に、桔梗ききょうは思わず面食らってしまう。

 そんな二人のやり取りを、傍らで眺めていた老人は、ふむと頷く。


「お主らがそれでよいのなら、儂は段取りをしておこう。」

 横から口を挟まれたふでは、あからさまに嫌そうな顔を老人へと向けた。


「ご老人、折角の良い雰囲気ですのに、台無しではありませんか?」

 むしろ苦々しく老人は顔を渋らせる。


「お主なぁ……。儂を本当に誰だと思っておるのだ。」

「知りませぬよ。もう忘れました。」


「~~~っ……。」

 困った表情で頭を掻きながらも、老人は仕方がないと諦めて膝を一つ打つ。


「まあ良い。妃妖ひよう……いやふで殿、依頼の件よろしく頼むぞ。」

 老人が言うと、ふでは垂れ目がちな目尻を僅かに上げて不敵に頷いた。


「ええ。ご随意に。」


* * *


十四


 二人が老人の家を出てみると、空は幾分か明るさを失い、昇っていた太陽もいささか西へと傾き始めていた。


日の長い季節ではあったが、もう一、二刻もすれば夕闇が迫ってくるのだろう。それを分かっているのか道行には、道場からの帰りだろう武家の子息たちが、ぽつりぽつりと道から近くにある家の中へと入っていくのが見える。


 武家屋敷の立ち並ぶ道を歩きながら、ふでは悩ましい顔を見せて空を眺めあげた。見上げた先では、全身真っ黒な烏が一羽雲もない空を横切ると、わさわさと大きな羽を震わせて近くの屋敷の屋根へと止まる。


そうしてカアっと間の抜けた烏特有の鳴き声を周囲へと響かせる。それを合図とするように、ふでははあっとため息をついていた。



「さてさて、これからどうしたものでしょうかねえ。不逞の輩を斬るのは良いのですが、その相手がどこに居るものやら……。困りましたねえ。」

 投げっ放す勢いでふでが言うたものだから、桔梗ききょうは思わず眉を顰めてその顔を見つめてしまう。


「もしかして筆殿ふでどの……何の考えもなしに依頼を受けたのですか?物凄い自信満々な顔で『ご随意に』などとおっしゃってましたが。」

 言われてふではとぼけた顔で口を窄めて見せる。


「それは……あのご老人が妙に期待満々な顔をしておりましたからねえ。つい、その場の勢いで……。」

「つい、じゃないですよ。どうするんですか?成瀬様、何かもう勝負に勝ったかのような期待した顔をなされていましたよ。」


 一応に二人は老人から暗殺に来ている者たちの特徴は聞いていた。容姿やら名前やら、探すのに役立つ情報はあったが、実際にどこにいるかなどと言うことは当然のことながら分からなかった。

 居場所を突き止めるのも二人で解決してほしいということなのだろう。


「いやはや、どう致しましたことですかねえ。」


「どうしましょうね……じゃないですよ。あの、一つ聞きたかったんですけど。筆殿ふでどのって本当に、その妃妖ひようとか言う人斬りなのですか?やっぱり筆殿ふでどのを見てると、そんな感じが全くしないんですが。」


「さあて。そもそも桔梗ききょうさんは、その妃妖とか言うのを、どう言う人だとあのご老人に言われたんですか?」

「どうでしょうか。なにやら成瀬様は頭のおかしい人殺しみたいな言い方をされてましたけれど。例えば、一つの城の人を全員殺したって。」


「はあ……それは怖いですねえ。そんな方が本当に居らっしゃったら恐ろしいですよ。」

出鱈目でたらめなんですか?」

「どうでしょう、そんな方のこと私は知りませんので。」

 すっ呆けた口調でふでははぐらかした。


 やはりと言うべきか、何と言うべきか、と心の中で独り言ちて桔梗ききょうは仕方ないと諦めつつも、何となく寂しさを感じていた。


「これから一緒に居ようって相手にも、筆殿ふでどのはそんな感じなんですか?」

 思わず桔梗ききょうは口に出してしまうと、多少自分でも言いすぎたと言う気持ちを持ちつつ、それでも言葉を続ける。


「いつか私に、筆殿ふでどののこと何か教えてくださったりするんでしょうか?」

「ふむ……。」


 それだけ呟くとふではそれ以上に何も言わず桔梗ききょうのへと手を伸ばすと、その髪を一房摘まんでさらりと撫でた。

 するすると指先で髪を弄って、すうっと桔梗ききょうの頭を撫で上げる。柔らかい髪の毛がふわっと乱れて、緩く舞い落ちていく。


「それ……誤魔化しているつもりなんですか?」

 呆れた顔で桔梗ききょうが尋ねると、ふでは髪を撫でながら目を細めて首を振るった。


「いえ、そういうつもりではありませんよ。ただ、何というべきか言葉に困ってしまいましてね。」

「……何も教えて貰えないんでしょうか?」


「そうですねえ……例えばですが、例えば、月見そばの卵は割る派か、そのまま食べる派か、そう言うことなら教えられますよ。興味あります?」

「それは別に言わなくて良いです。全く……。」

 やれやれと桔梗ききょうは溜息を漏らした。


「そうですか?ちなみに桔梗ききょうさんはどちらで?」

「私は卵を途中で割る派ですけど。それはどうでもいいですよ。」

 改めて桔梗ききょうは溜息を漏らす。


 ただ、その途端にくうっと可愛らしい音が鳴った。

 不意に桔梗ききょうは顔を赤くすると、慌ててお腹を掌で押さえていた。


「おや、桔梗ききょうさんのお腹は、可愛らしく鳴くものなんですね。蕎麦の話をして、空腹を思い出しましたか。」

「うぅ……。」

 恥ずかしさで桔梗ききょうは顔を真っ赤にしながら小さな呻き声を上げていた。


「まあ、差し当たっては、腹ごなしを致しましょうか。私も随分とお腹が空いたことですし。」

「えっと……あの、お腹を鳴らした私が言うのも何ですが、そんな悠長なことで大丈夫なんでしょうか。」


 暗殺者達を探す手がかりもない状態で、飯を食べに行っている余裕などあるのだろうかと、桔梗ききょうとしては心配になってしまう。

 ただふではそんなこと構いもしないように、平静な顔で歩き出していた。


「なあに、腹が減っては何とやらですよ。」

「何とやらですか?」


「慣用句ですよ、何だったかは忘れましたがね。なあに、依頼のことは飯屋を探す道すがらにでも考えればいいじゃありませんか。とりあえず行きましょう。」

 そう言ってふでが歩き出すものだから、桔梗ききょうは慌ててその背中へとついていく。


 何だかんだと言っても、三日ほどの殆ど食べていなかった桔梗ききょう自身も、お腹は酷く空いていて、食事に行くという魅力的な提案に異を唱えきれずにいたのであった。


「名古屋はどんな食べ物が有名なのですか?名物とかあったりするのでしょうか?」

 武家屋敷の立ち並ぶ道を歩きながら、桔梗ききょうの方へと顔を向けてふでは興味本位で一つ尋ねていた。


「どうでしょう……せきの辺りまで行けばうなぎが美味しいですが、名古屋は町人街ですから、取り立てて名産と言うものは……。」

「ないのですか?」


「あ、でも、そうですね、名物と言うわけではありませんが、堺や江戸とは料理の味付けが違いますから、他所から来た人はそれを珍しがりますね。」

 ほうっと、興味深そうにふで桔梗ききょうの顔を覗き込む。


「味付けですか、例えば何が違うのです?」

「分かりやすいのだと、それこそ蕎麦とかですかねえ。汁が妙に甘っこいんですよ。」


「ほほう。甘い蕎麦ですか……想像がつきませんが、それはちょっと食べてみたくなりますね。」

 顎を撫でながら興味深そうにふでは小さく「ふむ」と唸る。



筆殿ふでどのは、先ほども月見がどうと言っていましたが、もしかして蕎麦が好きなのですか?」


「ええ、ええ、好きですよ。あれは良いものです。」


 言いながらふではうんうんと頷いて、ぽんっと手を叩く。



桔梗ききょうさん、そう言うことでしたら、今日は是非蕎麦を食べましょう。私としてはその甘っこいと言う蕎麦の味を見てみたいものです。」


「良いですが、筆殿ふでどのの口に合うかは分かりませんよ。」


「良うございますよ。そう言う当たり外れも、また食事の楽しみと言うものでしょう。」


 口元を緩めてふでは楽し気に言うと、足取りがどこか浮足立っているかのようで、肩が大きく揺れている。


 まるで小さな子供のような態度で、そう言う姿を見ていると、桔梗ききょうからすると、やはりこの人が名の通った人斬りと言う話は俄かに信じがたく思えてしまう。


 浮足立って道を歩いていたふでは、ふと思い出したように空を眺めあげる。

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