33.子守歌三 - 剣と華と一

 微かに身を屈めたのか桔梗ききょうの顔が近づいてきて、その頭の陰に空が隠れてしまうと、視界の中には彼女の緩い笑顔だけしか見えなくなっていた。

 その表情は余りにも穏やかで、じっと見つめてくる桔梗ききょうのその顔に、ふでは僅かばかり見入ってしまう。


 ぱちりとした円らな瞳でふでを見下ろしながら、優しい表情を浮かべ、桔梗ききょうは口を開いた。


筆殿ふでどのは本当のところ昨日も一昨日も、ほとんど寝ていませんでしょう?今日ぐらいはゆっくり寝てくださいな。」

「そんなことを言って、それで襲われたらどうするつもりです?」

「その時には慌てて筆殿ふでどのを起こしますよ。」


 くすりと桔梗ききょうは笑って見せるが、その指先は僅かばかりに震えていた。

 本当の気持ちを言えば心底に怖いのだろう、焚火のともしびに照らせれて陰影も薄くなった表情だったが、それでもどこか強張っているように見えてしまう。


 正直な話、彼女では誰かが襲ってきたことを悟る前に、あっさりと首を斬られて死んでしまうのだろうと思えてしまったが、それは口にしないことにしてふでは、自らの頭を柔らかい太もももの中へと埋め込めた。


「私は寝ずとも大丈夫なんですがね……。」

「そう言わずに。休まれてくださいよ。」


 強いて優しくしたような口調で言いながら、桔梗ききょうはすっとふでの首元へと掌を乗せると、するりと喉から胸までかけて手を滑らせる。そうして掌の触れた部分を幾度もさらりさらりと撫でていく。その手つきはひどく柔らかくて、どこか心地よかったが、そうする行為の意味が分からずに、ふで桔梗ききょうへと尋ねてしまう。


「これは?」

「こうすると寝付きやすくなるんですよ。里で赤子の世話を任されたときに、そう教えられました。」

「私は赤子ですか?」


 多少混ぜっ返すつもりで尋ねてみたが、桔梗ききょうはそれこそ、ぐずる子供をあやすかのように困った笑顔を浮かべて、するりと頭を撫でた。


筆殿ふでどのに寝ていただきたいだけです。」

 頭に触れさせた掌で髪をするすると何度も撫でていくと、ゆっくりと桔梗ききょうは何やら拍子にのせて、妙な抑揚をつけた小唄を一つ口遊くちずさみ始めた。


――さくらべにしたかんばせ

  おしろいゆる上乗うわのせて

  半端はんぱかえでいろづくころに

  ようようこころいろづいた

  女々子めめこ道行みちゆ先々さきざき

  ひとひとよとかさなせならぶ――


 ゆるゆると間延びしながら奇妙な抑揚の効いたその歌声は、高く、淡く、そして透き通っていた。

 パチパチと火の粉を舞わす焚火の音がつづみのように小気味の良い拍子を奏でて、それに合わせて伸びやかに歌声が重ねられていく。


 年頃の女が乙女心を芽吹かせるや化粧をして歩き回り、それを村の男がこぞって眺めに来る、言葉を聞くに、そんな内容であることは分かったが、今までに耳にしたこともない真っ新まっさらな歌であった。

 それでも、穏やかで澄んだ桔梗ききょうの声は、何とも聞き心地が良くって、ふでは耳を澄ましてしまう。


 そのまま続けて、桔梗ききょうは、その小唄を何とも穏やかにゆっくりと口遊くちずさんでいく。


――あかね空色そらいろまり

  かお色艶いろつやすければ

  ひと人子ひとこほお

  女々子めめこさき

  たれかれもがかおむ――


 続けて口遊んでいく桔梗ききょうの歌が、僅かに息を吸おうとしたのか不意と途切れたのを感じ、ふでは思わず口を挟んだ。


「それは一体何の歌ですか?初めて聞きましたが。」

 聞くうちに多少の興味をもってきてふでが尋ねてみると、桔梗ききょうは歌うのを止めて、何が恥ずかしいのか、そっと目を伏せて頬を赤らめていた。


「すみません下手な歌を……。寝るのを邪魔してしまいましたか?」

「いえ、下手などではありませんよ。ただ、何の歌か聞きたかっただけなのですが。」


「あ……筆殿ふでどのも知りませんか?私も良く知らぬのですが、ただ、私にはこれが子守歌だったんです。育ての親が小さいころによく聞かせてくれました。」

「そうですか子守歌ですか……。」


 もう大の大人である自分に髪を撫でて子守歌を歌ってくる桔梗ききょうに、やはり少しばかりふではおかしさを感じてしまって軽く笑う。


「迷惑でしたらやめましょうか?」

「いいえ、歌ってください。うたの意味は良く分かりませんが、桔梗ききょうさんの声は気に入りました。」


 見上げていた目をはたりと閉じてふでがそう言うと、「そうですか」と、どこか嬉しそうに頷いて桔梗ききょうは再び歌を口遊くちずんでいく。


 焚火の灯る森の闇の中へと、緩々ゆるゆると、連綿れんめんと、桔梗ききょうの歌は響き渡っていき、そうして一番最後まで歌い切ってしまったのか、僅かに一息を入れると、彼女は最初の言葉から、また歌い始めていく。


 どうにもこうにも桔梗ききょうは寝かせたかったようだったが、歌を聴くふでに眠気など全くなくて、元より寝る気などさらさらもなかった。ただ、こうして目を瞑っていれば、そのうち寝たかと勘違いして止めてしまうだろうとふでは独り考えながら、まぶたの奥に映る闇を見つめ続けていた。


 そうやって、しばらく歌を聞き続けていているうちに、徐々に彼女の声が途切れ途切れとなっていくのを感じる。


 ふと目を開けてみると、桔梗ききょうは僅かに顔を俯かせて、こくりこくりと顔を揺らして眠り始めているのが見えた。


「なんともまあ、また、器用に寝るものですね。」

 多少呆れながら、眠るギリギリまで子守歌を口ずさみ続けていた彼女の顔を、僅かばかり感心する心持でふではじいっと眺めあげる。


 広がる星空を背にしてうつらうつらと揺れる顔は妙にあどけがなくって、無垢なその寝顔を見つめているうちに、どこか胸の奥が詰まるような気持ちが溢れてきて、不意とふでは目の端から涙を滲ませていた。


「おや……どうしてでしょう……。」


 なぜ自分の目から涙なんぞが溢れてくるのか理解できずに、ぐずり鼻を一つ鳴らすと、ふでは目の前にある桔梗ききょうの顔へと手を伸ばす。


 寝転んだままに、彼女の頬へと掌を触れてさらりと撫でながら目を細めた。


 可愛らしく眠る桔梗ききょうの顔へと触れていると、どうしてなのだか分らなかったが、どこか心が落ち着いてほっとしてくる。


 このまましばらくは、こうしているのも良いか。


 そう感じて、ふではふっと口元を緩めると、そっと目を閉じていた。


* * *


十一


 旅の三日目ともなると言うべきか、その日は桔梗ききょうも多少早い時間に目を覚ました。


 真上に見える中天に薄っすらと夜の影がまだ残るころ、はたと瞼を開いた桔梗ききょうは肘を立てて横たわらせていた体を少し上げると、きょろきょろと周囲を見渡した後に、ふでの姿を見つめて、呆とした表情を浮かべたかと思うと、不意に「あれ?」と小さな声を上げていた。


 自分の近くにふでがいないことと、自分の体が昨日覚えているまではしていたはずの姿勢とは違うことに気付いて、ふわふわと両手で空をかき混ぜるかのような意図の分からない挙動を見せると、桔梗ききょうはすぐに申し訳なさそうな表情で顔を俯かせた。


「あの……もしかして……私、先に寝ちゃいましたでしょうか?」

「寝ちゃっていましたねえ。」


 からりと筆が言ってしまうと、

「うあう……。」

 と、変な声を上げた後に桔梗ききょうは直ぐに頭を下げる。


「申し訳ないです。その自分で言い出しておいて、先に寝るなんて……。」

 段々と小さくなっていく声で呟いて、俯きながら桔梗ききょうは分かりやすく落胆した表情を見せる。


 ただそれも、ふでからしてみれば、寝かしつけてくれるなんてことは最初から期待もしていなくて、澄ました顔で体を左右に揺らすと小さく笑った。



「構いませんよ。最初から私は大丈夫だと言ったんですから、気にしません。」


「しかし、私から言っておいてこの体たらくは流石に……。うう……。」


 言い出しておいて先に寝てしまったのが余程自分で情けないのか、自分の顔を両手で抑えながら頬を真っ赤にして項垂れている。


 そんな態度を他所にして、くっと腕を宙に掲げて背を伸ばすと、ふでは首を傾げてこきりと関節を鳴らした。



貴女あなた様がどこか抜けたところがあるのは、この二日で良く存じておりますから、私は今更どうとも思いませんよ。」


「あ、いやっ、それは、そのう……本当に、全く返す言葉がないです……。」


 流石にムッとして言い返してくるかと思いきや、彼女は一層に肩身を狭くして恐縮してしまっていた。


 多少言いすぎてしまったかなと思いながら、気まずさを振り払うつもりふでは立ち上がると裾についた土埃を手先で払うってみると、そのまま目を反らしながら桔梗ききょうへと手を差し伸べる。



「まあ、旅の行程もあと少しですからね。さっさと出発してしまいましょう。立てますか?」


 尋ねてみると、桔梗ききょうは素直に頷いて、伸ばされたふでの手を握りしめてきた。

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